幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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渚のリッチな夜でした

その30

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 月光の下、鮮血がほとばしった。
 沼津が手にした短刀を、佳奈恵の右手首へと走らせたのである。
 佳奈恵は表情を変えなかった。
 沼津もまた静かに短刀を収め、代わりに朱色の大杯を差し出す。篝火かがりびの間に置かれた小さな祭壇に御神体の収められた桐の箱を置いた彼は、集まった村人達の注視する只中で粛々と儀式を進めた。
 宮司ぐうじが両手で差し出した朱色の大杯へと、佳奈恵は血の滴る左手を伸ばす。盃に注がれた酒に彼女の血が入り混じって行く。
 篝火かがりびから火の粉の舞い散る中、淡々と執り行われる儀式の様子をリウドルフはじっと見下ろした。
「即席の御神酒おみきと言う訳か。口噛み酒の一種と呼べるのかな」
「しかし、あんな真似をしたのでは、折角の薬効も薄まるのではありませんか?」
 隣で司の発した疑問にリウドルフは小首を傾げた。
「判らん。上手くすれば彼女の血中に含まれる細菌を除去した上で、免疫作用だけを引き出す事が出来るのかも知れん。例の不死化酵素を吐き出させた上で」
 そう答えてからリウドルフは口元を手で覆い、前方の儀式を見つめる。
「発酵がもたらす作用を含めると途端に話がややこしくなる。少なくとも彼らはこれまで、ああして御利益ごりやくを得て来たのだろうが……」
 リウドルフの目元がそこで細められた。参道を挟んで焚かれた二つの篝火かがりびに浮かび上がる、集まった村人達の姿を彼は凝視していたのであった。
 遠目から見ればこれと言って個性も変哲も無い、普段着姿の集団にそれらは見受けられた。しかるによくよく目を凝らして観察すれば、各人に何らかの異常が表れている事が散見される。体型や体格と言うより、体全体の輪郭がわずかに歪んでいる者も中には含まれていたのであった。
 物憂げにその様子を眺めるリウドルフの脳裏に、百目鬼と交わした昼の会話が蘇る。
『こいつが発生させる外毒素についてだが、かなり強烈な部類のものであるようだ』
 スマートフォンの向こうで、百目鬼は疲れたような声を発した。
『感染させたマウスに現れた共通する症状として、こちらで確認出来たのが……』
「皮膚及び角膜の異常」
『そうだ。例の患者と同じだな』
 リウドルフの差し込んだ言葉を、百目鬼は肯定した。
『眼と体表から伝わる刺激が増す所為せいなのか判らんが、被験体はいずれも強い光を避けるようになり、最終的には脊髄や脳の中枢神経系を侵されて死亡した。そういう所に好んで巣食う性質があるのかも知れん』
 百目鬼の捕捉を聞いた後、リウドルフは座敷から腰を上げると、縁側へ向けて歩き出した。ガラス戸の向こうにのぞく庭木が、深い緑を陽光に晒している。
「……仮定の話ばかり振って悪いんだが、さっき話したように、この細菌に対して完全な免疫を持っている人間がいたとしよう」
『ああ』
「仮に、他人がその人間の肉体の一部を経口摂取したとして、同じ免疫体質を獲得する事が出来ると思うか?」
 縁側に立って、リウドルフは問うた。
 蝉時雨は相変わらず白昼に鳴り響き、空は依然青く澄んでいた。
『何だァ? 何かのまじないの話か? だったら、それこそそっちの専門だろうに』
 さしもの相手も戸惑った様子をのぞかせたが、リウドルフは至って真面目な面持ちでスマートフォンに語り掛ける。
「ここは一つ科学的な見解を求めたい。医食同源と言う言葉もある。血清療法や種痘程直接的ではないにせよ、血液や皮下組織を摂取する事で、似たような効果を及ぼす事は可能だろうか?」
 リウドルフの神妙な問い掛けに、スマートフォンの向こうで、百目鬼は数秒の間沈黙したようだった。
 それでも、やがての末に回答が遣される。
『……そうだな……元々血清療法自体が不確定要素の多い、効果の曖昧な代物だからなぁ。やはり孔子に悟道ってなもんだが、抗体をきちんと抽出した訳でもない血液を投与した所で薬効の程は怪しいんじゃないのか? まして経口摂取と来れば間に消化と言うプロセスを挟む訳だから尚更だ』
「ああ、全くだな……」
 リウドルフがいささか気落ちした様子で相槌を打つと、電話の向こうで百目鬼は口調を幾分改める。
『しかし、ものを食うって行ないも単純にして意外と奥が深いもんだ、パラの字。さっき医食同源と言ったが、逆説的な事例としてクールー病の例が挙げられる。知ってるだろうが、パプアニューギニアの風土病で、死者の肉体を儀式上食べる事で発生する脳疾患だ』
伝播性海綿状脳症 T S E の一つだな。患者は異常蛋白質プリオンを経口摂取する事によって体内に元々あった正常な蛋白タンパク質の構造を歪められてしまい、結果、体内で増殖した異常蛋白によって脳神経が破壊される」
 リウドルフが捕捉を差し挟んだ。
『そうだ。食う事で、消化吸収を経て異常な形質が伝達され、正常組織と置き換わって行くって寸法だ。だったら逆の事例が存在してもそこまで不思議じゃないかも知れん。かも知れんてだけだが』
「可能性はゼロではない、か……」
 百目鬼が自説をまとめた後、リウドルフは足元へ目を落とした。
 縁側で黙考する彼の耳元に、昼の蝉時雨は遠く届いた。
 そして今リウドルフの耳に届くのは、前方で沼津の発する何らかの祝詞のりとであった。
 自らの血を注いだ大杯を胸元へ掲げる佳奈恵の横で、沼津は朗々たる声で闇に集った村人達を祝福する。その様子はあたかも城を落とされた落武者達を束ね、密かに復讐を為そうと働き掛ける奸臣のようでもあった。
 リウドルフは物憂げな眼差しを佳奈恵へと向ける。
 大杯を今も掲げる彼女は、虚ろながらも悲しげな面持ちを篝火かがりびの向こうに並ぶ村民達へと向けていた。
「……何が満たされる訳でもなかろうに……まして、何が戻って来る訳でもあるまいに……」
 リウドルフがぽつりと呟いた時、沼津が祝詞のりとを収めた。
 口を閉ざした沼津が、村人達の方へ一歩を踏み出す。そうして彼は御神体のまつられた祭壇の前で、先程佳奈恵の手首を切り裂いた短刀を頭上の月へ突き出すように高く掲げたのであった。
 リウドルフの隣で、司が眼光に鋭さを帯びさせる。
「宴もたけなわと言った具合ですかね。次は割股かつこ(※内股の肉を切り落として人に与える風習)でも始める気か?」
「仕方が無い。こちらもぼつぼつ出るとするか……」
 リウドルフがぼやきじみた呟きを漏らしつつ、身を起こそうとした時であった。
 彼らの前方、そして沼津達の背後で、宵闇と静けさに包まれた村から突如として轟音が鳴り響いた。それまでは表情の無い闇が一面を覆うばかりであった村の家並みの奥より、間欠泉でも噴き出したかのような爆音が出し抜けに発生したのであった。
 篝火かがりびの周囲で沼津や住民達がにわかに色めき立つかたわら、リウドルフもまた彼方の闇へと目を凝らした。
「やれやれ、あっちはあっちで派手にやらかしたようだな……」
 愚痴のような呟きを漏らした彼の凝視する先で爆音の余韻は渚まで届き、夜の海の向こうへと吸い込まれて行った。
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