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去年のリッチな夜でした

その31

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 何にせよ、切っても切れないのは女の子限定の赤い糸だけにしてもらいたいもんだ。
 鬼塚匠は、胸中でそう結論付けたのだった。
 世間は折角の日曜日、降り注ぐ日差しも実に眩しく、窓の外に広がる遠い家並みさえ、心なしか煌びやかに輝いて見えた。
 こんな陽気の日に駅前の表通りを散策すれば、さぞや楽しいだろう。
 そう思うのと一緒に、鬼塚は湿った息を吐いた。
 そうして、彼は浮かない面持ちを肩越しに後ろへと向ける。
 背後には、清潔ではあるが、何の飾り気も無い病室が広がり、部屋の中央には二つのベッドが置かれていた。
 そして、廊下側に配されたベッドの上では、薬師寺弘樹が今も仰向けに寝そべっている所であった。
 今日も今日とて、場所も場所とて、普段と何ら変わらぬ平淡な表情を浮かべて。
 階下のコンビニで買って来たらしいボクシング雑誌へ視線を注ぎつつ、『そいつ』はベッドの上から動こうともしない。
 全く、何が悲しくて、寄りにも寄って『こいつ』と相部屋に押し込められなければならないのだろうか。そんな事態は夢にも望んだ事は無いし、欠片も期待した事すら無いのだが。
 自然と渋面を浮かべて行った鬼塚へ、その時、薬師寺がふと目を向けた。
「どうした?」
べえっつにー……」
 鬼塚が不貞腐れて答えてすぐ、薬師寺はまた手元の誌面へ目を戻した。
「そうやってむくれてばかりいると、毒も中々抜けないぞ。体の抵抗力はメンタルに左右されるそうだ」
 そう言って、薬師寺は実にリラックスした様子で雑誌を読み直す。ここ数日間、同じ遣り取りを何度も繰り返して来た所為せいか、最早深く取り合おうともしない。
 窓辺に佇む鬼塚は独り、げんなりした様子で肩を落とした。
 こういう時、新人の女性看護師でも巡回に来てくれれば、色々と空気も華やぐと言うのに。
 鬼塚が不純ながらも切実な願いを抱いた矢先、病室の扉が外からノックされた。
 鬼塚が期待を込めて、薬師寺が何の感慨も無しに目を向けた先で扉は開かれる。
 その向こうから姿を現したのは、貧相な見た目の外国人であった。
 乱れ放題の金髪をさらし、一方で、緑色の術衣スクラブに身を包んだその男、リウドルフ・クリスタラーは、部屋の敷居をまたぐなりとぼけた声を上げる。
「御機嫌は如何かね、二人共。点滴の効果は出てるかね?」
「ええ。お陰様で」
 ベッドの上から、薬師寺が一礼した。
「昨夜辺りから、気分も随分と良くなりました。処方してもらった解毒薬が効いて来てるんでしょう」
「そりゃ良かった。流石に三日も経てば毒も抜けて来るだろう。これで後遺症が残らなければ何よりだが」
 薬師寺の返答に、リウドルフは幾度いくどうなずいた。
「ハゲたりゃしないでしょうね?」
 窓辺から鬼塚がいささか憂鬱そうに問うと、リウドルフは小首を傾げた。
「そこら辺の保証は何とも致しかねる。血液検査を見た限り、かなり珍しい複雑な組成の毒物だったから、解毒薬の調合も半ば慣れと勘に頼ったものだ」
 率直と言えば率直な返答を受けて、鬼塚が何とも渋い面持ちを浮かべた。
 他方、ベッドの上で上体を持ち上げて、薬師寺はリウドルフへと向き直った。
「でも実際、先生のお陰で体調も順調に回復してますよ。この病院に運ばれた時には、正に最悪の気分でしたから」
「だろうね。偶々たまたま、俺が夜勤の助っ人に入っていた時で良かった。特に君の場合は」
 リウドルフもまた、薬師寺の方へと顔を向ける。
「『リュカオンの子供達キンダー・ダー・リュカオン』の治療に当たったのも久し振りだが、君、ちゃんとした主治医はいるの?」
「はい。昔からお世話になっている先生が一人います」
「なら問題無いか。後で、その人に事情を伝えておこう」
 薬師寺が首肯しゅこうしたのを認めて、リウドルフも得心したような素振りを見せた。
 然る後、リウドルフは首を小さく横に振る。
「まあ何にせよ、君達が助かったのは中毒の程度が低かった所が大きい。俺の手腕て訳じゃない。現に、『もう一人』の方は助けられなかったからな」
 リウドルフがしんみりとした口調で告げると、薬師寺と鬼塚もそれぞれに表情を曇らせた。
 あの夜、謎の『蜘蛛』の襲撃を退けた後、薬師寺と鬼塚、そして田子はそろって市立病院の救命救急センターに搬送されたのだった。そこで偶々たまたま夜勤の手伝いに当たっていたリウドルフの助力も得られて、薬師寺と鬼塚には適切な治療が施されたものの、先に『蜘蛛』に囚われた田子だけは意識を取り戻す事も叶わず、そのまま鬼籍に入る事を余儀無くされたのであった。
 毒性を帯びた糸に長時間触れていた事が死因となったらしい。
『お前達の接触如何にかかわらず、標的マトが拉致及び殺害に至らしめられた蓋然性がいぜんせいは極めて高いものであったと推測される。お前達はお前達に出来る事をやったのだし、その結果であるならばこれも致し方無い。事実を受け入れ、今は治療に専念しろ』
 二日前、病室を訪れた白井良子は、穏やかにそう言った。
 とは言え、目の前で新たな犠牲者を出してしまった事は事実である。
 薬師寺も鬼塚も、それぞれに気の晴れぬ表情を病床でたたえたのだが、それを見越してか、白井は不意に挑発的な笑みを浮かべて見せたのだった。
『ともあれ、これで「一〇八課われわれ」が介入するに足る事件ヤマである事がようやく立証された訳だ。たとえ偶然であれ、「暗室われわれ」を敵に回した事をすぐに後悔させてやる。裏で糸を引いている連中にな』
 そう宣言した上司へ、薬師寺と鬼塚は共に底光りする瞳を向けて答えたのだった。
 そして今、そんな二人を前にして、リウドルフは鼻息をく。
「しかし何だね、君らも決して脆弱だとは思えないのに、こうして病院に担ぎ込まれるなんて、随分と厄介な事件を追っ掛けてるみたいだね」
「まあ、土台、楽な仕事は回っちゃ来ませんがね……」
 鬼塚が困ったように言うと、リウドルフも苦笑を返した。
「そりゃそうだ。警察も病院も、事態が酷くなってから初めて頼られる。こっちも少しは楽な仕事をしたいもんだよ」
 そうして能天気に笑う相手を、鬼塚は窓辺から半ば呆れて眺めていた。
 呑気と言うか、矢鱈やたらとマイペースな奴だ。
 それでも、この男の本名は、テオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム。およそ五百年前に様々な逸話を残し、そして今も尚活動を続ける伝説の錬金術師なのである。
 そんな夢物語の登場人物が現実に目の前に立っていると言うのに、この現実味の希薄さはどうだろう。相手も相手で、勿体もったい付けた所がまるで無い。
 いや、そうした態度自体は称えるべき美点なのかも知れないが、余りにも自然体に接して来られると、かえって尊大さが見え隠れしているようにも思えて来るのである。
 いくつもの技能と専門知識を有する偉大な先人からすれば、浮世も所詮は巨大な遊び場のようなものに過ぎぬのだろうか。
 こうして休日の昼日中に、天下の市立病院で医師として平然と活動していられる程に。
 鬼塚は困り顔を収めるのと同時に、何やらむずがゆい表情を浮かべたのだった。
 うらやましいを通り越して、絶対に相容あいいれないタイプだな、こういうのは。
 そう思って目を細めた彼の前方で、その生粋の『自由人』は、もう一人の『自由人』と会話を続けている。
 本人さえ望めば、いつ如何なる方法でも浮世を渡って行けるだろう男、薬師寺は、この場にいても物怖じなど微塵ものぞかせず、『人にして人ならざる者』と普段通りに話し込んでいたのであった。
 昼の暖かな日差しが差し込む病室に、奇妙な空気が漂った。
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