幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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渚のリッチな夜でした

その27

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 その日の夕時、松林を『彼女』は必死に駆けていた。
 空は一日を通して曇天で、日の暮れ掛けた今、頭上を覆うのは鉛の粉を吸わせたような灰色の雲ばかりである。
 横から届く潮騒を裂いて、鋭い叫びが『彼女』の背後に投げ掛けられる。
「カンナアァァッ!!」
 正に怒声と呼んで差し支えない、引き裂くような、突き破るような、激情の過分に混じった叫びであった。
 そちらの方へは目もくれず『彼女』は懸命に走り続けたが、程無くしてその肩を後ろから押さえられたのであった。
 『彼女』の小さな体は勢い松の木の根本、砂の上に押し倒された。
 荒々しい呼吸音が、うつぶせのまま怯える『彼女』の耳元に届く。自分の両肩を押さえ付ける手に尋常ならざる力が込められている事実も、『彼女』の恐れを更に増幅させた。
「カンナ……!」
 逃げる『彼女』へと追いすがり、そして今砂浜へと押し倒した男は血走った目を怯える相手へと据えた。
「おとう……」
 うつぶせのままどうにか首を巡らせた『彼女』の見上げた先で、男は乱れた呼吸もそのままにおのが娘へと厳しい口調で問う。
「おみゃあもか!? おみゃあも食ったのか!?」
 人気ひとけの無い夕時の砂浜に、刺々しい声が上がった。
 沖で時化しけが起きているのか、浜に届く潮騒はいつもより荒々しいものであった。
 その荒ぶる波の音を裂いて鋭い声が上がる。
「おみゃあも神さん食ったのか!?」
 波濤の砕ける音がいやに生々しく『彼女』の耳に届いた。
 押し倒されて問い詰められた『彼女』は、只々混乱と恐怖におののくばかりであった。
「おとう……許して……堪忍して……」
 その目に涙をにじませながら『彼女』は回想する。
 いつしか浜の子供達の間では知る所となっていた。
 岬に建つ神社。
 その本殿の扉は常に固く閉ざされていたが、悪戯好きの腕白達はある時発見したのである。
 社殿の床下から内部へ入り込む方法を。
 地面と床の間に潜り込み、床板を押し上げる事で、根太ねだ大引おおびき(※共に床を支える為に格子状に配された床組)の間を擦り抜けて、小さな子供ならば本殿の内へ忍び込む事が出来る。
 本殿自体が古い建物である。所々に脆くなっている箇所や緩んでいる箇所が存在し、それを誰かが見つけたのだ。
 子供故の好奇心、単純な悪戯心から、神域を侵す子供達の数は徐々に増加して行った。
 その中に『彼女』も数日前に混じったのである。
 深い考えは無かった。
 ただ、あの閉ざされた扉の奥に置かれている『もの・・』を、ふと見てみたくなったのである。
 かつて早朝の浜辺に打ち寄せられていた奇妙な『もの』。
 周囲の大人達が怯え、一転して有難がって崇めるに至ったものを、単純に不可思議なものを、『彼女』はもう一度自分の目で確かめてみたいと思ったのである。
 親や神主の留守を狙い、他の家の子供達と共に『彼女』は本殿の床下から内部へと侵入した。
 黄昏時、明かりの灯されていない内部は薄暗かったが、建物の奥に安置されていた桐の箱を見付けるのにそう苦労はしなかった。
 誰もが声を潜め、緊張した面持ちを保っていた。
 そして誰かが、御神体の収められた箱を開いたのだった。
 その刹那、淡く、それでいて鮮やかな芳香が薄暗い社殿内部に漂った。
 これまで嗅いだ事も無い匂いであった。
 まるで雲の上から、海の向こうから、遥かな彼岸からわずかに伝わって来たかのような、この世のものならぬ甘美な芳香であった。
 閉ざされた本殿の中で一同はしばし息を呑んでいた。
 誰が初めにそうしたのかは判らない。
 しかし、『彼女』もまた周囲と同じく、『それ・・』へと手を伸ばしていた。
 白い桐の箱の中に収められた、何ものかも判らぬ亡骸へと。
 眼球もとうに抜け落ち、黒々とした眼窩がんかが薄暗い中で虚空を見つめている。腰より下を失ったしなびた肉体は、だが奇妙な瑞々みずみずしさを保っているようにも見受けられた。
 残された全体を、桃色のかびのようなものに覆わせて。
『村の神さんを見たんだ』
『神さんに触って来たぞ』
 そう密かに自慢する友人達を、『彼女』はこれまでに幾度か目にして来た。
 『彼女』もまた神社に隠された神体を、その時に触れたのだった。
 その時、『彼女』の指先に、爪の間に干乾びた肉の切れ端が図らずも挟まったのだった。
 少しの間不思議そうに、『彼女』は指先にこびり付いた桃色の欠片を見つめていた。
 潮騒が壁を伝わって薄暗い本殿内に木霊した。
 気が付いた時、『彼女』は自分の指先を口元へと運んでいた。
 周りで誰かが息を呑んだ。
 口の中に入ったものを、『彼女』は神妙な面持ちで噛み締める。
 『常世とこよ』の香りが、その時『彼女』の内へと染み入ったのであった。
 その『彼女』を砂浜へと押し倒し、男は激情も露わに罵声を浴びせる。
「何て! 何て馬鹿な真似をしたんだ、おみゃあらは!!」
 顔を真っ赤に染め上げて、父親は娘を叱り付けた。
「佐吉んトコの信太も今朝死んだ! ちょうん所の伊代は昨日の遅くにだ! 皆、皆死んどるんだぞ! 神さんに触れたり、端切れを食ったって奴ぁ皆!!」
 揺れる声を押し出す内、男の目元からは光るものが零れ落ちて行った。
 その様子を、有様を、『彼女』はうつぶせのまま見上げていた。
 やがて娘を押し倒していた手を退けて、男はかたわらの砂浜に両膝を付いた。
「……死んじまった……皆おかしくなった挙句に死んじまった……何で、どうしてこんな……!」
 くぐもった声でそう言うと、男は両の拳を砂浜へと思い切り叩き付けたのだった。
 『彼女』が恐る恐る身を起こした時には、男は地面にうずくまり肩を震わせていた。
 頬に付着した砂粒を落としながら、『彼女』も悲しげに顔を歪める。
 荒々しい潮騒が浜辺の親子の間に鳴り響いた。
 空を覆う鈍色の雲は益々ますます厚く、暗くなって行った。
 それでも、ややあって男はうずくまったまま途切れ途切れに言葉を吐き出す。
「……カンナ……おみゃあは、おみゃあだけは生きてくれ……何があっても……」
「おとう……」
 か細い声を『彼女』は漏らしていた。
「……それが、それだけが俺達おれっちの望みだ……」
 彼方より打ち寄せる波は、おかの様子など歯牙にも掛けずに寄せては返すを繰り返す。
 いつ如何なる時も律動を絶やさず、遥か彼方より此方こなたまで無数の波は浜へと寄せ続ける。
 その過程で流れに乗った様々な『もの』を岸辺へと伴いながら。
 時に彼岸より迷い込む、神とも魔とも付かぬ『もの・・』さえ陸へと導きながら。
 荒々しい潮騒が人気ひとけの無い浜辺を満たす。
 その日の夕時、灰色の空の下、一組の人影は松の根元からしばし動かずにいた。
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