『放課後ノイズ』 ――声で恋をした。顔も知らない、すぐ隣の人に。

斎宮たまき/斎宮環

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第6話 音の境界線

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 文化祭前日の校舎は、いつもより早口だった。
 装飾のセロハンテープが切れる音、ペンキのふたが開く音、クラスTシャツを抱えて走る足音。
 それら全部が混ざって、晴れた空の下でかすかなざわめきに変わる。
 御影悠真は、ケースを肩にかけ、人混みの隙間を縫って音楽室へ向かった。
 四拍で歩く。半拍を、長めに吸う。
 自分の中に作ったメトロノームが、いつもより頼りなかった。

 扉を開けると、アンプの電源はまだ落ちているのに、室内にはすでに“音の形”が漂っていた。
 スネアに置かれたミュート、鍵盤に重ねられたケーブル、譜面台に立てられた白紙のファイル。
 斎木がスティックを指で転がし、片瀬がストラップの長さを調整している。
 安堂はシンセのパッチを迷って、眉間に皺を寄せた。

 空閑透真は、窓際に立っていた。
 朝の光を背にして、喉に白いタオルを当てる。
 それだけで、誰もが一瞬だけ手を止めた。
 沈黙は、拍より正確に場を揃える。

 「——おはよう」

 いつも通り低い声。けれど、声量が半歩分、奥に下がっている。
 「今日、最終合わせ。転換三分、音出し一分。…いけるところまでいく」
 いける——という言い方が、いつもと違う。
 彼は“やる”と言う人間だった。
 “いける”と口にするのは、どこかに見えない境界線が立っている合図だ。

 カウント。
 いち、に、さん、し。
 音が立ち上がる。
 ハイハットは正確、ベースは太い線、ギターはアルペジオで空気に階段を作る。
 鍵盤のパッドが薄膜を張ると、いつもならその上に“声”が降る。
 降りてこない。
 二小節、三小節。
 透真は口を開いて、閉じた。
 四小節目の裏で、わずかな咳。

 「……止め」

 斎木がスティックを握り直す。片瀬が視線を床に落とす。安堂は黙ってパッドを切った。
 透真はマイクから半歩下がり、タオル越しに喉を押さえる。
 目は笑わない。いつも笑わない目だが、今日はさらに曇りが増して見えた。

 「どうすか、先輩」斎木が恐る恐る。
 「乾いてるだけ」
 そう言うが、乾燥だけでは説明できない沈黙が続く。

 もう一度、頭から。
 今度は一行だけ歌い出せた。
 低音は出る。が、すぐに折れた。
 「——止め」
 首の後ろで、タオルの端を結び直す手つきが、落ち着きすぎていて逆に不安を煽る。

 顧問が顔を出したのは、そのときだった。
 「空閑」
 短い呼びかけ。
 透真は振り向かない。「大丈夫です」
 「大丈夫じゃない声に聞こえる」
 少しの沈黙。
 顧問は言い淀み、結局、「医務室で蜂蜜レモン、もらえ」とだけ言って去った。
 扉が閉まる音が、やけに乾いて響いた。

 「——御影」

 名を呼ばれ、悠真は無意識に背筋を伸ばした。
 「はい」
 「昨日と同じ。Bメロ、メイン入れ。サビ頭オクターブ。…行けるか」
 「行けます」
 即答は、勇気というより、恐れから出た。
 怖いときほど、言葉は最短距離で前に出る。
 透真は頷き、「合わせる」とだけ言った。

 再開。
 悠真が声を置く。
 言葉を前に押し出すと、胸郭の内側で二種類の呼吸が押し合いを始める。
 ギターの息と、喉の息。
 それでも、四拍と半拍のあいだに息を置く位置は体に入っていた。
 Bメロ、五度は張らずに伸ばす。
 サビ頭、オクターブ——
 成功。
 ステージの床が半枚だけ軽くなる感覚が、足首に伝わった。

 その直後、メインが落ちた。
 透真の声が、ひっくり返ったのではない。
 声が、来なかった。
 空気の上に、置くはずだった声の形だけが残る。
 「……止め」

 呼吸の乱れを悟られたくない人の、短い言葉。
 悠真は、自分の喉の奥まで冷たくなるのを感じた。
 「すみません」
 謝るのは誰でもよかった。
 謝罪は、場を埋めるための砂利だ。
 透真はその砂利を蹴飛ばすように首を振る。「謝るな。——俺が、出ない」

 出ない。
 その言葉は肯定ではなく、報告だった。
 報告は、方針を必要とする。

 「空閑先輩。……明日は」片瀬が言いかける。
 「やる」
 即答。
 “やる”と言える人が、今“出ない”と告げた。
 言葉同士が喉で衝突して、場に落ちた破片が痛い。

 休憩。
 透真は医務室へ向かい、戻ってこなかった。
 斎木はスティックを鞄に突っ込み、安堂は鍵盤のフタをそっと下ろした。
 「……どうする」
 誰にともなく、片瀬が言った。
 「御影、歌える?」
 「歌います」
 出た声は、さっきより低く安定していた。
 決めると、人は少しだけ重力を得る。

 ほどなくして、扉が開いた。
 透真が戻る。
 喉を冷やすパックをタオルの下に挟み、息を浅くする。
目だけで全員の顔を順に見渡し、最後に悠真で止めた。

 「——代わりに歌え」

 命令とも、依頼ともつかない声音。
 音の密度だけが異様に高い。
 「はい」
 悠真の返事は短く、自分でも驚くほどまっすぐだった。
 「構成はそのまま。キー、半音下げる。…安堂、移調用意」
 「了解」
 「斎木、クリックの位置、さっきより深く。ベース、サビ頭で踏み込むな。——御影」
 「はい」
 「歌詞は、言え」
 “歌え”ではなく、“言え”。
 その違いが、喉の奥で灯をともす。

 合わせる。
 悠真の声に、バンドが合わせる。
 昼の音楽室に、夜の匿名の呼気が微かに混ざる。
 境界線がにじむ——にじむが、まだ混じりきらない。
 混じりきらないところに、音の輪郭は生まれる。
 Bメロは言葉。サビは呼吸。
 言葉が前に、呼吸は裏に。
 最後のコーダ、ギターをほどいて、声だけで落とす。
 終わりの静けさに、誰もすぐ言葉を入れなかった。

 「……行ける」

 透真の一言で、場の重心が戻る。
 斎木が浅く笑い、片瀬が拳を握り、安堂が小さくサムズアップをした。
 顧問が再び顔を出して「タイムテーブル、貼っとくぞ」と言い、伝言だけ置いて去る。
 世界は、段取りで回る。
 それでも、今この部屋だけは、音でしか動かない。

 解散。
 機材を片付け、扉の前で靴紐を結び直す。
 透真が、呼ぶでもなく近づいてきた。
 「御影」
 「はい」
 「明日、俺はステージに立つ。——喉は、出ないかもしれない」
 「……はい」
 「前に行け。俺の前に行け。俺の分まで、前に」
 その言い方は、初めてだった。
 いつも、彼は“前に行く”のが自分の役割で、他人には“合わせろ”と言う人だった。
 「行きます」
 即答の軽さを、怖さが追い越す。
 怖いという感情が、初めて“嬉しい”と同じ体温で胸に滞在した。

 廊下に出る。
 窓の外の空は、既に夕焼けの向こうの藍に傾いている。
 練習で乾いた指に、金属の手すりがひんやりと触れた。
 その冷たさが、かえって今の自分の熱を教える。

 *

 夜。
 家の灯りを落とし、机の上だけに白い円を作る。
 ギターを立てかけ、スマホをスタンドに固定して、〈Echo〉を開く。
 タイムラインに、ひときわ静かな通知が滲んだ。

 —Rei:今夜は、これが最後の配信

 最後——という言葉が、静かに胸を叩く。
 文字の向こうの彼の喉に、氷のパックとタオル、薄い呼吸、浅い沈黙が見えた気がした。
 —Yuu:聴いています
 —Rei:ありがとう
 —Rei:言葉が、上手く並ばない
 —Yuu:並べなくて大丈夫です
 —Rei:明日、ステージで会えたらいいな

 “会えたらいいな”。
 願望の形をした、約束。
 約束の形をした、願い。
 画面の白い余白が、やけに広い。
 その広さに飲まれないよう、悠真は指先を組んだ。
 —Yuu:会いに行きます
 —Rei:…来い
 —Yuu:はい

 配信が始まった。
 カメラはない。
 音だけの世界。
 暗闇の奥で、彼の息が少し揺れる。
 ギターの開放弦。
 低い、かすかなハミング。
 言葉にはならないが、旋律の影で“祈り”に似た何かが動く。
 彼は歌わない。
 歌えない。
 けれど、音はある。
 音がある限り、沈黙は孤独の別名ではない。

 —Rei:……御影
 画面が、心臓のように一度跳ねる。
 ——いま、“御影”と言ったか。
 いや、言っていない。
 文字では、打っていない。
 でも、呼ばれた気がした。
 名前のない呼びかけが、画面のこちら側で確かに“自分”の形を取る瞬間がある。

 —Rei:君の声で、前に行ってほしい
 —Yuu:行きます
 —Rei:怖かったら、半拍、待て
 —Yuu:はい
 —Rei:それでも怖かったら、俺の名前を呼べ
 —Yuu:……
 —Rei:心の中ででいい

 心の中で名前を呼ぶ練習なんて、今までしたことがない。
 それが何に効くのかも、まだ知らない。
 けれど、“効く”と信じられるほどに、今の言葉は正確だった。

 配信の最後、彼は短く息を吸い、言った。
 —Rei:おやすみ、Yuu
 —Yuu:おやすみなさい

 画面が暗くなったあとも、耳の奥で彼の浅い呼気が続いた。
 イヤホンを外しても、消えない。
 自分の肺がそのリズムに合わせて動きたがる。
 窓外の虫の声が、不揃いな拍で夜を刻む。
 その不揃いの上で、四拍を数え、半拍を長く待つ。
 明日のステージの床に、その“間”を、正しく置くために。

 ベッドに横たわっても、眠りは遠かった。
 目を閉じるたび、音の輪郭が鮮やかになる。
 体育館の暗い袖、ライトの熱、観客のざわめき、マイクの銀色、ケーブルの黒、アンプの唸り。
 そして、透真の横顔。
 喉に白いタオル。
 目だけで合図を送る彼。
 前に行け、と言った人。
 俺の前に行け、と言った人。

 恐れは波のように来る。
 来るたびに、同じ位置に立ってはいられない。
 半歩だけ前、半歩だけ横、半拍だけ後ろ。
 小さな位置の調整で、人は沈まない。
 沈む代わりに、浮かぶ。
 浮かぶ代わりに、進む。

 浅く眠りかけては目が覚め、スマホの黒い画面を何度も見た。
 通知は来ない。
 来ない静けさが、約束の証明みたいに思えた。
 “今はまだ”の中にいる二人が、同じ明日へ進むための沈黙。

 ——名前を呼ぶのは、最後でいい。
 明日は、言葉を言う。
 歌ではなく、言葉を。
 そして、声で前に行く。
 その前で、半拍を待つ。
 彼がくれた場所に、彼が立てないなら、代わりに立つ。

 夜が明ける直前、窓の隙間から、薄い風が吹き込んだ。
 カーテンの裾が、わずかに揺れる。
 風の音は、名前を知らない。
 それでも、誰かを呼べる。
 耳の奥で、風と呼吸の境界線が重なった。

 ——明日、ステージで会えたらいいな。
 約束は、願いの形で胸に残り続けた。
 眠りの浅瀬で、その言葉だけが何度も再生される。
 再生のたび、半拍だけ長く、意識が黒に沈み、また浮かび上がる。
 何度目かの浮上で、朝が来た。
 夜のノイズが薄れ、窓外の空が白くなる。
 心臓は四拍を刻み、指は布団の端を小さくたたいた。
 ——行ける。
 口には出さないその一行が、やっと胸のどこかで確信に変わった。
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