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第四章:堕天使
贖罪
しおりを挟むアンジェロは自室のベッドの中で目を覚ました。軽い目眩と虚脱感がある。枕元にはアナスタシアがいた。
「‥‥殿下?」
「ご気分は?辛いところはありませか?」
囁くような慰りの声にアンジェロが大丈夫だと頷いた。
記憶があやふやでうわ言のような声を出す。
「僕は‥?」
「あれから三日ほど意識が戻らなくて心配しておりました。」
アナスタシアに手を撫でられ記憶を探る。ベルゼブルとの交戦で意識を失ったことに記憶が至りがばりと身を起こす。
「あいつは?!殿下は?!ご無事ですか?!」
「はい。アンジー様に助けていただきました。」
アンジーの名に目を瞠り安堵した。
「あれから『加護封じ』が解けたのか‥‥。よかった。三日も‥申し訳ありません。」
「いえ、ベルゼブルに触れられたのですから。」
「悪魔の穢れに触れたせいだとボスが言っていました。精神抵抗には成功しましたが、精神に相当負荷がかかり回復に時間がかかったと。」
そこで初めてアンジェロは視線をアナスタシアから外した。
「ナベルズ、いたのか。」
「最初からここにおりました。気がつきませんでしたか?」
アナスタシアの背後に立つナベルズはやれやれ、とため息をついた。
そして医師を呼びに部屋を出た。戸口にはリゼットが控えている。
「私も治癒を施しましたが医師の診察を受けてください。」
「ありがとうございます。でももう大丈夫です。見た目より頑丈ですので。」
加護のことを言っているのだろうか。過信しすぎだ。アナスタシアは顔を顰める。
「いえ、どうか診察を。穢れの汚染が残ってはいけません。」
「‥‥穢れ‥そうですね。わかりました。」
ふぅとアンジェロは俯き息をついた。そして沈黙が落ちる。
アナスタシアはアンジェロの手を握っていた。アンジェロの意識がない間ずっと握っていたのだ。
アンジェロの意識が戻ればこの手を放さなくてはならない。だがアンジェロの目が覚めた今、やはり手を放したくない。離れたくなかった。
アンジェロが倒れた姿が頭を掠めて手が震えた。
アナスタシアはナベルズより間接的にアンジーの語った話を聞いていた。悪魔に取り憑かれそうになっていた、と。
本当に間に合ってよかった。心からそう思う。
「殿下‥」
沈黙を破りアンジェロが口を開いた。
「何があろうとも今後二度と保護区域から出てこないようにお願いします。」
勝手に駆けつけたことを言っているとわかる。それは散々ナベルズにも言われた。アナスタシアは項垂れた。
「ごめんなさい‥」
「僕に長生きさせたければ必ずお守りください。」
「長生き?」
「寿命が十年は縮まりました。」
アンジェロは本当に久しぶりに愛らしく微笑んだ。
ここのところの緊張下での笑みと違った年相応の笑みに見えた。ぎゅっとアナスタシアの手を握り返してくる。
アナスタシアの鼓動が速くなった。
アンジェロは目を閉じて何か思案する。そして気怠げにゆっくり目を開け正面の虚空を見つめる。
「害意の、ベルゼブルの消滅が確認されました。任務は完了しました。僕との婚約は解消されます。殿下はもう自由です。」
アンジェロから向けられた微笑みにアナスタシアは苦痛で静かに目を伏せる。
やはりそうなるのか。婚約を継続してはくれない。側にいてくれない。アンジェロの気持ちはそういうことだったのだ。
誘惑など所詮できなかった。結局自分が何をしてもこの結果からは逃れられなかった。
身を貫くその悲しみを顔に出さぬよう、王女の仮面を被り微笑んだ。
アンジェロは躊躇うような何か堪えるような素振りを見せつつも言葉を継いだ。
「‥‥殿下。お願いがあります。」
「何でしょうか?」
「僕をお側に置いていただけないでしょうか?」
その言葉にアナスタシアは目を瞠った。
「殿下をお守りしたいです。この身を賭して殿下をお守り申し上げます。お側を離れないと誓います。ですから‥」
どうか僕を殿下のお側に。
その縋るような懇願にアナスタシアは震えて顔を伏せる。
悦びではない。絶望だ。酷く傷つけられていた。
それほどに守るとは、それは愛情ではないのか。婚約を解消するのに、今自分はもう必死にそれに耐えているのになぜそんな無神経で残酷なことが言えるのか。いくら自分への気持ちがないからといって。
‥‥ひどい。ひどすぎる。
王女の仮面を被り堪えていたのに涙が溢れ出した。仮面が剥がれ雫が膝の上の握った手に落ちる。
—— それでも。
大天使ラファエル。
私は今から罪を犯します。どうかお許しください。
王女の権威を使い我儘にこの人を繋ぎ止める。もうそれしか方法がない。
この残酷で愛おしい人と離れるなんて考えられない。耐えられない。
「‥‥いやです。」
その言葉にアンジェロが苦しげに顔を歪めた。瞳が仄冥く翳る。
アナスタシアは涙を拭いアンジェロに必死に哀願した。
「婚約を解消したくありません。どうか私の婚約者として側にいて。‥‥あなたのことが好きなの。」
その告白にアンジェロの体がびくりと震える。握られた手からそれがわかった。それとわかるほどに酷く震えて怯えている。
「‥‥それはできません。」
その言葉に打ちのめされながらも俯くアンジェロの手を握り、縋り付く。
「ど‥うして?」
「僕は穢れている‥からです。」
アナスタシアは言い募ろうとしてアンジェロに留められる。
「違います。悪魔の穢れではなく、‥‥血の穢れです。」
「‥‥よく‥わかりません‥」
アンジェロは苦しげに口元を歪めて微笑む。
「殿下は以前の僕をご存知ないんです。ご存知ない方がいい。それほどに穢れてます。僕は死神だったんです。だから殿下に添うことはできません。あの頃の僕のことを知ればきっと‥‥」
顔を伏せアナスタシアの手の中から己の手を引き抜こうとするがアナスタシアが両手でそれを掴む。
手を放してはいけない。二人の間の溝が広がってしまう。
今ならこの溝の意味がわかる。
遠ざけているのだ。嫌われないように。一緒に穢れてしまわないように。
「‥‥警護のお仕事ですか?」
「それは言い訳です。結果は同じですから。」
「でしたらそれは違います。命を救うためでしょう?」
アンジェロは眩しいものを見るように目をすがめ王女を見た。
「殿下は本当にお優しい。でも、それでも、です。穢れに善悪はありません。両親の命を食らった僕にできる唯一の贖罪と信じていましたが、振り返ればただの死神です。徒に罪を重ねただけでした。」
王女は理解した。
やはり全てはそこなのか。
一人生き残ったことへの罪悪感。
初めての面会でアナスタシアを励ますために語った。その惨事がここまでアンジェロを追い詰めていた。
「あなたはそれを喜ぶ方ではありません。アンジー様を見ればわかります。」
「アンジー?」
アンジェロは目を瞬かせる。
「ベルゼブルの時に‥、命を奪う罪を悔いておいででした。」
引き金を引く瞬間の言葉。あれはベルゼブルの魂の救済とアンジーの懺悔。言葉の意味はわからなかったがその思いは伝わった。
「あれはあいつの宗教観です。己の罪の赦しを神に乞う。」
「アンジェロ様も今赦しを乞うておいでですよ?」
死神を名乗る青年は目を瞠り言葉を詰まらせる。
「罪を悔いておられます。私を近づけまいとするのはそのせいですね?本物の死神はそのようなことをしません。」
アンジェロに微笑んだ拍子に涙が溢れた。
「あなたは優しい方です。どうかご自分ばかりを責めないで。死神などと、穢れているなんて言わないで。」
アンジェロは顔を歪ませて俯いた。その肩が震える。
「‥‥父と‥母が死んだのに自分だけ生き残って‥両親を犠牲に生かされて‥そんな自分に存在意義がありましょうか?誰かを傷つけて守るしかできない自分に‥‥」
「あります。どうか闇に閉じ籠らないで。側にいてください。」
そう囁けば泣くような咽び声がした。俯くままに手を握り返される。その手に温かい雫が落ちた。
そして死神は赦しを乞うて天使に贖罪の言葉を紡ぐ。
「‥‥ごめん‥‥ごめんなさい‥。殿下、好きです。どうか僕を殿下のお側に‥‥」
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