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去年のリッチな夜でした
その45
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何処か遠くで、救急車がサイレンを鳴らしている。
打ち砕かれた壁から望む街並みはいつもと変わり無く、軒を連ねた商店や民家が静かに西日を浴びていた。
その、外界へと繋がる『口』の横手に立って、鈍色の爬虫人は黄金色の瞳を今も相対する二人へ向けたのだった。
「さあ、どうする? 今からでも俺を見逃すと言うのであれば、このまま大人しく退散してやるぞ? 無論、この国を出るまで追って来ないと言う確約付きでの話だが」
些か以上嘲りを含んだ言い草に、薬師寺も鬼塚もそれぞれの眉間を歪めた。
「現行犯と口約束を交わす警官が何処にいる!」
片手で腹部を押さえた白銀の人狼が吐き捨てるように答えてすぐ、鬼塚もまた不遜な容疑者を睨み据える。
「そもそも司法取引にも何にもなりゃしねえだろうが、そんなの! 自分勝手な事抜かしてんじゃねえ!」
相次いで返って来た拒絶の言葉に、『鴆』は僅かに目を細めた。
「何処まで行っても頑迷な連中だな、官吏と言うのも。そうやって躍起になって、自分の『正義』を護る事がそんなに尊いか」
「少なくとも、小銭稼ぎに誰かの命を奪うよりかはましだろうよ……!」
そう言い捨てるや、薬師寺は再び床を蹴った。そのまま『鴆』の側面に回った彼は、壁の穴を遮るようにして、敵の逃走経路を塞いだのであった。
鋭い爪が、風を巻き上げた。
「何をほざこうが、一度犯した罪が消える事は無い! たとえこの場を逃げ果せた所で、気の休まる暇があると思うな!」
「未だ嘗て慌てふためいた憶えも無いがね」
白銀の人狼が息吐く間も無く繰り出す爪の連撃を、鈍色の爬虫人は苦も無く躱して行く。首筋を狙って迫り来る引っ掻きを伏せて避けるのと一緒に、鈍色の爬虫人はまたも尻尾を翻し、白銀の人狼の脇腹へ打ち付ける。
咄嗟に下方へ肘打ちを見舞った薬師寺は、すんでの所で尾の強襲を打ち落とした。
そうして身を屈めたまま、『鴆』は興奮からは程遠い眼差しを遣す。
「さっきも言っただろう? 俺はただ、周りの『要求』に応えただけだ。俺が居ようと居まいと際限無く湧いて出る『需要』に対して、細やかな『供給』を以って応えただけだ。俺自身が何かを目論んでやった事など、只の一度も無い」
「倫を外れた要求は断るもんなんだよ、普通は!」
相手の隙を窺いながら、鬼塚が叱り付けた。
「他人事みたく御託並べやがって! 『薬物』なんざ買う奴も悪いが売る奴も悪い! てめえの『気紛れ』の陰で、どんだけの人間が苦しむ羽目ンなったか考えた事も無えのか!?」
「ならば初めから何も『望まなければ』良い。苦しむのが嫌なら、何故『そう』しない?」
唐突に、『鴆』は非難めいた口調で鋭く切り返した。
そして、鈍色の爬虫人はゆっくりと腰を上げると、片手を水平に掲げ、崩れた壁の向こうに広がる景色を指し示す。
西日を浴びて、今も静かに、何処までも連なる街並みを。
「『あれ』を見ろ。『お前達』が普段身を置き、幾度と無くその目に映しながら、その実、決して意識しようとしないあの『景色』を」
元々の『異形』の眼差しと、かてて加えて、そこに込められた只ならぬ気迫に押され、薬師寺も鬼塚も、俄かに追撃を加える事も出来なかった。
「日本も中国も大差は無い。『社会』の有様など何処も彼処も同じだ。集まり、寄り添い、その上で互いに互いを押し退け合って成り立つのが、あらゆる『群』が辿る唯一の形だ。いずれの『社会』に身を置く者も、意識無意識を問わず、決して途絶える事の無い『競争』を日々飽く事無く繰り返している。誰もが産み落とされたその瞬間から否応無しに『義務』付けられ、消費と生産が完全に途絶える『死』の間際に至るまで『それ』は続く。周囲を取り巻く同類に押し流され、見下しては見下されるを繰り返しながら、遂には疑問を抱く事さえ忘れて、誰も彼もが巨大な『流れ』の一部と化して行く。それが、この『景色』だ」
壁の穴から差し込む西日に半身を染め上げながら、鈍色の爬虫人は峻厳たる口調で説き続ける。
「単純に効率化を推し進めただけでは、到底『ここ』までには至るまい。盲目的な『競争』こそが人間の根底に広がる何よりの『行動原理』であり、抗う事も逃れる事も叶わない『宿業』そのものだ。如何に言葉で取り繕おうとも、人は必ず『そこ』へ立ち返って来る。壺の中で蠢く『毒虫の群』と、進んで集っておきながら相争う『お前達』との間に、一体どれだけの違いが在る? 俺は、誰もが抱く抑え難い『欲求』に、少しばかり手を貸しているに過ぎない」
そこまで言うと、『鴆』は外に広がる果てし無い街並みへと、徐に首を巡らせた。
「それでも敢えて付け加えるのなら、『俺』はこの『景色』の『成れの果て』を見てみたいのかも知れない。『目標』無くして、『競争』無くして人は生きる術を知らない。この広大無辺な『蠱毒の壺』の中で潰し合う者共が、この先果たしてどうなって行くのかを『俺』は知りたい。終わりの見えない『共食い』の果てに、いずれ一匹残らず死に絶えるのか。それとも、より強く恐ろしい『種』がいつかその中から現れ出でて、他を駆逐して回るのか。術者としても、一個人としても見定めたいのかも知れない。この『俺』に『望み』があるとすれば、精々そんな所だろう」
特に威張るでもなく、『鴆』は淡白に断言した。
そんな相手を、数多くの人間を自らが創り出した『毒』によって破滅させ、自らも『毒』を食らって『異形』と化しておきながら尚、微塵も動じずに自他を評する目の前の男を、薬師寺と鬼塚は半ば呆然と見遣っていたのであった。
「……何、言ってんだ、こいつ……?」
上擦った声を、鬼塚は思わず漏らしていた。
薬師寺もまた、気圧されるように顎を引き、上目遣いに目の前の『敵』を見つめる。
この時、両者が共に抱いていたのは、戦慄に近い感情であった。
西日に照らされた鈍色の爬虫人の影が、音も無く床へと刻み付けられる。突き出た頭と掲げられた尻尾の影が左右に引き伸ばされ、それはあたかも、翼を広げた『鳥』のような輪郭を形成したのだった。
自らは何も望まぬまま、羽ばたきと共に猛毒を撒き散らし、然れど己の所業に何を感じ入る事も無く、ただ来たり去るを繰り返す『伝説の毒鳥』。
『それ』の生み出す『毒』を求め欲し、己が妄執に駆られるまま用いて来たのは、常に『人間』の側であった。
『それ』自身は何も求めず、何も欲さず、ただ浮世に『毒』だけを振り撒いて飛び去る孤高の『鳥』。
その名を即ち『鴆』と呼ぶ。
そして、その『鳥』の名を持つ一人の男は、西日を浴びる中で更に一層強く輝く黄金色の双眸を、居合わせた二人へと向け直したのであった。
「……ああ、だから、やはり捕まるのは面白くはない。どうせこの『世界』の行き着く先を見届けるのなら、狭い籠の中からではなく、もっと見晴らしの良い場所から眺めたい。それもまた俺の『望み』だ」
言葉の奥底に、昏い悦楽が蟠っていた。
俄かに緊張を漲らせた薬師寺と鬼塚の前で、『鴆』は三度その姿を変貌させる。
西日によって刻まれた影が、急速かつ急激に変化して行く。
鈍色の爬虫人の背部から巨大な蠍の尾が新たに突き出し、両の肩口からは蓑笠子の胸鰭のような器官が現れる。全身を覆う鱗の表面には毒々しい斑紋が浮かび上がり、その口元からは、百足のものと同じ一対の鋭い牙が生えたのであった。
そして、身構えた白銀の人狼へ向け、あらゆる有毒生物の特性を併せ持つ『異形』の人影が襲い掛かった。
五指を広げ、『鴆』は薬師寺に爪を振り下ろす。薬師寺の、白銀の人狼の物より大きく鋭い爪が、『異形』の人影の指先からは伸びていた。
否。それは最早『爪』ではなかった。
短刀さながらに湾曲し、先端から点々と毒液を滴り落とす、毒蛇の牙そのものであった。
五指の『毒牙』による一撃を紙一重で避けた薬師寺の横合いから、蠍の尾が唸りを上げて襲い来る。弧を描いて先端の毒針を突き立てようとする尾の一撃を、白銀の人狼は、咄嗟に尾の根本近くを蹴り付けて凌いだのだった。
息吐く間も無く繰り出される『毒』の連撃。
どれか一つでもその身に浴びれば、決して死は免れぬであろう怒涛の攻撃を矢継ぎ早に繰り出されては、白銀の人狼も回避に徹するより打つ手が無い有様であった。
離れて立つ鬼塚にとっても、それは同様であった。
人外の姿を取る敵の動きを捉えるのは容易ではなく、縦しんば動きを見切れた所で、有効な攻撃手段が現状無い。より大口径の大型火器でも急ぎ持って来ない限りは、夥しい数の生物を取り込んだこの敵に対して有効打を与える事は不可能であろう。
せめて、せめて何処かに隙を見付けられれば。
たとえ一瞬の空白であろうとも。
鬼塚が懸命に寸毫の間隙を覗う間にも、戦局は白銀の人狼に対して刻々と不利へと傾いて行った。
そして、遂にその時が訪れた。
コモドオオトカゲの尾が鞭のように撓り、それをどうにか捌いた薬師寺の頭上に、もう一振りの、蠍の尾が襲い来る。
その場を大きく飛び退いて二本の尾の時間差攻撃を凌いだ薬師寺であったが、代償として、着地した先で姿勢を崩してしまったのだった。
そこに生じた極微の空白を、敵が見逃す道理も存在しなかった。
自身の横手へと逃れた白銀の人狼へと向け、『鴆』はそのまま突進する。余計な動作を前後に一切挟まず、肩口から体当たりを繰り出す形で、『異形』の人影は白銀の人狼に激突したのであった。
『異形』の人影の双肩には、巨大化した蓑笠子の胸鰭が備わっていた。そして、その鰭の根元からは、太く鋭い針が突き出ていたのである。
その毒針が、薬師寺の左胸に深々と突き立てられた。
驚愕によってか、それとも毒の齎す激痛によってか、白銀の人狼が顔を大きく歪めた。
対する『鴆』は、殊更に会心の雄叫びを上げるような真似は見せなかった。
或いは、彼も察していたのやも知れぬ。
直後、毒針に胸を刺された白銀の人狼の身体が、出し抜けに縮んで行く。
体積を急激に減らしたそれは、間も無く一枚の紙片と化し、人型の形代となって『異形』の人影の目の前を舞ったのであった。
次いで、更にその形代の上下左右から、無数の同じ白い紙片が分裂するかのように溢れ出し、一陣の紙吹雪となって『鴆』へと吹き付けたのだった。
突然の事に動きを止めた『異形』の人影の頭部を目掛け、夥しい数の形代が密着して行く。両の瞼を貼り付け、鼻腔を塞いで耳孔に被さり、大きく裂けた口さえも封じて、白い紙片が『異形』の人影の顔を忽ち覆い尽くした。
「今だ!!」
鬼塚が叫んだ斜交いで、それまで距離を置いていた白銀の人狼が標的へと飛び掛かった。
全ての感覚器を封じられた『鴆』の背後から、完全な死角から薬師寺は急襲を仕掛けた。壁の穴から差し込む西日に体毛を煌めかせ、宙を舞った白銀の人狼は落下の勢いそのままに、鋭い爪を『異形』の人影の首筋を目掛けて打ち下ろした。
その刹那の事であった。
頭部を紙片に覆われたまま、その場から僅かたりとも動きもせずに、『鴆』は出し抜けに片腕を振るったのだった。後方を顧みもせず、まるで無造作に腕だけを旋回させて、『異形』の人影は背後から迫り来る敵を迎撃した。
空を裂いて翻った爪が、今正に致命の一撃を加えようとした白銀の人狼の脇腹に突き立てられた。
日差しに輝く剛毛を貫き、五本の『毒牙』が深々と肉の内にまで食い込む。死角を突いて襲い掛かった筈の白銀の人狼の死角を逆に突いて、『異形』の『毒牙』が遂に標的を捉えたのであった。
薬師寺と鬼塚が、同時に目を見張った。
その最中、『異形』の人影は猛然と体を反転させると、空中で体勢を崩した白銀の人狼へと瞬時にして鼻先を近付ける。依然として顔中を紙に覆われ、眼差しを遣す事も出来ぬまま、それでも『鴆』は薬師寺へと向き直ったのだった。
僅かに開いた口の端から、二つに分かれた長い舌を覗かせて。
「……臭うんだよ」
低く呟いた直後、『鴆』は貼り付いた形代ごと口を大きく押し開くや、白銀の人狼の喉元に一息に噛み付いた。
「がはっ……!!」
空中で仰け反った薬師寺の口元から、大量の鮮血が溢れ出る。
飛び散った血の雫が、宝石のように西日に輝いた。
そのまま上体を振り回した『異形』の人影は、食らい付いた白銀の人狼を壁際まで放り投げたのであった。
軌道上の床に、少し遅れて血が点々と滴り落ちる。
そして、無様に床に落下し、俯せに倒れた薬師寺を、形代を剥ぎ取った『鴆』は冷ややかに見下ろしたのだった。
「……完了」(※「……終わりだな」)
口元から溢れ出た血が、その足元にぼたぼたと滴り落ちる。
黄金色の双眸に、侮蔑とも嘲弄とも異なる、冷厳たる意志の光だけを乗せて、死を運ぶ『凶鳥』は蹲る獲物を見下ろした。
「お前は死ぬ。最早『相』を確かめるまでもない」
厳かですらある宣告が、赤味を増す西日の中に下された。
立ち尽くす鬼塚の前で、薬師寺は今や弱々しく全身を震わせるばかりである。
斜陽に照らされる街並みは、何の表情も覗かせなかった。
打ち砕かれた壁から望む街並みはいつもと変わり無く、軒を連ねた商店や民家が静かに西日を浴びていた。
その、外界へと繋がる『口』の横手に立って、鈍色の爬虫人は黄金色の瞳を今も相対する二人へ向けたのだった。
「さあ、どうする? 今からでも俺を見逃すと言うのであれば、このまま大人しく退散してやるぞ? 無論、この国を出るまで追って来ないと言う確約付きでの話だが」
些か以上嘲りを含んだ言い草に、薬師寺も鬼塚もそれぞれの眉間を歪めた。
「現行犯と口約束を交わす警官が何処にいる!」
片手で腹部を押さえた白銀の人狼が吐き捨てるように答えてすぐ、鬼塚もまた不遜な容疑者を睨み据える。
「そもそも司法取引にも何にもなりゃしねえだろうが、そんなの! 自分勝手な事抜かしてんじゃねえ!」
相次いで返って来た拒絶の言葉に、『鴆』は僅かに目を細めた。
「何処まで行っても頑迷な連中だな、官吏と言うのも。そうやって躍起になって、自分の『正義』を護る事がそんなに尊いか」
「少なくとも、小銭稼ぎに誰かの命を奪うよりかはましだろうよ……!」
そう言い捨てるや、薬師寺は再び床を蹴った。そのまま『鴆』の側面に回った彼は、壁の穴を遮るようにして、敵の逃走経路を塞いだのであった。
鋭い爪が、風を巻き上げた。
「何をほざこうが、一度犯した罪が消える事は無い! たとえこの場を逃げ果せた所で、気の休まる暇があると思うな!」
「未だ嘗て慌てふためいた憶えも無いがね」
白銀の人狼が息吐く間も無く繰り出す爪の連撃を、鈍色の爬虫人は苦も無く躱して行く。首筋を狙って迫り来る引っ掻きを伏せて避けるのと一緒に、鈍色の爬虫人はまたも尻尾を翻し、白銀の人狼の脇腹へ打ち付ける。
咄嗟に下方へ肘打ちを見舞った薬師寺は、すんでの所で尾の強襲を打ち落とした。
そうして身を屈めたまま、『鴆』は興奮からは程遠い眼差しを遣す。
「さっきも言っただろう? 俺はただ、周りの『要求』に応えただけだ。俺が居ようと居まいと際限無く湧いて出る『需要』に対して、細やかな『供給』を以って応えただけだ。俺自身が何かを目論んでやった事など、只の一度も無い」
「倫を外れた要求は断るもんなんだよ、普通は!」
相手の隙を窺いながら、鬼塚が叱り付けた。
「他人事みたく御託並べやがって! 『薬物』なんざ買う奴も悪いが売る奴も悪い! てめえの『気紛れ』の陰で、どんだけの人間が苦しむ羽目ンなったか考えた事も無えのか!?」
「ならば初めから何も『望まなければ』良い。苦しむのが嫌なら、何故『そう』しない?」
唐突に、『鴆』は非難めいた口調で鋭く切り返した。
そして、鈍色の爬虫人はゆっくりと腰を上げると、片手を水平に掲げ、崩れた壁の向こうに広がる景色を指し示す。
西日を浴びて、今も静かに、何処までも連なる街並みを。
「『あれ』を見ろ。『お前達』が普段身を置き、幾度と無くその目に映しながら、その実、決して意識しようとしないあの『景色』を」
元々の『異形』の眼差しと、かてて加えて、そこに込められた只ならぬ気迫に押され、薬師寺も鬼塚も、俄かに追撃を加える事も出来なかった。
「日本も中国も大差は無い。『社会』の有様など何処も彼処も同じだ。集まり、寄り添い、その上で互いに互いを押し退け合って成り立つのが、あらゆる『群』が辿る唯一の形だ。いずれの『社会』に身を置く者も、意識無意識を問わず、決して途絶える事の無い『競争』を日々飽く事無く繰り返している。誰もが産み落とされたその瞬間から否応無しに『義務』付けられ、消費と生産が完全に途絶える『死』の間際に至るまで『それ』は続く。周囲を取り巻く同類に押し流され、見下しては見下されるを繰り返しながら、遂には疑問を抱く事さえ忘れて、誰も彼もが巨大な『流れ』の一部と化して行く。それが、この『景色』だ」
壁の穴から差し込む西日に半身を染め上げながら、鈍色の爬虫人は峻厳たる口調で説き続ける。
「単純に効率化を推し進めただけでは、到底『ここ』までには至るまい。盲目的な『競争』こそが人間の根底に広がる何よりの『行動原理』であり、抗う事も逃れる事も叶わない『宿業』そのものだ。如何に言葉で取り繕おうとも、人は必ず『そこ』へ立ち返って来る。壺の中で蠢く『毒虫の群』と、進んで集っておきながら相争う『お前達』との間に、一体どれだけの違いが在る? 俺は、誰もが抱く抑え難い『欲求』に、少しばかり手を貸しているに過ぎない」
そこまで言うと、『鴆』は外に広がる果てし無い街並みへと、徐に首を巡らせた。
「それでも敢えて付け加えるのなら、『俺』はこの『景色』の『成れの果て』を見てみたいのかも知れない。『目標』無くして、『競争』無くして人は生きる術を知らない。この広大無辺な『蠱毒の壺』の中で潰し合う者共が、この先果たしてどうなって行くのかを『俺』は知りたい。終わりの見えない『共食い』の果てに、いずれ一匹残らず死に絶えるのか。それとも、より強く恐ろしい『種』がいつかその中から現れ出でて、他を駆逐して回るのか。術者としても、一個人としても見定めたいのかも知れない。この『俺』に『望み』があるとすれば、精々そんな所だろう」
特に威張るでもなく、『鴆』は淡白に断言した。
そんな相手を、数多くの人間を自らが創り出した『毒』によって破滅させ、自らも『毒』を食らって『異形』と化しておきながら尚、微塵も動じずに自他を評する目の前の男を、薬師寺と鬼塚は半ば呆然と見遣っていたのであった。
「……何、言ってんだ、こいつ……?」
上擦った声を、鬼塚は思わず漏らしていた。
薬師寺もまた、気圧されるように顎を引き、上目遣いに目の前の『敵』を見つめる。
この時、両者が共に抱いていたのは、戦慄に近い感情であった。
西日に照らされた鈍色の爬虫人の影が、音も無く床へと刻み付けられる。突き出た頭と掲げられた尻尾の影が左右に引き伸ばされ、それはあたかも、翼を広げた『鳥』のような輪郭を形成したのだった。
自らは何も望まぬまま、羽ばたきと共に猛毒を撒き散らし、然れど己の所業に何を感じ入る事も無く、ただ来たり去るを繰り返す『伝説の毒鳥』。
『それ』の生み出す『毒』を求め欲し、己が妄執に駆られるまま用いて来たのは、常に『人間』の側であった。
『それ』自身は何も求めず、何も欲さず、ただ浮世に『毒』だけを振り撒いて飛び去る孤高の『鳥』。
その名を即ち『鴆』と呼ぶ。
そして、その『鳥』の名を持つ一人の男は、西日を浴びる中で更に一層強く輝く黄金色の双眸を、居合わせた二人へと向け直したのであった。
「……ああ、だから、やはり捕まるのは面白くはない。どうせこの『世界』の行き着く先を見届けるのなら、狭い籠の中からではなく、もっと見晴らしの良い場所から眺めたい。それもまた俺の『望み』だ」
言葉の奥底に、昏い悦楽が蟠っていた。
俄かに緊張を漲らせた薬師寺と鬼塚の前で、『鴆』は三度その姿を変貌させる。
西日によって刻まれた影が、急速かつ急激に変化して行く。
鈍色の爬虫人の背部から巨大な蠍の尾が新たに突き出し、両の肩口からは蓑笠子の胸鰭のような器官が現れる。全身を覆う鱗の表面には毒々しい斑紋が浮かび上がり、その口元からは、百足のものと同じ一対の鋭い牙が生えたのであった。
そして、身構えた白銀の人狼へ向け、あらゆる有毒生物の特性を併せ持つ『異形』の人影が襲い掛かった。
五指を広げ、『鴆』は薬師寺に爪を振り下ろす。薬師寺の、白銀の人狼の物より大きく鋭い爪が、『異形』の人影の指先からは伸びていた。
否。それは最早『爪』ではなかった。
短刀さながらに湾曲し、先端から点々と毒液を滴り落とす、毒蛇の牙そのものであった。
五指の『毒牙』による一撃を紙一重で避けた薬師寺の横合いから、蠍の尾が唸りを上げて襲い来る。弧を描いて先端の毒針を突き立てようとする尾の一撃を、白銀の人狼は、咄嗟に尾の根本近くを蹴り付けて凌いだのだった。
息吐く間も無く繰り出される『毒』の連撃。
どれか一つでもその身に浴びれば、決して死は免れぬであろう怒涛の攻撃を矢継ぎ早に繰り出されては、白銀の人狼も回避に徹するより打つ手が無い有様であった。
離れて立つ鬼塚にとっても、それは同様であった。
人外の姿を取る敵の動きを捉えるのは容易ではなく、縦しんば動きを見切れた所で、有効な攻撃手段が現状無い。より大口径の大型火器でも急ぎ持って来ない限りは、夥しい数の生物を取り込んだこの敵に対して有効打を与える事は不可能であろう。
せめて、せめて何処かに隙を見付けられれば。
たとえ一瞬の空白であろうとも。
鬼塚が懸命に寸毫の間隙を覗う間にも、戦局は白銀の人狼に対して刻々と不利へと傾いて行った。
そして、遂にその時が訪れた。
コモドオオトカゲの尾が鞭のように撓り、それをどうにか捌いた薬師寺の頭上に、もう一振りの、蠍の尾が襲い来る。
その場を大きく飛び退いて二本の尾の時間差攻撃を凌いだ薬師寺であったが、代償として、着地した先で姿勢を崩してしまったのだった。
そこに生じた極微の空白を、敵が見逃す道理も存在しなかった。
自身の横手へと逃れた白銀の人狼へと向け、『鴆』はそのまま突進する。余計な動作を前後に一切挟まず、肩口から体当たりを繰り出す形で、『異形』の人影は白銀の人狼に激突したのであった。
『異形』の人影の双肩には、巨大化した蓑笠子の胸鰭が備わっていた。そして、その鰭の根元からは、太く鋭い針が突き出ていたのである。
その毒針が、薬師寺の左胸に深々と突き立てられた。
驚愕によってか、それとも毒の齎す激痛によってか、白銀の人狼が顔を大きく歪めた。
対する『鴆』は、殊更に会心の雄叫びを上げるような真似は見せなかった。
或いは、彼も察していたのやも知れぬ。
直後、毒針に胸を刺された白銀の人狼の身体が、出し抜けに縮んで行く。
体積を急激に減らしたそれは、間も無く一枚の紙片と化し、人型の形代となって『異形』の人影の目の前を舞ったのであった。
次いで、更にその形代の上下左右から、無数の同じ白い紙片が分裂するかのように溢れ出し、一陣の紙吹雪となって『鴆』へと吹き付けたのだった。
突然の事に動きを止めた『異形』の人影の頭部を目掛け、夥しい数の形代が密着して行く。両の瞼を貼り付け、鼻腔を塞いで耳孔に被さり、大きく裂けた口さえも封じて、白い紙片が『異形』の人影の顔を忽ち覆い尽くした。
「今だ!!」
鬼塚が叫んだ斜交いで、それまで距離を置いていた白銀の人狼が標的へと飛び掛かった。
全ての感覚器を封じられた『鴆』の背後から、完全な死角から薬師寺は急襲を仕掛けた。壁の穴から差し込む西日に体毛を煌めかせ、宙を舞った白銀の人狼は落下の勢いそのままに、鋭い爪を『異形』の人影の首筋を目掛けて打ち下ろした。
その刹那の事であった。
頭部を紙片に覆われたまま、その場から僅かたりとも動きもせずに、『鴆』は出し抜けに片腕を振るったのだった。後方を顧みもせず、まるで無造作に腕だけを旋回させて、『異形』の人影は背後から迫り来る敵を迎撃した。
空を裂いて翻った爪が、今正に致命の一撃を加えようとした白銀の人狼の脇腹に突き立てられた。
日差しに輝く剛毛を貫き、五本の『毒牙』が深々と肉の内にまで食い込む。死角を突いて襲い掛かった筈の白銀の人狼の死角を逆に突いて、『異形』の『毒牙』が遂に標的を捉えたのであった。
薬師寺と鬼塚が、同時に目を見張った。
その最中、『異形』の人影は猛然と体を反転させると、空中で体勢を崩した白銀の人狼へと瞬時にして鼻先を近付ける。依然として顔中を紙に覆われ、眼差しを遣す事も出来ぬまま、それでも『鴆』は薬師寺へと向き直ったのだった。
僅かに開いた口の端から、二つに分かれた長い舌を覗かせて。
「……臭うんだよ」
低く呟いた直後、『鴆』は貼り付いた形代ごと口を大きく押し開くや、白銀の人狼の喉元に一息に噛み付いた。
「がはっ……!!」
空中で仰け反った薬師寺の口元から、大量の鮮血が溢れ出る。
飛び散った血の雫が、宝石のように西日に輝いた。
そのまま上体を振り回した『異形』の人影は、食らい付いた白銀の人狼を壁際まで放り投げたのであった。
軌道上の床に、少し遅れて血が点々と滴り落ちる。
そして、無様に床に落下し、俯せに倒れた薬師寺を、形代を剥ぎ取った『鴆』は冷ややかに見下ろしたのだった。
「……完了」(※「……終わりだな」)
口元から溢れ出た血が、その足元にぼたぼたと滴り落ちる。
黄金色の双眸に、侮蔑とも嘲弄とも異なる、冷厳たる意志の光だけを乗せて、死を運ぶ『凶鳥』は蹲る獲物を見下ろした。
「お前は死ぬ。最早『相』を確かめるまでもない」
厳かですらある宣告が、赤味を増す西日の中に下された。
立ち尽くす鬼塚の前で、薬師寺は今や弱々しく全身を震わせるばかりである。
斜陽に照らされる街並みは、何の表情も覗かせなかった。
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