幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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渚のリッチな夜でした

その36

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 思えば、思い出と呼べるもののかたわらには、常にこの波の音があった。
 遠い昔、小さかった手を引かれて浜辺を歩いた時も。
 初めて嫁ぐ日の朝にも。
 そして、ここを発ったあの日にも。
 いつでも、この潮騒が、潮騒だけが分け隔て無く包み込んでくれた。
 何処へ向かっても、何処を巡っても、耳の奥深くでは、意識の奥底では、あの波の音が木霊していたかも知れない。
 生まれ落ちた瞬間、人の声より先に耳にしていたのは、この潮騒であったのかも知れない。
 母が子を呼ぶように。
 力強い訳ではないのに、どうしても抗い難い響きが、心の深みへと溜まって行く。
 だから。
 だから、戻って来た。
 そして、悟った。
 私は。
 私は、この海から離れる事は出来ないのだと……

 月明かりの下を潮騒だけが満たしていた。
 繰り返し繰り返し、果てしの無い繰り返しを淡々と行なう波の数々はこの夜も、誰もいない深夜の浜辺へと打ち寄せていた。
 満月の端に小さな雲が掛かった。
 わずかなかげりをのぞかせた砂浜にその時、慌ただしい複数の足音が押し寄せる。波打ち際まで駆け付けた人影は間も無く同じ場所で足を止めた。
ねえさん!!」
 一行の先頭に立った晴人が悲痛な声を上げた。
 それに気付いてか、前方で佳奈恵が岸辺と首を巡らせる。
 白装束に身を包んだ彼女は波間へと進み、すでに胸元辺りまでを夜の海に浸していたのであった。
 気温の移り変わりの関係であろうか。
 夜の海の向こうにはぼんやりとした白い覆いのような霧が掛かり、水平線を霞ませていたのであった。
 司と表情の無いリウドルフを除いて、浜に立つそれぞれが緊張した面持ちを浮かべる中、晴人は霧の立ち込める夜の海に今にも呑まれんとする佳奈恵へと声を張り上げた。
「何やってんだよ、ねえさん! 戻って来いよ!!」
 呼び掛けられた佳奈恵は波間の只中で寂しげに微笑んだ。
「『何処』へ戻るの? 私にはもう戻る所なんて無いのに。最後の寄る辺も、たった今無くなってしまったばかりなのに……」
「そんな事は無い!! 何処にだって居場所はある!! 作れるからさ、きっと!!」
 対岸へと訴えるように懸命に晴人は声を張り上げた。
「あんたが誰であろうと関係無い! 昔の事なんか、もうどうでもいいじゃないか!! しっかりと前を向いて生きてさえ行ければ!!」
 遠い血縁者の遣した心からの訴えに、佳奈恵は悲しげな、それでいて酷く懐かしげな面持ちを不意に浮かべたのだった。
「……ああ、やっぱりあなたは『あの人』の子ね……『あの人』もそう言って、私を連れ出そうとしてくれた……」
 声を詰まらせた晴人の隣へリウドルフが歩み出る。
「つまらない真似はせ。さっきも言った通り、貴女あなたもまた一種の病気に侵されているだけだ。治す方法は必ず見つかる」
「では、それまで見世物のように扱われながら生きろと仰るの?」
 佳奈恵は目を細めて、波の向こうに立つ『同類』を見遣った。
「そう言って近付いて来る人達とこれまでに幾度も出会った……祈祷師であったり僧侶であったり薬師であったり……でも結局は皆、最後は手をこまねいてこちらを奇異の眼差しで捉えるばかりだった。結局何も変わりはしなかった」
「判る話だが、だからこそそんな奴らとは一緒にしないで貰いたいな」
 リウドルフは堅い声で励ますように告げた。
「威張れる筋でもないが、今は科学と合理主義が席巻した時代だ。明らかに出来ない仕組みなど無い。多少の時間は掛かるにせよ、貴女あなたの体を元に戻せる方法も確立されて行くだろう」
 佳奈恵は静かに首を横に振った。
「『時代』の移り変わりならば私も幾度か目にして来た。今がどんな『時代』なのかもおおむね知っている積もり。何よりもまず集団の利益と欲求が優先される時代であると言う事をね……」
 波に時折体を揺すられながら、佳奈恵は揺らぎの無い声を岸辺へと向けた。
 沖合から伸び行く霧が彼女の周囲にまで辿り着いた。
「あなた一人がどれだけ意気込みをのぞかせた所で、他に別の事を望む人々が出て来れば個人の意向など容易たやすく無視される……まして、あなたも私もすでに死者の列に半ば加わっているようなもの。本当の居場所なんか恐らく何処にも存在しない……」
 天上の月明かりにも似た冷ややかな声が、潮騒の間に差し挟まれる。
「……本当に、『あなた』はどうしてそうやって立っていられるのかしら……何が『あなた』を支え続けるの? 意地? 誇り? それとも単に、悲しみも寂しさも虚しさも、もう何も感じる事が出来ないでいるの?」
 かすかな冷厳さすらまとわせた同じ不死者の遣した問い掛けに、リウドルフはすぐには何も答えなかった。
 変化をのぞかせぬ髑髏どくろの顔が見据える先で、佳奈恵は顔を横へ逸らした。
「何にしても、私はあなたのようにはなれない……いつかこういう日が来ると思っていた……いつか全てが崩れ去る時が訪れると……」
「待ってくれ!!」
 新たな叫びは、リウドルフらの横手から上がった。
 異形と化した沼津が同じく浜辺から、波間に立つ佳奈恵へと呼び掛ける。
「我々を見放さないでくれ!! 我々は、私達には、最早貴女あなたしか……!」
 神体を片手に懸命に呼び掛ける沼津へと、佳奈恵は痛ましげな眼差しを向けた。
「お義父とうさん……可哀想な人……私はあなたの生贄であったし、あなた達もまた私に捧げられた生贄のようなものだった……」
「何だと……?」
「けれど私は、あなた達の『母親』にはなれなかった……薄々判っていた事だけれども、それを今夜知る事が出来たからそれで充分……」
 狼狽うろたえる義父から眼差しを外すと佳奈恵は改めて、浜に立ち尽くす晴人を見つめたのだった。
 時を越え、思いを超えて巡り合えた遠い親族を捉えた彼女は、ただ眩しげに目を細めた。
はる君……あなたに会えて、あなたが会いに来てくれて、良かった……」
 目前の波のように揺らいだ声が、彼女の口元から漏れ出た。
「あなたはどうか強く生きて……そうすれば『私達』もまた生きて行ける……この先もずっと……」
「……ねえさん?」
 晴人がはっとして目を見開いた時には、佳奈恵はその眼差しをわずかにずらした後だった。
 この時、彼女の見つめる先にあったのは一人の少女の姿であった。
「美香さん、だったかしら……?」
 掛かっていた雲が流れ去り、満月が白々とした光で下界を満遍無く照らした。
 月光の下、闇色の衣をなびかせる不死なる王のかたわらに寄り添い、緊張した面持ちで心配そうにこちらを見遣る美香を、佳奈恵は微笑みながら見つめ返した。元々癖を帯びていた髪は波を吸って更にうねり、濡れた白装束は肌へぴったりと貼り付いて、在りのままの彼女の肉体を月明かりに晒した。
 朧げながらも鮮やかに、粛としながらもあでやかに、海霧うみぎりまとわせて波間に立つ一人の女は砂浜にたたずむ一人の少女へと告げる。
「……誰かを愛する事も、誰かに愛される事も、どちらも素晴らしい事ではあるけれど、いつかそれが大きな重しとなって圧し掛かって来る時が訪れる……」
「え……」
「その時、『あなた』はどうするのかしらね……」
 はかなげな、と評すにはいささか以上険しい面持ちで、永き歳月を歩んで来た女は呆然とする少女を見つめたのだった。
「何を……」
 美香が呻くように呟いた時、新たな足音が夜の砂浜に伝わって来た。
 肩越しにかえりみた美香の横手、松林の向こうから、無数の蠢く影が現れたのであった。
 動きに精彩を欠きつつも、浜辺の方へと群を成して近付いて来る、それらは異形のもの共の一団であった。
 月に浮かぶそれらの影を目端に認めるなり、一行の最後尾で司は軽く舌打ちの音を漏らした。
「全く、中途半端な処置をするからこういう事態を招く……」
 その間にも、異形のもの共は数を増して砂浜に押し寄せて来る。境内で先程打ち倒された住民達の半ば程が、何を察してか、何に呼び寄せられてか、夜の浜辺へ続々と押し寄せたのであった。
「くいい……」
「くっ、くいいぃぃぃぃ……」
 リウドルフら一行の前を横切るようにして、彼らはそのまま引きられるように水際へと向かった。各々の広がり切った黒い目には他の何ものも、いや、海と陸の境さえも最早映っていないかのように。
 あるいは、それは月の導きであったかも知れない。
 砂浜で司は一人鼻息をついた。
「……とは言え、これはこれで似合いの最期か……」
 呟いた彼の目の前を横切り、かげり多き因習に支配された村に最後まで残った者達は、彼らを長年支え続けて来た者のたたずむ闇の奥へと揃って突き進んだのであった。
 あたかも、命を繋ぐ為に激流を必死で遡行そこうしようと試みる魚群の如くに。
 そして一度ひとたび動き出した群は、文字通り加速度的に速さと勢いを増して行く。
 すぐ目の前を通り過ぎようとする異形の一団に咄嗟とっさに怯えた表情を立ち昇らせた美香を、リウドルフが闇色の衣で以ってかばった。
 刹那、迫り来る異形の群を他所にその様子を見届けた『彼女』は、波間の向こうで憧憬にも似た柔らかな微笑を最後に浮かべたのであった。
 直後、波の彼方より来たる白い霧が『彼女』の姿を包み隠した。
「待て……待ってくれ……」
 茫然自失の体で沼津が霧の立ち込める夜の海へと分け入る。その彼を押し流すようにして幾人もの異形達が相次いで波間へと駆けて行った。
 本能によるものか、あるいはわずかに残された意識によってであろうか。異形のもの共は彼らの崇め求める者へと殺到する。海上を覆う霧の奥へ奥へと、異形の人影は振り返りもせずに突き進んだ。銘々が救いを求めてか、彼らの足取りは荒く、切羽詰まった響きがそこには含まれていた。
 美香をかばって身を屈めたリウドルフは、後ろに控えるアレグラへ呼び掛ける。
「お前の方で水を操れないか!? せめて他の足止めだけでも!」
 アレグラは緋色に輝く瞳を閉ざし、やはり緋色の光を放つ髪を闇に揺すって首を横に振った。
「……先程から強い意識がこちらの干渉を妨害しています。この領域の事象を操作する事は私にも出来ません。恐らくは貴方にも……」
「『妨害』? 『拒絶』していると言うのか? 『彼女』が……」
 ぽつりとリウドルフは呟いた。
 叩き付けるような水音が、深夜の海岸に鳴り響いた。
 波打ち際はおびただしい数の水飛沫にたちまち覆われ、立ち込める霧共々、岸に立つ者達の眼差しをさえぎった。
 やがてそれが収まった頃、海霧に包まれた夜の海からは何ものの影も形も見通す事は叶わなかった。
 ただ、満月の光さえもさえぎる乳白色の覆いが辺り一面を包み隠していたのであった。まるで生み出した万物を今一度おのが胸元へいだき、穏やかに溶かし込もうとする大いなる母の腕のように、宵闇の彼方から生じた霧は一切を分け隔て無く包み込んだ。
 波頭さえも隠した霧の覆いのみが一同の前には広がっていたのであった。
 不安を搔き立てると共に何処かで懐かしさを抱かせる乳白色の海原の景色が、煌々こうこうと輝く満月に照らし出された。天上を埋め尽くす星々とその中央に昇った月は、飽くまでも泰然と眼下の出来事を俯瞰ふかんしていた。
ねえさん……」
 力無く立ち尽くした晴人が、かすかな呟きを漏れ出させた。
 隠された海原を無言で見つめるリウドルフのかたわらで、美香はただ悲しげな眼差しを静まり返った霧の向こうへと注ぎ続けた。
 潮騒はひたぶるに淡々と宵闇の中に響き続けた。
 原初から永劫の彼方まで、いつまでも繰り返される揺り籠ののように、波の放つ囁きは誰に促されるでもなく森羅万象の移ろいを告げるのであった。
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