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今宵もリッチな夜でした

その29

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 それよりほんの少し前、月光の下にはフェドセイの哄笑が鳴り響いていた。
 全身から赤黒い影を無数の帯状に伸ばした彼はリウドルフの全身をそれで縛り付け、動きの一切を封じたのであった。
「どうしたんだい? 手も足も出せないようじゃないか。そうして不貞腐れたまま吸収される積もりかい?」
 手足のことごとくを赤黒い影によって縛られたリウドルフは、空中の一点に静止したままフェドセイと相対していた。
 未だ動きを見せない獲物へと、フェドセイは調子付いた様子で囃し立てる。
「このままお前の全てを吸い尽くしてやる。追い掛けるのに随分と手こずった割には、そこから先の手間は少なくて済むようだな。大人しく僕の一部となるがいい」
 その時、リウドルフは不意に独白する。
「……仕方が無い……では、少し強めに行くとするか……」
 呟くなり、彼は黒い骨だけの腕で、前方にたたずむフェドセイをおもむろに指さしたのであった。
 甲高く鋭い音が、骨の指先より夜空に鳴り響いた。
 瞬間、リウドルフの人差し指を起点として空気が揺らぎ、周りの赤黒い影を消し飛ばして、何か見えざる衝撃波のようなものがフェドセイ目掛けて急速に突き進んで行く。
「……何だ? 何をした?」
 突然の事に面食らいながらも、フェドセイは肩口に止まらせた銀色の甲虫を一斉にその方向へ飛翔させる。
 敵対する者を容赦無く穿うがつ銀の弾丸と化した紡錘形の虫の群は、だがものの半秒後、空中のる一点を境に跡形も無く消滅した。ただ一つの例外も許されず、さながら赤熱した鉄板に撒き散らされた水滴の如く瞬時にして蒸発したのである。
「なッ……!?」
 事ここに至り初めて驚愕と戦慄に顔を歪めたフェドセイは、自身の正面に赤黒い影を結集させて咄嗟とっさに防御壁を形成する。
 しかるにまたも半秒後、濡れた紙を突き破るよりも容易くその壁には大きな穴が音も無く開き、そして目に見えぬ何かがフェドセイの左半身に衝突したのだった。
 それは瞬きするいとまも設けられぬ、正に一瞬の出来事であった。
 フェドセイの左腕と左脚、及び脇腹の一部が爆ぜ飛ぶようにして消滅した。
「うわああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああッ!?」
 冷めた光を放つ三日月の下に、甲高い絶叫が木霊した。
 合わせて、リウドルフの体躯にまとわり付いていた赤黒い影も夜の闇の中にき消える。戒めから解放されたリウドルフは半身を失ったフェドセイへ、眼窩がんかに灯る蒼白い光をすかさず向けた。
「勝負ありだ。医療従事者の端くれとしてこういう宣告を下すのは不本意ではあるが、その傷は如何なる手を尽くそうとも決して治らん。何かで補填するならばまだしも、夜魔の再生能力を以てしても復元する事は不可能だ」
「な、何……!?」
 左の肩口の断面を右腕で押さえつつ、フェドセイが呻き声を漏らした。
 その彼の前でリウドルフは表情の無い髑髏どくろの顔を相手に向けたまま、辛辣ですらあるおごそかな口調で言葉を続ける。
「お前の肉体は真の意味で消滅したのだ。元素すら残さず、組成を根本から破壊されてな。これが『現世うつしよに在るべからざる力』……この朽ち果てる事無き朽ちた体と共に、幽世かくりよの淵より持ち帰らされた力だ」
 他方、一連の遣り取りを屋上から眺めていた司は、腕組みをして実につまらなそうに鼻息をつく。
「一思いに消し飛ばせばいいものを……何とも甘いお人だ」
 その頭上にて、リウドルフはフェドセイへと勧告する。
「お前を処罰するのは俺の役目ではない。だが、これまでの行ないに相応しい報いは受けて貰うぞ。大人しく縛に付け」
 しかし半身を失っても尚、フェドセイは緋色の瞳に灯る眼光を弱めようとはしなかった。
「認めるか、こんな結末……僕は誓ったんだ、あの御方を必ず蘇らせると……!」
「認めるのだな。結末とはいつも残酷だ。現実は個々の希望を尊重したりなどしない」
「いいや、まだだ……まだ手札は残ってる……!」
 リウドルフの峻険たる言葉を突っねると、そこでフェドセイは眼下へと刺すような眼差しを向けたのだった。
 即ち、廃屋の屋上でアレグラに支えられてたたずむ美香へと向けて。
「来いッ!!」
 フェドセイの緋色の瞳が吠え猛るように輝くのと一緒に、美香はびくりと体を震わせた。
「……は……い……」
 虚ろな呟きを漏らした少女の体から、赤黒い影がじわりとにじみ出す。
 それまで肩を貸していたアレグラが、初めて驚きに目を見張った。
「しまった! 魅了を受けていたか!」
 緊張に面持ちを硬くしたアレグラの横で、美香の体躯は赤黒い影に覆い尽くされるのと一緒に消失し、直後、中空にたたずむフェドセイのかたわらに出現した。そうして自身の虜となった少女の喉元に右腕を回して、フェドセイは美香を盾にする形でリウドルフと再び向かい合ったのだった。
「どうだ!? もう一度同じ真似が出来るか!?」
 フェドセイはそのおもて憔悴しょうすいを多くのぞかせながらも、未だ好戦的な眼光を衰えさせない。
「さっきふるった力、恐らく微妙な加減は利かない代物だろう。でなければ、お前はここからでも屋上の仲間を容易たやすく救えた筈だし、最初から僕一人を消し飛ばす事だって出来た筈だからな」
 リウドルフはわずかに顎先を引き、人質を取ったフェドセイを静かに睨み付けた。
 フェドセイは逆に居直ったていで、瞳の焦点も定まらぬ美香の顎先に指を掛ける。
「さあ、仕切り直しだ! 今度は嘘も脅しも通用しないぞ! 霊薬を渡せ!! この娘がどうなってもいいのか!?」
「……何度も言わせるな。そんなものは無い」
 リウドルフは吐き捨てるように、ただ短く答えた。
「この期に及んで白を切るとはな……だが、これでどうだ!?」
 言うなり、フェドセイは美香の制服の襟元を鷲掴みにして、胸元まで力任せに引き摺り下ろす。そうして露わになった少女の柔らかなうなじへ、彼は鋭い牙を一息に突き立てたのであった。
 刹那、美香が大きく目を見開き、全身を幾度か痙攣けいれんさせた。
 月下に、喘ぐような、啜り泣くような、か細い声が流れ出る。
 無数の犬歯を首筋に突き刺したまま、フェドセイは緋色の瞳をリウドルフへと向けた。
「……やはり生娘の血はいい……このままこいつをむくろに変えてやろうか? 出し惜しみなどしている場合ではないと、お前が否が応でも悟るように……」
 恍惚として言い放ったフェドセイの前で、その時、リウドルフは穏やかな口調で応答する。
「……判った」
 途端、フェドセイも美香の首筋にうずめていた顔を上げて、血まみれの口元を笑みの形に歪めたのだった。
「はっ、やっと判ったのか! 医者だの学者だの抜かした所で、頭の回転は鈍……」
「貴様に手の施しようが無い事がよく判った!! どんな名医もさじを投げる!! 医療神アスクレピオスも杖を折る!! 貴様には!!」
 全身を包む闇色の衣を一際激しく波打たせ、人にして人ならざるものは初めて怒りを露わにした。
「最早、奴に必要なのは終末医療だけだ。何か差し挟むべき異論はあるか?」
 この時、リウドルフが遣した質問は、彼の下方へと投げ掛けられていたのだった。
 即ち、屋上にたたずむ赤毛の女へと向けて。
 そのアレグラは、蒼白い月明かりの下で静かに首を横に振った。
「……これはもう、どうしようもないのではないでしょうか。少なくとも私としては、既に貴方を押し留める理由は無くなりました」
 冷ややかな言葉を発したアレグラの頭上で、リウドルフはおごそかに首肯しゅこうする。
「いいだろう。ならばこれより施術を開始する!」
 何やら不穏な発言が吹き出た向かいで、しかし、フェドセイは尚も囃し立てるのだった。
「何をする積もりだ? お医者様が怪我人を見捨てようとでも言うのかね? やってみろ!! この娘がこうしてそばにいる限り、お前に迂闊な真似など出来るものか!!」
「確かにそうだな。だが、『指揮棒タクトシュトック』があれば話は別だ」
 最早声を荒げる事もせず、リウドルフが決然と言葉を返したのと時を同じくして、彼の横にアレグラが音も無く浮上し静かに並び立ったのであった。
 直後、リウドルフの眼窩がんかに灯った蒼白い光が爛と輝いた。
Codeコート,A bis Zアー・ビス・ツェット!!」
 同時に、アレグラの全身がにわかに光に包まれる。
了解しましたV e r s t a n d e n,我が創造主m e i n S c h ö p f e r
 夜の闇に眩い燐光がきらめいた。
 長身の女の姿が余さず光に呑まれて行く最中、リウドルフはそちらへとゆっくりと手を伸ばす。
「……かつて死の淵を彷徨った折、俺は幾つもの声を聞いた。現世うつしよ幽世かくりよの狭間、彼岸の遥か彼方より届く、果てしなく朧で途方もなく巨大な何ものかの声を……」
 夜空に、再び澄んだ音が鳴り響き始めていた。
 高く、淀み無く、そして儚げな音が。
「けだし、あの声こそが我々が『常世とこよ』と称するもの、『大なる世界マクロコスモス』の本質でありそのものであったのやも知れんが、俺が垣間見た空間はこの世のものならざる歌声で満ちていた。全てを始原の状態へと還し、また新たに生み出す波動に満ちあふれた広大無比な空間、即ち……」
 金属同士を打ち合わせたような澄んだ音は、やがて複数の音色が重なり合い、金管楽器の多重演奏のような独特の響きを生じさせる。
「……そして、『そこ』より帰還した際に俺はこの力を授かっていた。『常世とこよ』の『ぬし』たる『何ものか』の目論見によって、『現世うつしよ』に存在すべきではない異質な『力』を持ち帰らされたのだ……」
 リウドルフが語る間、フェドセイはただ驚愕に打ちひしがれた様子で、その場を動く事もせずただ目の前の光景に圧倒されていた。
 むしろ、彼は辺りに鳴り響く無数の音に圧倒されていたのかも知れない。
 此処ここではない何処かから伝わる、根源的で逆らいようのない力の奔流に。
「とまれ、現世に舞い戻ってすぐ俺はこの力を制御する事に持ち得る全ての技術と知識を傾けた。一つの秘宝を核に用い、自らの体組織を織り込んで確たる『意志』を与えた『存在もの』……我が最高最後の『人工生命体ホムンクルス』、それは同時に『現世うつしよに在るべからざる力』を束ねる『刃』ともなる!」
「……魔剣、『アゾットA z o t h』……!」
 燐光に照らされるリウドルフを屋上から見上げていた司が、眼光を鋭くしてぼそりと呟いた。
 そしてアレグラの発していた光は収まり、直前までの彼女の姿に代わって、空中には一振りの剣が浮かんでいたのであった。
 その刃身は紅玉ルビーよりも紅く、その柄は雪花石膏アラバスターよりも白い細身の剣が。
 気高き意匠の細剣を、黒曜石オブシディアンよりも黒い骨だけの腕が力強く握り締めた。
 刹那、場に反響していた音がその彩りを一変させる。
 高く澄んだ音は互いに重なり合って別の形を成し、程無くして無数の声のようなものが夜空に流れ始めたのだった。
「な、何だ、これは!?」
 美香を片手に抱えつつも、フェドセイはすっかり怯えた表情をせわしなく四方へと向ける。
「……歌が、聞こえる……!?」
 時に意識へじかに訴え掛けるように、時に耳元にささやき掛けるように、リウドルフの掲げる剣を起点として常世とこよの奥から寄せられるような歌声は夜空に反響する。
 しかも、その声調は刻々と強くなって行くのだった。
 朦朧とした意識の中、美香も眼前の有様を視界に収めていた。
 意識をしっかりと束ねられぬ彼女には、目に入る光彩が普段とは異なって見えたのだった。
 七色の光、またはそれらを掛け合わせた様々な色味が、紺色の夜空を絶えず重ね塗っている。耳に入る幽世かくりよの歌声と共に、空間にあふれる色彩も絶え間無く変化を繰り返し、万象に変化を促すかのように躍動するのであった。
 そしてその中心には、不動たる漆黒の孤影が在った。
「聞こえるか、この声が? これは一切を無に帰すものの呼び声、貴様がこれから向かう先に満ちている大いなる波動の一端だ」
 そう言うと、リウドルフを手にした剣を標的へ向ける。
 美香の後ろに浮かぶフェドセイへと細剣の切っ先をぴたりと据え、眼窩がんかの蒼い光を強く輝かせるのと共に、彼は力強く言い放つ。
の者を常世とこよへと導く為に!! 今この刹那、現世うつしよに鳴り響け!! 『終焉の聖歌アポカリプティシュ・プサイメン』!!」
 せきを切ったように、場に満ちる歌声がフェドセイへと押し寄せた。
 詠うように、ささやくように、囃し立てるように、様々な声が複数の旋律を成し、聞く者の肌を粟立たてて忘我の果てにすら導かんとする。
 それは奔流であった。
 抗う事など初めから望めない、圧倒的な一つの流れであった。
 そしてその流れの向こうに広がる何かを、束の間、フェドセイは目にしたような気がした。
「おっ、御屋形様ァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアッ!!」
 その絶叫を最後に、少年の姿は空間よりき消える。
 一際甲高く澄んだ音が強く鳴り響き、一瞬の後には残響も無く消え失せたのだった。
 場に満ちあふれていた現世うつしよに在るべからざる歌声もまた等しく。
 夜空の一角には、初めから何も起こらなかったかのように、一切の余韻も残滓も漂ってはいなかった。
 そしてまた、何も残さず、何も余さず、『そこ』に確かに在った筈の幽鬼の影姿も跡形も無く消滅していたのであった。
 『それ』の『居た』跡にはただ、中空にぽつんとたたずむ美香の姿が残されたのみであったが、彼女もまた重力に引かれて思い出したように下降を始める。
 建物の光がぽつぽつと灯る地上へ落下しようとする少女の体を、骨だけの腕が抱き留めた。
 失血によるものか、すでに意識を失くしている美香の顔を、リウドルフは静かに見つめたのであった。
 眼窩がんかに灯る蒼白い光が、かすかに揺らぐ。
 遥か下方から、車のクラクションの音が小さく鳴り響く。
 中天に掛かる三日月だけが、じっと彼らを見下ろしていた。
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