幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

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去年のリッチな夜でした

その37

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 およそ二十分前、問題のビルの内部には殺気立った空気が渦巻いていた。
「ガサ入れぐれェでイモ引いて(※怖気付いて)んじゃねェぞ、てめェらァ! 要は上の階に行かさなきゃ良いんだ! 玄関で足止めして時間稼いどけェ! ゴネてゴネてゴネまくらねェかァ!!」
 壁に高く掲げられた代紋に、低く濁った声がね返った。
 六畳程の広い室内に、屈強そうな男達が集められていた。服装も髪型も髪の色もてんでばらばらの彼らであったが、今この時ばかりは、誰もが顔中に緊張をみなぎらせていた。
 そんな一同の先頭、奥の壁際に置かれた黒檀の机を背にして、安木は口角泡を飛ばして部下達へ指示を下したのだった。
「いいかァ!? 向こうから手ェ出して来ねェ限り、絶対に手ェ出すんじゃねェぞォ! くまで穏便にお引き取り願うってェのを忘れんなァ!! 俺もすぐに駆け付けっから、くれぐれも下手ァ打つんじゃねェ!!」
 呼応する声が、社長室兼応接室を揺らした。
 そして、階下へと慌ただしく駆けて行く部下達の後ろ姿を見送った後、安木は背中越しに言い放つ。
「おめェは急いで死体ロクの始末を付けとけェ。エレベーターは停めてあんだ。後ァ階段ふさいじまやァ、警察やつらもすぐにゃァ上がって来れねェ。その間に、消せる証拠は全部消しとくんだァ」
 そう告げた安木の後ろに、『チェン』が控えていた。
知道了チィダオラ」(※「判った」)
 急いた空気の満ち満ちる建物の中でも、これまでと何も変わらぬ泰然とした態度を崩さず、『チェン』は一人穏やかにたたずんでいた。
 さながら、梢に身を潜めて雨が上がるのを待つ鳥のように。
 廊下を伝って、階下から絶え間無く罵声が鳴り響く。
 安木が、肩越しに振り返った。
「兎に角、ロッカーん中の死体さえ始末しときゃァ、後ァ何とでも誤魔化しが利く。『虫』に食わせるなり何なりして、はえトコ消して来い」
「いいけど、その前に一つ」
 緊張を孕ませた安木とは対照的に、表情を一切変化させず、『チェン』は首を少しかしいだ。
公安ゴンアンは、何の容疑で取り調べに来たの?」
「殺人の容疑だとよォ。ほれェ、こないだのさらい損ねた奴の件だ」
 苛立ちを乗せた安木の説明を受けて、『チェン』は顎先に手を当てた。
「……思ったより早かったな」
 『チェン』の漏らした呟きには気付かず、安木は机の上に置かれた湯呑を一口あおると、口の端を吊り上げた。
「馬鹿な奴らだ。そんな事、何の立証も出来ねえってのに。家宅捜索 ガ サ までやらかしやがって、どう説明付ける気だ」
 自分を落ち着かせる為でもあるのか、過分に嘲りを含んだ口調で吐き捨てた安木を、『チェン』は静かに見つめた。
「『説明』を付けられる奴らが混ざってるのかも知れない。それに、そういう奴らは、わざわざ『説明』なんか遣しちゃくれないだろう」
 特に焦るでもなく、冷ややかですらある口調でそう指摘してから、『チェン』はまた首をわずかに傾かせた。
「何にせよ、やれる事はやっておく。捕まるのは怖くないけど、面白くもない」
「おォ、頼むぜェ」
 安木の言葉を背に受けながら、『チェン』は社長室の扉をくぐった。
 去り際に、口元をかすかに震わせながら。
「……早めに『仕込み』を済ませといて良かったかな……」
 誰の耳にも入る事の無い微細な独白を、階下から伝わる怒声が掻き消した。
 そして現在、雑居ビルの入口付近は異様な混乱に覆われていた。
 内部へ足を踏み入れた薬師寺と鬼塚が目の当たりにしたのは、まるで大規模な暴動の一場面のような光景であった。
 建物の奥から、先に突入した警官達が泡を食った様子で退避して来る。
「装面! 装面!!」
 誰かが破れ被れに放った濁った叫びが、壁に反響した。
 その騒乱の向こうから、『それら』は姿を現したのだった。
 輪郭だけは、人のものに間違いは無かった。
 恐らくは、このビルに拠点を置く『会社』の従業員、反社会的勢力の構成員達なのだろう。
 否、この場合、『そうであった』者達と呼ぶべきなのだろうか。
 新たに現れた人間達は、いずれも明確な意思の発露を喪失していた。
 服装に乱れこそ生じていなかったが、『彼ら』は皆その瞳から焦点を失くしており、目や鼻から血を流している者も散見された。何よりも、廊下の奥から駆けて来るその動きには、人間的と呼べる箇所がまるで見当たらなかったのである。
 さながら激しい引き付けでも起こしているかのような、さもなくば見えない液体に沈んで必死に藻掻もがいているかのような、尋常ならざる反応を絶えずのぞかせていたのであった。
 周りにならって防毒マスクを装備した薬師寺と鬼塚は、白昼の混乱を前にして緊迫した面持ちを浮かべた。
 毒物の製造に熟達した容疑者の根城に押し掛ける手前、最悪の場合に備え、何かの毒ガスを見境無しにばらいて来る危険性まで考慮して、家宅捜索は実行に踏み切られたのである。
 しかしながら、現在直面している有様は、そうした事前の予測を完全に逸脱した代物であった。
 完全に正気を失くしていると判る男達が、手近の警察官にし掛かり、手足を滅茶苦茶に振り回す。そもそも敵味方の識別はおろか、自分以外の認識が全く出来ていないのだろう。正気を失くした者同士で互いに揉み合う様子や、壁や扉にひたすら体当たりを繰り返す者の姿すらも建物内には認められた。
「……凶暴化をうながす神経ガスでもかれたのか?」
 防毒マスクの内で薬師寺が疑問を口に出すと、隣で鬼塚が首をひねった。
「判んねえ。単純な毒物じゃなさそうな感じだが……」
 そう言葉を濁した後、鬼塚は隣に立つ相棒へ問い掛ける。
「……で、どう見る、この流れ?」
 問われた薬師寺は、防毒マスクの中で目を細めた。
「……陽動、時間稼ぎ、捨て駒の有効活用……おおむねそんな辺りか」
「だろうな。となりゃ……」
 鬼塚が挑発的に言ったのに合わせて、薬師寺も眼光を鋭いものへ変える。
「強行突破するしか無い訳だ」
 そして間を置かず、二人は駆け出した。
 混乱の最中に置かれた建物の奥深くへと、薬師寺と鬼塚は戸惑う事無く走り出す。
 外ではそろそろ、昼の盛りに差し掛かる頃合いであった。

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