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本編

No,69 【蕎麦と酒処 田宮】にて

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「ちょっと、拓也君! この人はね…!」
降谷ふるたに酒造の若社長・拓也とやらのあまりの無愛想さに、見かねたマッツンが注意しようとするが、真唯はそれを眼で制した。店や商品の売り上げに直結するパワーブロガーである事を暴露されれば、態度は変わるかも知れないが、阿諛追従を言われたい訳ではない。ただ、年上の女として多少、上から目線になってしまう事は勘弁して欲しい。



※ ※ ※



「坊や。人と話しをする時は、その人の眼を見ましょうって教わらなかった?
 お客に媚び諂えなんて言わないから、せめて『ありがとうございます。』ぐらい、まともに言えないの?」

「な…っ、なんだと…っ!?」
さすがにバカにされた事が理解ったのか、怒気に彼の顔が赤くなる。 ……でも、残念ながら【上井 真唯】は、こんな坊やの怒りを気にする可愛い神経は持ち合わせていない。



「真唯、ごめんね。この子、江戸時代から続く老舗酒造メーカーのボンボンで、財産目当ての女たちに付き纏われているうちに、女嫌いになっちゃったのよ。」

……ふむ……そんな事情なら、情状酌量の余地はあるか。


ふと気付くと、そのボンボンが、ジッと真唯の顔を見つめていた。
な、何事!? と思ったら、次の台詞に疑問は氷解した。


「……あんた…スッピンなんだな」


……なるほど。メイクばっちりの女子力満点のたちに追い回されていたら、スッピンの女は珍しかろう。


「私、午後は善光寺に参拝して来たんです。」
「…?」
「お手水舎で、ルージュなんか邪魔でしょ。」
「…!」
「それに、これからマッツンの…美穂さんの美味しいお料理を頂くのに、ルージュの味なんか混ざったら最低でしょ?」
「……あんた……」
アタシとしては、当たり前の事を言った心算なのに、何か呆然としてるし……ま、いっか。

真唯は不毛な会話を終わらせるべく、メニューを真剣に吟味し出した。
やはりと云うべきか、山葵を使った物が多い。
お酒のお摘みは、どれも美味しそうで……日本酒も一応の説明は書いてあるが、どれにどれが合うかは全く理解らない。で、結局、マッツンの“おまかせ”にする事にした。これが一番、確実だろう。

出来上がりを待つ間、店の外観から内装まで、気に入るまで様々なアングルで撮りまくる。



先ず、お通し代わりに出て来たのは、ササミのごま風味サラダだった。
これにもちょっと山葵がきいている。
ゴマは大好物だし、健康食品だ。
デジカメに収めてから、美味しく頂く。
すると、横から声が聞こえて来た。

「…あんた…酒は頼まないのか?」

……まだ、いたのか……と思うが、口には出さない。

「……実は、日本酒が苦手なんです…どれも強そうで…味の違いも理解らないし……」
多少、気まずい思いで口にだしたら、厨房に引込んでから一升瓶を抱えて出て来た。

「…これを飲んでみてくれ…慎太郎さんと美穂さんの了解はとって来た。」
そう言って向かいの席に座ると、お猪口に1杯注いでくれた。
そのお酒をジッと見る。ラベルを見ると【飛露喜】と云う名前で……降谷酒造のお酒じゃない事が気に入った。仮にもお酒のプロが薦めるお酒なのだ……騙されたと思って一口飲んでみて……驚いた。


「旨いだろ…?」
「……美味しいです。」
「所謂、旨口と云う奴で、滅多に手に入らない。」
……旨口・・が何の事か理解らなかったけど、美味しいのでクイクイいけてしまう。コップで飲みたいところだが、それはやめておいた。
……それにしても意外だ。
こんなに美味しい日本酒があったなんて。
……この子……初対面は最悪だったけど、悪い子じゃなさそうだ。

アボガドとしめ鯖の山葵和え、ポークソテーの山葵ソースがけ、ししとうとベーコンの山葵浸し……次々と出されるお料理に思わず顔が綻ぶ。先ずはデジカメで撮影し、メモを取りながら味わう。 ……うん、どれも天然山葵の甘みがして、とても美味しい。
ただ、鰆の味噌漬け焼きは、アタシが作った物とはお味噌の加減が全然違ってて……素人とプロの違いを思い知らされた心地がした。

そして遂に真打の登場だ。

名前はズバリ『山葵蕎麦』。
ざる蕎麦に、山葵の茎漬けが乗っている。
小さなとろろ山葵蕎麦もついている。
……うん。蕎麦の実の味がしっかりする。
腰もあるし、喉越しも爽やか。
山葵の辛みと甘みが絶妙なバランスを保っている。

そのままをマッツンに伝えると、
「慎太郎君が、石臼挽きと手打ちにこだわってるの。」
と嬉しそうに微笑んでくれた。


そうだ、もう1人のプロに聞いてみようと思って、声をかけた。
「あの…お蕎麦にあうお酒を教えてもらえませんか?」


すると彼は、ジッとアタシを見て言った。
「そんな物はない。 ……蕎麦に日本酒はあわない。」

「嘘!!」
思わず叫んでしまった。
だって、池波先生は…!



「……【そば前】と云う言葉があるのを知っているか?
 あれは、蕎麦を食う前に呑む酒の事だ。
 ……酒をちょっとした肴で楽しんで、〆に蕎麦を食べて帰るんだ。
 蕎麦を食いながら酒を呑む訳じゃない。」

しっかりとアタシのを見ながらの言葉は真摯で、真剣で。
それは、職人の表情と眼差しだった。

そんな彼の一面を見て、どこか嬉しく感じると同時に。
既に真唯のバイブルとなっている、池波正太郎の食に関するエッセイの内容を頭の中で素早く検索していた。池波先生が、お蕎麦を食べている場面を思い出して……確かに先生は、お蕎麦を待っている間に摘みを肴にお酒を呑んでいる。 ……お蕎麦だけを食べながら、お酒を呑んでいた訳じゃないんだ……すっかり誤解してしまっていた。

「……ありがとうございます。大事な事を教えて頂いて。」
真唯は頭を下げて、にっこりと笑った。


すると彼は……拓也君は、
「べ、別に、頭下げてもらうほどの事じゃねーよ!」
真っ赤な表情かおで、プイと横を向いた。……無愛想って云うより…照れ屋さんなんだ……。そうと理解ると、ますます微笑ましい気分になる。ニコニコしながら食べていると、「ちょっと待ってな。」と言って、彼は再び厨房に入って、もう一本のお酒を持って来た。そして「これもイケルぜ。」と言って、新しいお猪口に注いでくれた。

すっかり拓也君を信用してしまった真唯は、薦められるままに呑んで、その味にまたまたびっくりする。


「これは、【十四代】。これもなかなか手に入りにくい旨い酒だ。」
にやりと笑う彼は、悪戯が成功した餓鬼大将のような自慢気な顔だった。

「……美味しいです~~。日本酒に開眼しちゃったかも~~」
「…嬉しい事言ってくれるな。」
「嬉しいんですか?」
「そりゃあ、嬉しいさ。俺の薦めた酒を楽しんでもらえれば。」
……そして彼が浮かべた笑みは、今日初めて見る彼の心からの微笑みだった。

すっかり嬉しくなってしまった真唯は、
「よ~し、拓也君、今夜は呑も~~!!」
と宣言すると、
「…ほどほどにしとけよ、酔っ払い。」
などと可愛くない事を言う。

「なにをー! 年上は敬いなさい!!」
「…あんた、いくつなんだよ…」
「へへ~、去年で三十路に突入しました~♪」
「嘘だろ!? …タメ年ぐらいだと思ってた…」
「そーゆー拓也君は、いくつなの?」
「……27……」
「よーし、呑め! 今夜はオネーサンの奢りだ!!」
「……いや……やめとく……」
「なにをー! アタシの酒が呑めないっつーのか!?」

蕎麦湯を持って来てくれたマッツンが、助け舟を出してくれた。


真唯には、「真唯、拓也君は運転があるのよ。」と口添えし。
拓也君には、「拓也君。良かったら、泊まってく?」と言ってくれた。



「…良いんですか?」拓也君が問えば、
「なにを今更。遠慮しないで。」マッツンが鷹揚に微笑む。
「…それじゃあ、お言葉に甘えます。」神妙に答える拓也君に、
「よーし、呑めーっ! マッツン、グラス持って来て~!!」
すっかり臨戦態勢の真唯。

言われるままに持って来てくれたグラスは3つだった。
「あたしにも頂戴。」

「……マッツン、お店、良いの?」
「まだ少しあるけど…1杯くらいなら平気よ」
「よーし、呑もーー! …どっちにする?」
「十四代、頂戴。」
「は~い、了解!」
そして、もう2つのグラスにも【十四代】を注いで、

「「かんぱ~~い!!」」 「…乾杯…」
3つの声が重なった。

……ビールのように、ゴクゴクとは呑めない。
ちびりちびりとりながら、同時に蕎麦湯も楽しむ。
……マッツンと拓也君は最初の一口で、半分以上呑んでしまっている。マッツンがノンベエなのは知ってたけど、拓也君もそーなのかナ。ま、酒造りの社長が酒豪でも不思議でもなんでもないか。

「善光寺はどうだった?」聞いて来るマッツンに、
「うん! とっても良かったよ!」ご機嫌なアタシ。
「錠前…触れた?」
「モチ! これで来世は極楽浄土~♪」
「あたしも触ったもんね!」
「じゃあ、同じ蓮のうてなに……」
「やめてよ! あたしは慎太郎君と半座を分かつの!」
「アハハ~、振られちった~~!!」
「あんたには、一条さんがいるでしょ!」
「……一条さんか~、一条さんね~……」
「な、何よ? 早速、離婚の危機なの!?」
「ま、まだ結婚してないもん!!」

アタシとマッツンの漫才に参加して来たのは、勿論、拓也君。


「……一条さんって…誰…?」


「超絶イケメンの、真唯の彼氏で~す♡」
打てば響くように答えたのは、何故かマッツンだった。


「……ホント…?」聞いて来る拓也君に、
「……うん…まあ、一応……」思わずしどろもどろになっちゃうアタシ。

「ダメダメ、そんな言い方じゃ!
 アタシと一条さんは超ラブラブなんで~す。はーと!
 ……このぐらい言わないと、諦められないでしょ。」

うう……駄目だしされてしまった。 ……ん? ……何を諦めんの…?
……って、アタシが一条さんを、に決まってるか。

……諦める…?
……諦められるの…?



「ほらほら! お通夜じゃないんだから!!」
何だか湿っぽい雰囲気を払拭してくれたのはマッツンだった。
……そうよね。こんな雰囲気、女将さんとしては困るわよね。


「真唯さ、明日の予定は決まったの?」
「ああ、あのね、【安曇野アートヒルズミュージアム】って知ってる?」
「うん。有名だから、名前だけはね。何? そこに行きたいの?」
「うん、ガレ、見てみたくって。」
「ああ。あんた、あの手のアンティーク、好きだもんね。後は?」
「とりあえずは、そこだけ。」
「じゃあさ、その後で付き合って欲しい処があるんだけど。」
「なに。どこ、どこ?」
「ふふ~ん、明日になってからのお楽しみ♪」
「分かった! 楽しみにしてるね!! …でも、お店は良いの?」
「大丈夫。ちょこっと出るだけだから。
 いざとなれば、頼もしいパートさんがいてくれるから。」
「…前もそんな事、言ってたけど…パートさんなんていないじゃない。
 今日だって、マッツンが1人でなにもかもやってて。」
「義妹がいるのよ。忙しい時は手伝ってくれるの。」
「え~、悪いな~~」
「なに言ってんのよ。わざわざ来てもらっちゃったんだし、こんな時くらい手伝わせたって、罰は当たらないって。」

美味しいお料理と旨いお酒を呑みながらの会話は、とっても楽しくて。
ついつい長居をしてしまったけれど。


「女将さ~ん、おあいそして~~」
「まあまあ、いつもありがとうございます。」
閉店間際の常連さんらしき最後のお客さんの声を聞きながら、真唯も潮時を感じていた。

レジから戻って来たマッツンに「アタシも、そろそろ失礼するね~~」と言うと、「ええ~~、まだ良いじゃな~~い。今夜はとことん呑もうよ~~」と言われてしまった。

……いえいえ、もう充分に頂きましたから……
……慣れない日本酒を呑み過ぎての二日酔いは勘弁して欲しい。


残念そうに言ってくれるマッツンの気持ちは嬉しいけど、あくまで辞去の気持ちを伝えると。
「…そう…お名残り惜しいけど…また、明日ね。」
「うん。午前中は美術館に行くから、ここに来るのは午後になると思う。」
「分かった。待ってる。 ……今日は本当にありがとうね」
「なんの、なんの。お礼を言うのはこっちの方。
 美味しいお料理とお酒をありがとうございました。
 それじゃあね、お休みなさい。」
「…お休みなさい。」


それからこっちをジッと見つめている、もう1人の恩人にお別れの挨拶をする事にした。

「美味しいお酒を紹介して下さって…それに、大事な事を教えて頂けて感謝しています。ありがとうございました。お休みなさい。」


「……本当に、貴女は礼儀正しいんですね。こちらこそ、【コノハナサクヤヒメ】のご購入、ありがとうございました。お休みなさい。」
微笑んだ声で言われて驚いた。

「…なんで敬語!?」
「…すみません。ずっと同い年か、年下だと思っていたもんで…失礼を申し上げた事、ご容赦下さい。」

……なるほど、それであの態度……そう云えば、この子も若いとは云え、一国一城の主なんだと見直したが。
「……そんなに煽てて頂いても、何にも出ませんよ?」

「いえ。これからも、降谷酒造を御贔屓にして頂ければ、それで充分です。」
「……なるほど……ちゃっかりしていらっしゃる。」
「お誉めに預かりまして、ありがとうございます。」

初対面には何て無礼な若造だと思ったけれど、新たな出会いに嬉しくなり。
気持ち良く別れる事が出来そうな事に自然に笑みが浮かぶ。

さて……小西さんに連絡するか。
この近所で待機してくれているはずだ。
と。
外に出ようとするのをマッツンに止められた。
「待ちなさいよ。この近所に電話ボックスなんかないわよ。
 東京と違うんだから。連絡するなら、ウチの電話を使いなさいよ。」

……アタシがスマホを持ってる事を知らないマッツンが、有り難くも提案してくれる。
……仕方なしに、アタシのスマホ事情を話したら、「…呆れた。 …はいはい、ご馳走様でした。」などと言われてしまった。 ……うう~~、最後の最後で恥かいた。

もう隠す必要もないんで店内で連絡させてもらったら、10分もしないうちに小西さんが迎えに来てくれて。マッツンと拓也君、それから御主人の慎太郎さんがわざわざ外に出て見送ってくれた。姿が見えなくなるまで手を振って。
上井真唯の【蕎麦と酒処 田宮】の取材は終わりを告げたのだった。



※ ※ ※



小西さんの言葉を疑う訳じゃないけれど。
松田さんと旧交を温めて。
燕尾服で見慣れてしまっていたから普通のスーツ姿の松田さんが珍しくて、マジマジ見つめていたら笑われてしまった。直ぐにお風呂に入らせてもらって、お飲み物はと聞かれたのでお水と共に珈琲を頼んだ。就寝間際で心配されたけど、アタシの身体は珈琲に耐性が出来ている。

……気持ちの良い、酔い醒ましに飲みたい気分だったのだ。


でも。松田さんの淹れてくれた美味しい珈琲を飲みながら、
「……事情は小西さんから伺いました。……なんで、そんなに私の事を気に入って下さっているんですか……?
……【御方おんかたさま】と云う方は、何でこんなに親切にして下さるんですか……?」
そんな質問をして。



「……それは上井様が、常識を弁えた礼儀正しい方だからですよ……
 ……御方さまが貴女にお優しいのは、あのお方が…様だからでございますよ……」





―――結局、【御方さま】の正体についての答えがどうしても思い出せないのは、美味しい日本酒に心地好い酔いが思いの他まわってしまっていたんだと、翌朝起きて感じた真唯だった―――








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