幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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渚のリッチな夜でした

その15

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 車内にアイドリング音が響き始めるのと一緒に、乗り込んだ生徒達が慌ただしく席に着き始めた。
 この地を訪れた時と同じツアーバスに乗り込み、二泊三日の臨海学校を満喫した生徒達はいよいよ帰路に就こうとしていた。
 運転席の後ろの席から振り返って、月影司が教え子達へと呼び掛ける。
「全員揃ってるかな? 一応各自隣の席を確認して」
 促され、美香も視線を動かしたが付近の座席は皆埋まっていた。
 何処からも声が上がらないのを見て司も息をつく。
「大丈夫そうだね。後は……」
 彼がそこまで言った時、バスの搭乗口を急ぎ足で駆け上がった者があった。
「やー、御免御免。遅れちゃったよー」
 とぼけた声を撒き散らして、リウドルフが車内に駆け込んで来る。その慌てているともおどけているとも付かぬ滑稽な動作に、車内から自然と笑いが起こった。
 間も無く、生徒を満載したツアーバスはホテルの駐車場から発進した。駐車場の敷地内には何台かの車が止められており、そこからホテル内へ向かう人の姿もちらほらと確認出来る。
 時間と言うものが途切れる事無く流れた三日間だった。
 自分達にとっての滞在は今正に終わりを迎えるのだとしても、別の誰かの滞在は尚も平然と続くのだと言う事実が、窓の外を見遣る美香に何とも言えない切なさを与えた。
 土地に対する別れとは常にこんなものなのかも知れない。詰まる所、こうした旅情に基づく哀愁とは、自分は所詮この土地の人間ではないのだと言う如何ともし難い事実が根底にあるからこそ湧いて出るのだろう。
 他方、運転席の真後ろの席に腰を落ち着けたリウドルフは、特に何の感慨も篭っていないような冷めた眼差しを窓の外に送っていた。
 その彼へと隣の席から司が朗らかに問い掛ける。
「珍しく遅かったですね。どうかしたんですか?」
「いや何、トイレがちょっと長引いてね」
 リウドルフは窓の外を眺めたまま平然と答えた。
「それはそれは……」
 司は丸眼鏡の奥で目を細め、微笑を浮かべた。
 バスはゆっくりと駐車場を抜け、堤防に沿って伸びる道を走り出した。
 昼の日差しに照らされる家々の屋根を見つめながら、リウドルフは一時間程前の事を思い起こした。
 入り江に建てられた朱色の鳥居の向こうに、紺碧の波の連なりが今日も揺れている。
 リウドルフは延々と繰り返される景色をしばし眺めた末、顔を前に戻した。
 鳥居の前方、岬の岩盤を背にして、鳥居と同じ朱塗りの建物が鎮座している。入り江の角度の問題か、隣の部洲一ぶすいち町からは全く望めぬ位置にその神社は建っていた。
 潮騒を背にしてリウドルフは神社へと歩き出した。しわだらけの半袖シャツとスラックスの装いで、麦藁帽子を被った異邦人は程無くして異国の神域へと足を踏み入れたのであった。
 境内に人の姿は無かった。
 代わりに、境内の入口に立てられた石柱が参拝客を無言で迎え入れる。四角い御影石の表面には、太く力強い字体でこの神社の名が刻まれていた。
 大辺度おおべど神社。
 それが、入り江の奥に置かれたその神社の名前であった。
 リウドルフは境内を伸びる石畳を静かに進んだ。
 横手に広がる院須磨いんすま村の街並みと同じく、この場所もまた一枚の広大な絵画のようであった。動的なるものを初めから配していないかのように、凍て付いたような不動を終始保ち続けるようであった。蝉の声と潮騒とが届かなければ空気さえ凝固するのではないかと錯覚するまでに。
 それでも参道の果てにそびえ立つ拝殿はいでんそのものは一般的な神社と同じく賽銭箱と本坪鈴ほんつぼすずしつらえられた、ごく当たり前の様式であった。帽子を脱いで賽銭を投げ入れ、紅白の綱が絡み合った鈴の緒を揺らしてリウドルフは柏手を打つ。
 鈴の音の残響に潮騒が重なった。
 そうして真昼の参拝者が振り返った先に、境内に男が一人立っていた。
 白昼の日差しに輝く白衣びゃくいと鮮明な紫の袴を履いた、初老の男であった。
 拝殿はいでんひさしの向こうは眩い光にあふれている。その只中に立って、唯一の参拝客を装束の男は見つめていた。
 リウドルフは麦藁帽子を胸に当てて賽銭箱の前で一礼する。
「……お早う御座います。こちらの神社の神主様でしょうか?」
 見知らぬ外国人の口から流暢な日本語が滑り出した事に、装束の男は一瞬面食らった様子を垣間見せたが、それも束の間、彼は日差しの中でにこやかに答える。
「はい。当神社を預かります、沼津幸三ぬまづこうぞうと申します。わざわざお一人で、ここまで参拝に来られたのですか?」
「はい。私はリウドルフ・クリスタラーと申します。この土地に立ち寄ったのは仕事の都合ですが、この場にこうしているのは私自らの意志によるものです」
 そう答えてから、リウドルフは拝殿はいでんの陰から日差しの下へと歩き出した。
 程無く、沼津と名乗った神主の隣に並び立つと、彼は境内を見回す。
「中々に風光明媚な場所に建つ典雅な建築ですね。他に人が訪れていないのが、にわかに信じられないぐらいですよ」
 褒められた事に気を良くしたのか、沼津は口元を綻ばせた。
「そこはまあ、この地域の人口自体が減少傾向にありますからな。く言うわたくしも、他に禰宜ねぎ(※中位の神職で宮司ぐうじの補佐役)も出仕しゅっし(※神職見習い)もおらぬ中で当社を運営しております」
「それはまた……さぞや毎日が大変である事でしょう」
 リウドルフのおもんぱかる言葉に、だが沼津は首を穏やかに横に振った。
「いいえ。全てはこの地域の信仰を繋ぐ為、延いてはこの土地に根付く人々の暮らしの支えとなる為です」
 元々背筋をしっかりと伸ばした姿勢正しい男であったが、そう述懐した沼津の毅然とした態度には凛としたものがにじみ出ていた。
 リウドルフは今しがた参拝を済ませた拝殿はいでんの方を、肩越しにちらと眺め遣る。
「……大辺度おおべど神社、と言いましたか、こちらは? 素人の眼力など高が知れたものですがが、随分と歴史ある所のようで」
「は、恐れ入ります。かつては鎌倉時代、梶原家が源平の合戦を前に勝利を祈願して建立したとも伝えられております。その後は今川家や井伊家の庇護を受けていた時期もあったと聞き及びますが、何分にも近代化の波には逆らえなかったらしく……」
「全国的に神職者の数が減っているとも聞きますからね。中には一人で複数の神社の宮司ぐうじを勤めざるを得ない方もおられるとか……」
「確かに、そのような話も小耳に挟みますなぁ」
 リウドルフの言葉を受けて、沼津は目線を持ち上げて息をついた。頭上の空はただ青く、日差しもまた眩しかった。
「実際、信仰にとって今は冬の時代であるやも知れません。ですが、だからこそ、か細く垂れる上代からの糸を大切に繋いで行かなければならないと、わたくしはそう考えております」
 取り立てて強い口調でもなかったが、初老の宮司ぐうじの口から出た言葉には確たる芯が宿っていた。
 実に敬虔そうな姿勢をのぞかせた相手からリウドルフは視線を外すと、今一度後ろをかえりみた。
 この時、彼の眼差しは拝殿はいでんの隣に建つ小振りな建物へと注がれていたのであった。岬の岩盤を横に置いて、拝殿はいでんとほぼ直角の角度で、まるで拝殿はいでんの陰に隠れるようにして置かれた朱塗りの建物をリウドルフは凝視した。
 しかる後、リウドルフは眼前の宮司ぐうじへとおもむろに訊ねる。
「……ところで、こちらでまつられている主神は何方どなたになるのでしょう? 『住吉三神すみよしさんじん』、『宗像三女神むなかたさんじょしん』、それとも『綿津見神わたつみのかみ』になるのでしょうか? 鳥居の扁額へんがくにも書かれていなかったもので、かえって気になってしまいまして」
 外国人の口から日ノ本の海神の名がすらすらと出た事で、沼津もいささか驚くと共に真顔に戻った。
 白衣の襟を正し、沼津は元通りの責任者らしい毅然とした態度で答える。
「お察しの通り、主祭神しゅさいじん底筒之男神そこつつのおのかみ様、中筒之男神なかつつのおのかみ様、上筒之男神うわつつのおのかみ様、住吉三神の御三方となります。御覧の通り、ここは海沿いの土地ですからね。水に所縁ゆかりのある神をまつるのは当然の流れでして」
「でも『住吉神社』とは名乗らなかったのですね」
 リウドルフは麦藁帽子を胸の前に据え、それまでより細い眼光を沼津へ注いだ。
拝殿はいでん横の建物、あちらが恐らく御神体を安置した本殿なのでしょう? その本殿にも拝殿はいでんにも、いや、そもそもそこの賽銭箱にすら三神信仰の総本山たる住吉大社の『花菱紋』が刻まれていない……」
 そこまで言うと、リウドルフは細い肩をすくめて見せた。
「素人にとってやはり信仰とは難しい。随分と混乱してしまいましたよ」
 リウドルフの指摘に、沼津は目を足元に落としてやおら一笑した。
「久し振りの参拝客と思ったら外国の好事家の方でしたか。中々に手強いお方だ」
 その後沼津は顔を上げると、かたわらにたたずむ痩せこけた外国人を見遣った。
「確かにこの大辺度おおべど神社の主神は三神様ですが、それとは別に配祀神はいししんを立てております。何分にも古い歴史の中では、ましてこのような往来に乏しい土地では、地域特有の信仰も生まれますので」
 沼津の横でリウドルフはうなずいた。
「それは自然な流れでしょう。信仰は別に形式から始まるものではない」
「同感です。ですので、あちらの本殿には配神はいしんが安置されているのです。故に、そのまま『住吉神社』を名乗る訳には行かなかった次第で」
 少し硬い声で告げた沼津を、リウドルフは見つめる。
何方どなたなのですか? こちらに御座おわすもう一方ひとかたの神様は?」
「……『恵比寿エビス』様です」
 神域の管理者が発した言葉の後に風が流れた。
 境内の並木が揃って梢を揺らした。
 蝉の声はそれでも変わらず境内に響き回った。
「……成程なるほど、大いに参考になりました」
 ややあってからそう言うと、リウドルフは一礼した。そうして、彼は目の前に立つ初老の宮司ぐうじへと笑い掛ける。
「暑い中を長々と質問攻めにして申し訳ありません。どうした所で誰も好奇心には勝てないもので」
「いえ、わたくしも他所の方と話すのは久し振りなもので、中々に楽しい問答でしたよ」
 愉快げに答えた沼津の前で、リウドルフは麦藁帽子を頭に載せた。
「では私はそろそろ出発の時間なので、これにて失礼させて頂きます」
「旅の御無事を」
 一礼した沼津へ会釈した後、リウドルフは境内を外へと歩き出した。
 しかるに海岸へと伸びる石畳を数歩進んでから、リウドルフは不意に振り返った。
「済みません、宮司ぐうじさん」
「……何でしょう?」
 手水鉢ちょうずばちの方へと歩き出そうとしていた沼津は、出し抜けに呼ばれて足を止めた。
 彼が怪訝けげんそうに見遣る先で、リウドルフは麦藁帽子の鍔を抑えた姿勢で問い掛ける。
「あなたはずっと一人きりで、この神社を護って来られたのですか?」
「左様です。先に申し上げました通り」
「その、御家族の方は?」
 問われた瞬間、沼津は表情を一瞬だけ強張らせた。
 だがそれも束の間、彼は深く息をつくと離れて立つリウドルフへと答える。
「妻には、大分前に先立たれました」
 一拍の間を置いて、重みのある言葉が後に続く。
「……息子は、死にました」
 手水鉢ちょうずばちに張られた水が日差しを浴びてきらきらと輝いた。
 通りすがりの風がまた境内の木々をざわめかせた。
 リウドルフは深くこうべを垂れる。
「大変失礼致しました。不躾ぶしつけな質問をして誠に申し訳御座いません。どうか御容赦を」
「いいえ。あなたはどうか御家族を大切に……」
 そう告げた初老の男の瞳にかすかな光が浮かんだ。
 まるで冬を直前に控えた小川の水面みなものように。
 それは正に一瞬の事であった。
 潮騒が次第に離れ行く二つの人影の間に入り込んだ。
 片方は波の唸りに押されるように、もう片方は波のささやきに身を浸すように。
 影法師はそれぞれの道を進んだ。
 そこまでを思い起こして、リウドルフはツアーバスの席に寄り掛かった。
 海岸線沿いの国道を走るバスからは、三日間滞在した町の景色が後ろへと流れ行く。滔々とうとうと流れる情景を碧い双眸に映しつつ、彼はぽつりと呟く。
「……何処の国にも陰の濃い土地と言うのはあるものだな……」
 生徒達の朗らかな声が後ろから伝わって来る中、リウドルフは一人、面白くもなさそうに窓の外を眺め続けた。
 その時、入り江の遠く彼方に朱色の鳥居が小さくのぞいた。
 窓ガラスに頬杖を付いていたリウドルフは、目元をぴくりと震わせた。
 そんな来訪者達を中に収めたバスを、浜辺から初老の宮司ぐうじも見送っていた。入り江に建てられた鳥居の前に立ち、沼津は遠ざかるツアーバスの一団へ鋭い眼差しを送る。
うるさい客もようやく去って、これで落ち着いて準備に取り掛かれると言うものだ……」
 周囲の気温とは対照的ですらある冷めた声が、その口からい出た。
 しかる後、沼津は肩越しに後方を一瞥する。
 己の後ろにたたずむ者へと、彼はやはり冷ややかな口調で問い掛ける。
「次の大潮の日も近い。またお力を貸して頂けますか?」
 宮司ぐうじの後ろに立っていたのは、佳奈恵であった。朱色の鳥居の脇に立ち、柱に寄り掛かるようにして、うら若い女将はうつむき加減で口を開く。
「……はい……」
 深く沈んだような、あるいは微睡まどろみを漂うかのような声が、彼女の唇から漏れた。
 そして、佳奈恵は顔をゆっくりと持ち上げる。
 何処か虚ろな双眸が、目の前に立つ装束姿の初老の男を捉えた。飽くまで毅然としたその背中へ、彼女は遠方を望むように細めた目を据えたのだった。
「……勿論もちろんです、お父様……」
 小さな呟きは、潮騒にたちまき消された。
 入り江にたたずむ一組の影を、古びた鳥居だけが見下ろしていた。
 青い海原は昼の日差しを浴びて、彩りを益々ますます深めて行った。
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