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本編

No,84 北原さん事件、その後

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……アタシはかつてこれ以上、下品に一条さんの前ではがっついて食事をした事はないと断言出来るほど、ガツガツと食事を……ブランチをとっていた。

……ブランチよ、ブランチ!
……しかも、今日は平日なのよ……!!

ジロリと八当たり気味に一条さんを睨み上げれば、真唯の食事の仕方に眉を顰めるでもなく、それどころかニコニコと見守っているのだから始末に悪い。
それに、この食事が美味し過ぎるのが、また腹が立つ。

……それもそのはず、一条さんが作ってくれた鮪茶づけは、今朝、秘書の山中さんを築地にやって仕入れて来させたと云う、とびきり新鮮なネタを使用しており、注がれているのはお茶ではなくどこぞの料亭の秘伝と言われるレシピによるお出汁だと言うのだから、これで美味しくない筈がない。


「……どうかされましたか、真唯さん。そんなに私を見つめて…もしかしてお代りですか? だったら、遠慮なんかなさらないで下さい。」
……遠慮なんか、しとらんわい。
「……お代り…下さい。」
「はいはい。少々、お待ち下さいね。」
一条さんを待つ間に、お漬物に手を伸ばす。これも一条さん独自のルートで仕入れたと云う老舗の京漬物だ。(…どこまでブルなんだ…この食道楽め…!)ぶっ差すように漬物に箸を突き立てパリポリと噛み砕く。
(くっ…悔しいけど…美味しい!!)


……思えば、食べモノに罪はない。
……悪いのは、平日だから勘弁して欲しいと泣いて頼む真唯を無視して、今朝まで苛んだ一条さんだっ!!

少しだけ落ち着いた気分になった真唯は、一条さんが持って来たお代りを、今度はゆっくり味わって食べたのだった。




※ ※ ※




一条さんがミルで挽いてくれたハワイ・コナを供されるカップは、真唯が自身で購入して一条さんにプレゼントしたペアのマグカップだ。後片付けを簡単に終わらせた一条さんは、真唯のためにこの珈琲を淹れてくれてリビングに移動した。一条さんは、何も言わずに静かに真唯の肩を抱き……ときたま、髪を優しく撫でてくれる。
リビングから見渡せる都会の空は、見事なまでの曇天だ。
いつもはうっすら陰くらいは見える富士山も、厚い雲にその姿を覆われてしまっている。



……テシュプのイジワル…まるで、アタシの気持ちを読んだように、こんな天気にしなくても良かったのに……



まるで、イルルヤンカシュのように荒れ狂っていた真唯の気持ちは、すっかり落ち着いていた。いや。今度は……落ち込んでいた。
……ホントは、理解っていたのだ。誰のせいでもない。 ……みんな、みんな、真唯のせいなのだ……

……北原さんを、あんなに追い詰めたのも……一条さんが見境なくアタシを確かめるように激しく抱いたのも……みんな、みんな、このバカなアタシのせい……



ひたすら自己嫌悪に陥っていると、真唯のネガティブ思考に敏感な敏い男が気付いた。「…真唯さん…その表情かおは…また、良からぬ事を考えてますね。」

真唯は思わず叫んだ。
「……だって…だって、一条さん! ……昨日の事は全部アタシが悪いんです! ……北原さんをあそこまで追い詰めてしまったのも、一条さんや室井さんに迷惑を掛けてしまったのも、全部、アタシの…っ!!」
だが、カップを取り上げられ、抱き締められる事によってその叫びは遮られてしまった。
「……そんな風に考えていたんですか……貴女らしいと云えば、らしいですが…。昨日の事は…一番悪いのは、あんな暴挙に及んだ、アノ男ですし…あそこまでアイツを追い詰めてしまったのは、私と室井女史の判断ミスです。 …ですから、一番責められるべきは私なんですよ…真唯さんに怖い思いをさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした…」
突然一条さんに謝られて焦ってしまった真唯だったが、昨日ぼんやりと疑問に思った事が再浮上してくるのを感じる。
「……いえ、一条さんが悪いわけじゃありません…それより、どうして私が北原さんとあそこで会っていた事をご存じだったんですか…? ……室井さんとはいつからお知り合いになられたんですか…?」
その問いを聞いた途端、真唯を抱き締めていた一条さんの身体が、一瞬、強張る。不審に思った真唯が見上げてみれば、彼の表情かおが、何とも云えずに複雑なものとなってしまっている。

……?
……そんなに答え難い事を聞いてしまったのだろうか…?

「…一条さん…悪いのは、やっぱり私なんですから、言い難い事でしたら無理には…」
「…貴女にその考えを捨てて頂くには…やっぱり白状するしかないんでしょうねぇ…」
大きなため息を1つ吐いた一条さんは、語り出した。

GWの直後、焦って行動を起こすだろう北原さんを危惧して、彼の動きを阻止するべく、室井さんに応援を頼もうと考えた事。室井さんの連絡先は、真唯が大善寺でお土産の宅配を頼んでいた時に記憶し、真唯には内緒で『牧野さんを、北原からそれとなく遠ざけるようにして頂きたい。』と頼んだ事。昨日の事は、北原のあまりに早い帰宅をいぶかしんだ室井さんのお手柄である事(なんでも、探偵まがいの事をしてアタシの行方を捜し当ててくれたそうだ。そして幸運にも、アタシと北原さんが【インスマウス人の館】へ入って行くのを見掛けた会社の人がいたそうだ)。そして室井さんは居酒屋げんばに走りながら一条さんに連絡してくれて、連絡を受けた一条さんは慌てて車を走らせて……後は、アタシも知る通りだと。
アタシはただただ、ポカ~ンと無言になってしまうばかりだった。

「……やっぱり、お怒りになられましたか…?」
一条さんから顔色を伺うように聞かれても……もはや、何から突っ込んで良いのか分からない。

一条さんが真唯には内緒で室井さんに連絡を取っていた事にも驚いたが、その方法もスゴイ。あんな短い時間で、室井さんの電話番号を覚えてしまうなんて。真唯はあの時は、ただただ楽しく(このワイン、喜んでもらえると良いな~♪)なんて、呑気に記入していただけだったのに、まさか一条さんがそんな目的で見ていたなんて少しも気付かなかった。
室井さんもスゴイ。真唯を秘かに守ってくれていたなんて。昨日の北原さんの早い帰宅を室井さんが少しでも不審に思ってくれていなかったら、真唯は確実に唇を奪われていただろう(そんな事と言うなかれ。真唯にとっては“花の操”の大事な一部なのだ)。しかも、大変な思いまでして真唯を探し当ててくれて……やっぱり、室井さん、グレートGJ!!

そもそも真唯には、GWの後、北原さんが焦っていた事などちっとも気付かなかったのに……あのストーカー一歩手前の告白を聞けば嫌でも理解るが、それを事前に予測してしまうなんて…!
嗚呼! 一条さんの背後に、白毫寺の地蔵菩薩立像の如き、舟形光背が見える…!!


だから、言った。
一条さんの胸に顔を埋めながら。

「…何を怒ると言うんですか? …感謝こそしてますが、謝罪して頂く理由がありません。」
「…っ! ……貴女の書いた物を盗み見て、室井女史に連絡をとりました…」
「…私のためでしょう? …そりゃ、悪用でもすれば怒りますが…一条さんは絶対そんな事はしない。」
「…貴女に、『相手にするな。無視をしろ』…それだけしか言わなかった…あいつがああ云った行動に出る可能性はゼロではなかったのに、私はその危険性を考慮しなかった…」
「……私は、そもそも、北原さんがあんな行動に出るだけの本気そのものを信じていなかったのですから…やっぱり今回の事は、危機管理能力の低い私のせいです。」

「……貴女がそんな心配をせずに済むように私がいるんです!
 私の存在意義を奪わないで下さい!!」
「……一条さん……」

……この一条さんの台詞には、さすがにグッとキタ・・
……この瞬間、アタシの乙女ゴコロは、完全に鷲掴みにされてしまった。

……上井 真唯、“干物女”を卒業しま~~す♡♡♡



「……一条さん……」
今なら、アノ“騎乗位”だってやってみせる…っ!
そんな想いで一条さんを、ソファーに押し倒そうとした瞬間ときだった。
一条さんのスマホが鳴ったのは。



「すみません、真唯さん。ちょっと失礼します。」
即座に仕事モードに切り替わった一条さんは、スマホを取り上げるとしばらく話していて、『すみません』とアタシに眼で謝って仕事部屋に入って行ってしまった。

……慣れない事はするなと云う、天の思し召しだろうか…?
……ちょっと残念な気はするが、どこかでホッとしている真唯がいるのも事実だ。

それより、今日は平日なのだと云う事を改めて意識してしまう。
真唯の会社の上層部なんて、一条さんの一言でどうにでもなってしまうが、一条さん本来の仕事は滞ってしまっている筈だ。そうして心配している真唯のもとに一条さんが戻って来た。

「……一条さん…お仕事、あるんじゃないですか? 良かったら、今からでも、」
だが、そんな真唯の心配は一蹴されてしまった。
「貴女がそんな心配をなさる事はないんですよ…もし、本当に仕事がつまっていたら、私はタブレットを開いています。」
「あ…っ!」
それもそうだ。 ……そんな事も忘れてしまっていた事に、一気に気が抜けてしまい……
「……一条さん…すみませんが…私、まだちょっと疲れてるみたいなんで…寝室で休んでても良いですか…?」
「勿論ですよ。まだ神経が疲れているんでしょう……どうぞ、ゆっくりお休みなさい。」
そう言うと、軽々と抱きあげてベッドルームまで運んでくれた。
「…夕飯が出来たら起こしてあげますから…」
「…さすがに、そんなには寝ないと思いますけど…夜、眠れなくなっちゃうから…」
「…そうしたら、運動をしましょう。 …ぐっすり眠れると思いますよ…」
「…っ! …もう、一条さんのエッチッ…!!」
そうして一条さんに背を向けてしまうと、一条さんはそんなアタシの肩をポンポンと優しく叩いてくれた。
「…冗談ですよ…おやすみなさい。」
……その優しい声は、アタシの意識を蕩かしてくれて……
「……お寝みなさい……」

そしてアタシは短くて深い眠りに落ちて行った。




※ ※ ※




―――だから。


「―――そんな訳ですから、話しを合わせておいて下さい。」
『……すごいですね…それじゃ、私、大活躍じゃないですか…』
「そうですよ。真唯は貴女に大感謝ですよ。明日、出勤したら、覚悟しておいて下さいね。」
『…牧ちゃんにお礼を言われるのはヤじゃないけど…さすがに、してもいない事に礼を言われるのは良心が疼きますね…』
「またまた…“彼”には、どこまで話したんですか?」
『勿論、あなたの許可の降りた範囲内の事しか話してませんよ。あなた・・・を敵にまわすほど馬鹿になれないんでね。』
「賢明な判断です。 ……きっと、長生きなさいますよ…」
『…っ! ……あなたの言葉は、全然冗談に聞こえないから、怖いわ。』
「勿論、冗談なんかじゃありませんとも。私はいつも100%本気で話をしています。 ……私が冗談を言うのは、真唯にくらいなものですよ。」
『……その言葉…信じて良いのね…?』
「勿論です。私は真唯だけは裏切りません。 ……真唯が私を見捨てない限りはね。」
『……ただし書きが付くのが、怖いわね…お腹を空かせた狼の前に子羊ちゃんを差し出す気分なんだけど……』
「…ふむ。 ……それは、上手い例えですね。」
『…っ! ……そこは否定してよ、このド悪魔!! …まだ仕事中だから、切るわよ!!』

プツッ!
ツーツーツー

「……“ド悪魔”か…そう云えば、リザの奴にも言われた事があったな……」



ククク…ッ






―――そんな室井さんと一条さんの会話など……一条さんが浮かべた心底愉快気な黒笑ほほえみを、真唯が知る事はない―――









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