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第一譚 

三話 神秘の領域!

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 あれから随分と時間が経った。

 僕は廊下で人とは思えない二人の女から逃げ出し、一目散に自分の病室へ、とんぼ返りした。廊下から逃げ出した際に、僕の悲鳴と倒してそのまま放置していた点滴スタンドに気づいた医師や看護師達が、目覚めた僕を確認しにくるのに然して時間はかからなかった。

 僕は必死にさっき起きた出来事を説明したけど、医師然とした男は、脳に強い衝撃を受けた一時的な意識の混濁からくる幻覚だと言うばかりで、取り合ってはくれなかった。そして病室の出入り口が開く度に、奈落の底のような二つの穴を持つ女が、僕をにたにたと笑い佇んでいるのだ。

 それを医師達につげても「あははは、私達には見えないよ。安心して、きっと明日には良くなっているから」それが三時間前。

 「ふっざけんなよぉ、ちくしょお……」あれが幻覚なものか、あのどろりと僕に入り込もうとしてきた感覚……あれが幻? 逆にありえねーよ。身の毛もよだつ感覚、忘れたくても忘れられない。全身の血が一気に氷点下になったかのような寒気を思い出すと、白い息が出そうだ。しかし今日は妙に冷える気がするな、手が悴んでいる。もう六月に入ったと言うのに……耳を澄ませると、窓や地面を弱々しく叩く音が聞こえ、どうやら外は雨のようだ。それにしても、寒い。

 一体、あの二人は何だったんだ……医師達には見えず、僕にはみえている。幻覚と言えばそれでおしまいだけど、僕にはリアリティがありすぎた。考えたくも無いけど、まさか——幽霊? 僕にはそっちの方が合点がいく。あの眼にあの様相、この世の人間じゃ無い。でも何故? 僕は今まで霊感なんてなかったはず、幼少の頃だって……あれ、でも僕の幼少期や小学生の頃ってどんな子供だった?

 コンッ

 「?」

 コンコンッ

 「ひっ」

 情けない声なんて気にしない。人が訪れるには遅い時間、そんな時に突然ノック音が鳴れば驚かないわけがない。そのまま無視しようと布団に潜る。

 コンコンッコンコンッコンコンッコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン

 「しつけーーよっ!! ノイローゼになるって!! ……あ」あまりのしつこさに怒鳴ってしまった。

 だけどノック音はおさまったみたいだな。

 「……みこと……命」

 閉ざされたドアから声がする? 気のせいじゃなければ僕の名前を呼んでいるような。

 「命、大丈夫?」聞き覚えのある声、透き通った心地よい落ち着いた女性の声、それは僕が一番知っている人の声。

 「……姉さん?」

 目覚めた時に目に入った花瓶を見やる。あの黄色い花……見たことあると思ったんだ。あれは姉さんの好きなガーベラ、僕が眠っている間に来てくれていたんだ。きっと僕が目覚めたと聞いて来てくれたにちがいない。

 「命、独りで大丈夫?」

 「ああごめんよ姉さん今開けるよ」僕はドアを開けようと近づく。

 「全く姉さんもブラコンだなぁ。大した怪我じゃないんだ、電話で済ませれば良かったのに」

 「ごめんね」

 「謝らないでよ姉さん。僕は独りでも大丈夫だったんだ」僕はドアの前に立ちそのまま喋る。

 「でも来てくれて正直嬉しいよ。あの時、僕を送り出してくれた日も、今みたいに謝ってたよね。あの時はちゃんと言えなかったけど、父さんとは昔から険悪だったんだ、遅かれ早かれあの家を出ていくことになっていたよ。だから謝らないでよ姉さん」

 「ごめんね」

 「はは、姉さんも強情だなぁ」横開きのドアを開け放った。今思えば、見知った仲なんだ断りなど入れずに入れば良かったんだ。しかも、ドアの向こうの姉さんは夢の中で交わした言葉しか使っていなかった。

 奈落の眼がそこにあった。どこまでも僕を深みへと陥れようとする者がまた眼前でほくそ笑み佇んでいる。こいつは一番最初に見た幽霊女。

 「え? 姉さん? あえ、違ぅ……」次第に声が出なくなる、あの時と一緒だ。喉仏をさすってみるが、変化はない。足がすくみ体に力が入らず徐々に地面に崩れていく。

 奈落の眼を持つ女が病室に入ってきた。素足をヒタヒタと鳴らし僕に近づいてくる。寒い、まるで真冬の氷の上にいるみたいに足下から冷気を感じる。金縛りで動かないのか凍死寸前で体が動かないのかわからない、既に体の自由は失っている。

 奈落の眼を持つ女は立膝をついた僕を突き飛ばし、仰向けになった僕の上に馬乗りになる。両手で僕の頬を掴み撫で回し、闇を詰め込んだような眼で僕を見る。眼は無いのに心の奥深くまで見透かされているような気分になる。
 
 女は頬が裂けんばかりに笑い。爬虫類を思わす長い舌を艶めかさせ、僕の顔面を舐め回す。女は患者衣を、淫らに裸させ、まるで痴女そのもの。正常な人間がこんな馬鹿げた事するはずがない、こいつは人間じゃ無い。人間に似た化け物だ。

 「ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね」壊れたように姉さんの声で謝る。化け物の顔は不敵に笑っていると言うのに。そしてまたしても自分の体が底なし沼になったかのように化け物が溶け込んでいく。

 多分全て飲み込まれたとき僕は僕じゃなくなるのだとわかった。

 『ああもう、せっかく生きてたのに、二度目の生前葬かよおぉ。碌でもない人生で短い人生だったなぁ。ああくそ考えないようにしてたのに、自分が童貞だったの思い出しちゃったじゃん……まあでも昨今の日本は未婚率も多いから僕みたいなやつも腐るほどいるのかなぁ。でもさぁ! こんな化け物の肢体みたって何にも嬉しくないよ!! 最後に死ぬんだったら生娘のパンツでも拝みたかったよ————!!!!』
 
 光明が差す、とはよく言ったもので、その時、窓の外に、綺麗な月が出てたんだ。雨雲を避け月光がこの部屋にさしこんでいる——次の瞬間、窓ガラスが木端となり飛散した。

 飛び散る窓ガラスに一度、眼を瞑ってしまったが、次に眼を開けた時には衝撃が走る。

 タキサイキア現象。それは危機的状況、極限状態に陥った時の人体の不思議。脳の画像処理が遅延し周りがスローモションのように見える脳のバグ、実際には視覚に既に入っている情報がゆっくりと再生されているだけの事。

 これは油女ころもを助けた時にも起こった現象だ、そしてまさに今もそれが起こっている。

 コマ送りのような視界で、僕の目にはハッキリくっきりと見えた。見紛うことなどあろうか、飛び散るガラス片なんて今の情景を彩る煌びやかな星々でしかなく、生への渇望が見せた幻想かと思うほどの美しい銀白色の……

 「パンツだぁ!!!!!!」精魂尽きるほどの咆哮。

 死の淵で望んだ生娘のパンツが、仰向けになった僕の眼前を飛んでいる。いや表現は間違っていない。

 だが明確に言うならば窓ガラスを銀白色の美しいパンツを履いた何者かが蹴り破ったのだ、それはまさにライダーキックと言って相違ない蹴りを、僕に馬乗りなっていた奈落の眼を持つ化け物ビッチの顔面を蹴り抜いたのだ。

 その際に馬乗りにされていた僕は特等席……役得席……とりあえず下にいた僕は、不可抗力でスカートの中身をじっくりと観察することができたのだ。まさか僕の人生でプリーツスカートを履いた女の子がライダーキックしているところを真下から拝める日が来るとは、感無量すぎて涙が出る。

 ああ、月明かりに照らされたプリーツスカートの中身があんなにも神秘的だなんて、銀白色に足ぐりのお尻部分には可愛らしく小さなレースがあしらわれ、サイドはレース生地の紐で蝶々結びに止められた所謂、紐パン……感涙。

 「えーとっ、大丈夫ですか?」まだあどけなさが残るが、はっきりと自信に満ちた少女の声。

 遺憾だが夢想の時間は終わったようだ。目を閉じて瞼の裏にパンツをアップロードして忘れないようにしていたのだが、致し方ない。パンツの持ち主の、ご尊顔でも拝むとしよう。

 上体を起こすと…………天使と見紛う少女が佇んでいた。割れた窓から風が吹き込み少女の長い髪をふわりと持ち上げる。銀白色の下着に負けない程の白い髪、少し黄色が混じった練り色だろうか、絹糸のように繊細で艶めき、輝く髪の間から覗かせる瞳は真紅の輝きを放ち、まるでストロベリームーンのように眼下の人間を見下ろしている。

 そして人成らざる化け物がいるのなら、この少女は人成らざる美しさを彷彿とさせ、近づく者はその美しさに平伏すだろうと予感させる。それ程までに少女の顔のパーツは数学的に
配置され精巧に作られた麗しい人形のように見える。そんな顔にやや見劣りする可愛いらしいチェックのプリーツスカート、白い長袖のブラウスにクリーム色のスクールベスト、それに大きな赤いリボンをあしらい、それはどこからどう見ても制服だった。

 僕は少女の美しさと感謝で涙が溢れた。こんな美しい少女のパンツを拝ませてもらえるなんて、後世まで語り継ごう、いやこの世の終わりまで語り継ぐんだ。そして感謝を伝えなくては。

 「(パンツを見せてくれて)ありがとう」

 「あはは、泣く程怖かったんですね。どういたしまして」少女は屈託も衒いてらいもなく微笑む、だが。

 少女は盛大に勘違いしている。
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