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去年のリッチな夜でした

その42

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 その人込みの只中に、中村は立っていた。
 往来を繰り返す人の中にたたずみ、路肩から遠方を眺める彼の前方に、これまで幾度いくどとなく足を運んだビルが、西日を浴びてそびえ立っている。そこへと通じる道路は今も警察によって封鎖されており、正面玄関前では、何人もの警官が慌ただしく出入りを繰り返している最中であった。
 何やら尋常でない様子をのぞかせた市街の一角を、中村は冷めた面持ちで遠くから見遣っていた。
 始まったな、と彼は思った。
 終わりの始まりが、ついに。
 物々しい遠方の様子を見物する野次馬の頭越しに、中村は事態をただ静観していたのであった。
 今頃、あのビルの中では、さぞや血生臭い事態が巻き起こっている事だろう。それが外部からもたらされたものであれ、しくは内部から膨れ上がったものであれ、待ち受けているのが破滅のみであろう事は想像に難くない。
 自分がその原因の一つをわざわざ用意したのも、揺るがせに出来ない一つの事実ではあるのだろうが。
 かすかな後ろめたさを覚えるのと一緒に、中村は人込みの中でふと回想する。
 あの夜、『チェン』と最後に言葉を交わした時の事を。
 日が登ろうとも沈もうとも、この一室には何の変化ももたらさぬようであった。
 部屋の中央に置かれた大型の作業机の前に腰を下ろした『チェン』は、卓上に無数の器材を並べ、独り黙々と『製薬』に勤しんでいた。階下の組員が誰一人として近寄ろうともしない中で、それでもこの男は独り言を漏らす事も無く、何処までも淡々と己の職務に没頭している。
 手元に小さな明かりを灯している他は、これまでと変わる箇所も見付からない。いつも通りの一人舞台で、『チェン』は自らの業務を人知れず続けていたのだった。
 さながら、か細い光と細かな手作業で、周囲の暗闇を削り出して行くかのように、『チェン』はひたぶるに指先を動かし続けた。
 ややあって、『チェン』はおもむろに顔を上げる。
「……どうした?」
 たずねた相手のかたわらで、中村は肩をすくめた。
「いや、俺もそろそろ御役御免と相成っちまってな。ここらでお別れって所だ」
「へえ……」
 大した興味も無さそうに、『チェン』は相槌を打った。
「……お名残惜しい?」
「そこまでは言わねえよ」
 中村は四角い顔に苦笑を浮かべたが、程無くそれも収めると、改めて『チェン
を見つめた。
「だが、帰り掛けの駄賃とでも言うか、お前さんとはもう一度、話をしとこうかと思った」
「ふーん……」
 やはりしたる感慨も乗せず、淡々と机の前で作業を続ける相手へ、中村は横から話し掛ける。
「……お前は、この先『何』をしたいんだ?」
 問われた『チェン』は、試験管立てを引き寄せていた手を止めて、中村の方へ首を巡らせた。
「……『何』ってのは?」
「そのまんまの意味だ。今の組にずっと居座るにしろ、他所よそへ移るにしろ、お前は通して『何』をしたい? 金を稼ぐだけ稼いで中東に隠遁いんとんするとか、政治屋共のお得意様になってちやほやされたいとか、何か長期的な目標みたいなものはあるのか?」
「別に」
 特に見栄を張った様子も無く、実に素っ気無く、『チェン』は即答した。
 そうして、『チェン』は顔を前に戻すと、試験管を一つ摘み上げる。
「俺はこの先も『仕事』を続けて行くだけだ。誰かに頼まれれば応じる。それだけだ」
「それだけって……」
 暗がりを背に、中村は所在無さそうに一笑した。
「そんなんじゃその内、知らない内に誰かに使い捨てにされたり、何かの巻き添えを食らって呆気無くくたばる破目ンなるぞ」
「だったら、俺の『命』がその程度の代物だったって事だろう」
 あっさりと答えるのと一緒に、『チェン』は椅子の上で身を屈めると、足元の床から何かを拾い上げた。
 程無く、卓上に照明に浮かび上がったのは、茶褐色の体表を持つ蛇であった。
 『チェン』はその蛇の口を片手で無理矢理開かせ、もう一方の手で試験管をそこへ押し付ける。試験管の縁に、剥き出しにされた牙を押し付けられた蛇が、しきりと身悶みもだえを繰り返した。
「俺の『命』なんて、いや、誰の『命』であろうと、そこに大した『値打ち』なんか無い。結局は誰かの都合で産み落とされ、そのまま誰かの都合で使い捨てられて行くだけだ」
 試験管の中に、黄ばんだ毒液が点々と滴り落ちて行く。
 その様子を冷ややかに俯瞰ふかんしながら、『チェン』は言葉を続ける。
「……『一孩政策イーハイチュンスゥ』は知ってるか?」
 それまでよりも随分とぞんざいに、そして冷たく訊ねて来た相手の態度に、中村は少し戸惑いつつも横合いから答える。
「……『一人っ子政策』って奴だろ。中国政府が昔推し進めた人口抑制政策だな。余り良い評判は聞かないが……」
「前にも言ったが、俺の生まれた所は山間部の農村だった。ああいう土地に住んでる連中ってのは、変な所で馬鹿正直な奴らが多い。決まり事には決して逆らわず、むしろそんな姿勢を鼻に掛けてる奴らばっかりだったな、実際。昔からの仕来しきたりを鵜吞みにし、党の命令にも大人しく従う。互いの顔色ばかりうかがって、誰一人疑問の声を上げる事もしない」
 これまでにない冷厳さとわずらわしさをのぞかせて、『チェン』は吐き捨てるように評した。同時に、手元に余計な力が加わったのか、試験管に押し付けられた毒蛇が、長い胴体を一際苦しそうにくねらせる。
「俺は農家の長男だった。幸運にも、と言うべきなのかな。だが、だからこそ、『そう成れなかった』奴らの末路を何度も何度も目にする事になった」
 そう言ってから、『チェン』はまた、かたわらに立つ中村を見上げた。
「俺には二人の妹がいた」
 暗闇に、曇りの無い声が拡散した。
 数秒に渡る黙考を経て、中村は顔をしかめる。
「……そりゃつまり……」
「『黑孩子ヘイハイズ』(※政策上、戸籍を与えられなかった『存在しない』子供達)と言う奴だ。どっちも生まれて一週間と経たない内に、何処かへ売り飛ばされたよ」
「無理矢理生き別れにされたのか? 今は一体どうしてる?」
「さあね。出生届すら出されちゃいないんだ。判るはずが無い。だが、今でも『生きて』はいるんじゃないか? 誰かの腹の内側に収まると言う形で」
 突き放すように説明した後、『チェン』は首をかしいで見せた。
「その後も、似たような事例を沢山目の当たりにして来たよ。昔からそうだが、田舎じゃ女の跡取りなんて何処も欲しがりゃしない。そこへさらに追い打ちを掛けたのが例の政策だ。堕胎や人身売買なんて昼日中でも横行していた。隠すも何も、わざわざ『買い付け』に来る奴らが初中しょっちゅう村を訪れるんだ。何が起きてるのか、子供でも判ったよ。村の為、政府の為、国の未来の為、そんな文句ばかりが開けっ広げに飛び交っていたっけな。事実、そこそこの収入源になってたんじゃないか? あんな辺鄙へんぴな村にとっては」
 絶えず冷たい眼光をたたえたまま語る相手を見下ろす内、中村は無意識に唾を呑み込んでいた。
 その時、毒液の採取が終わったのか、『チェン』が片手に握っていた蛇を放した。解放された毒蛇はそのまま床にぼとりと落ち、近くにたたずむ中村の方へと勢いい進んで行く。
 中村が、身を一瞬強張らせた。
住手フーショウ!」(※「やめろ!」)
 『チェン』が短く叱咤すると、毒蛇は中村の足先で矢庭に首の向きを変え、かたわらの闇の奥へと消えて行った。
 中村は、ネクタイを少し緩めた。
「……じゃ、じゃあ、何だ? お前は、そうやって犠牲になってった子供達の姿を見て育つにつれ、世の中に愛想を尽かしてったってのか?」
「いや、別に」
 そして、『チェン』は毒液が三分の一程も注がれた試験管を、卓上の試験管立てに戻す。そうして目の前に広がる暗がりを見据えながら、彼はやおら口を開いた。
「ただ、察しただけだ。『判った』んだよ。『世の中』も、誰かの『命』も、俺の『命』ですらも、結局は『そういうもの』なんだと『理解』しただけだ」
 闇に向けて宣言の放たれた後、『チェン』の口元に微笑がたたえられた。
 それを認めるなり、中村の双眸そうぼうの内で、瞳孔がにわかに広がった。
 彼もまた、この時に『理解』したのであった。
 以前目にした時と同じ亀裂のような笑み、それは取りも直さず、『捕食者』の相貌そうぼうそのものであった。
 冷酷にして無慈悲。
 己以外の全てを『餌』としてとらえ、『餌』としてのみ値踏みする。
 他ならぬ己自身もまた、他の誰かの『餌』と成り果てる事実を認めたからこそたたえられる、それは『彼岸』の境に身を置いた者だけが備える嘲笑であった。
「何を勿体もったい付けて高説をった所で、『命』なんて、何処にでもあふれ返る『素材』の一つにしか過ぎないんだよ。『誰か』の都合で生み出され、『誰か』の都合で消費されるだけの『材料』だ。使い捨ての『部品』だ。だったら、『それ』を好きに取り扱う事の何が悪い? 俺はただ、周りの要望に応えているだけだ。本当に他人を食い物にしているのは『そいつら』なんだからな」
 そうして酷薄にして辛辣な笑みを浮かべたまま、『チェン』は中村へと再び顔を向けたのだった。
「だから、俺は俺で自分の技能を生かし続ける。世の中が『そういうもの』なら、こっちはこっちで勝手にやらせて貰う。これまでもそうして来たし、この先もそうするだろう。俺は何も求めやしない。みっともなく『何か』を求めてすがり付いて来るのは、いつだって周りの奴らだ」
 そう断言した一人の男に対し、中村は何の言葉を返す事もしなかった。すぐそばに立ちながら、彼は何も言い返す事が出来なかったのであった。
 それでも、やがての末に、中村は重く湿った息を吐く。
「……また、随分と親切に教えてくれたもんだな、通りすがりの俺なんかに」
 少し上擦うわずった声で言った相手を、椅子に腰掛けた『チェン』は穏やかに見上げた。
今更いまさら大した問題じゃない」
 次いで、彼は淡白に告げる。
「あんた、もう死ぬ」
「何……?」
 俄然がぜん眉をひそめた中村の眼下で、『チェン』は針金のように細く鋭い視線を、相手の面皮へ無遠慮に突き立てた。
「俺がどうこうするって意味じゃない。そういう『相』が出てる。持って一年程度だろう、あんたの『命』も」
 『チェン』は、瞳をわずかに細めた。
「昔、易を少しだけかじった事がある。後は、『そういう連中』を長年見て来た経験から、かな」
 素っ気無く告げて、『チェン』はまた机に体を向けると、何かの作業に取り掛かったのであった。その姿を、限り無く近くて果てし無く遠い『その男』の姿を、中村はひたぶるに見つめていた。
 表情に欠ける闇をたたえた室内を、細かな作業音だけが満たしていた。
 そして今、中村はその底知れぬ闇を収めた建物を、遠方から望んでいたのであった。
 付近を往来する警察官の血相を変えた様子から、事態は未だ収まっていない事は容易に察せられる。他の通行人や野次馬達がそれぞれに不安げな眼差しを送る中で、中村は一人、泰然とその様子を眺めていたのだった。
「……凶鳥来たりて死を告げり、か……」
 口中で独白した彼は、西日を浴びて浮かび上がるそのビルを見つめる。
 細めた目に、悔しさともわずらわしさとも付かぬ眼光をあふれ出させながら。
 それでもしばらくして、中村は視線を下げると、人込みの中で小さくかぶりを振った。
 たとえ『奴』の抜かした事が事実だとしても、甘んじて『それ』を受け入れてやる義理は無い。
 現に今こうして、目前の危機を逃れて、俺はここに立っているのだから。
 他に比べれば大した真似も出来ない三一サンピンに過ぎないとは言え、三一サンピンには三一サンピンなりの身の振り方があるはずだ。
 ならば、こちらはくまでもこそこそと、みみっちくも図々しく生き延びてやる。いつか、理不尽そのものの『死』が否応無く眼前に押し寄せて来るその時まで、何処までも利口に、こすずるく立ち回ってやる。
 人垣の只中で、中村は人知れず固い決意を胸に秘めたのだった。
 それから間も無く、彼は混乱の現場に背を向けると、沈み行く太陽と同じ方向へ歩き出す。
 去り際、肩越しに背後の景色を一瞥して。
「……あばよ」
 最後に小さく漏れ出た呟きは、周囲のざわめきの中へたちまち飲み込まれて行った。
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