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企画SS
思い出を書きかえて
リティシアは、膝にのびてきた手を払いのけた。
「馬車の中ですよ? レーナルト様」
「いいではないか、少しくらい」
「だめです」
少しでも油断したら、彼の手は容赦なくスカートの中に入り込んでくるだろう。一度スカートに侵入を許したら、それだけで終わるはずがない。
「昨日だって別々の寝室だったというのに」
不満そうな顔で、レーナルトはおろしたままのリティシアの髪を指に絡めて引っ張った。
「少しくらい自重なさってください。だいたい昨夜はよそのお屋敷に――あっ」
レーナルトは素早くリティシアを引き寄せて唇を重ねる。
「ですか……ら……自……重……」
唇を啄まれる間にリティシアは訴えた。だんだんその声が小さくなっていって、吐息へと姿を変える。
完全にレーナルトに体重を預けたリティシアの肩を抱いて、彼はささやいた。
「このまま――ここで」
「だ……だめですっ」
みるみるリティシアは真っ赤になった。
「前は許してくれたのに」
「あの時はあの時……今は今ですっ」
レーナルトの肩から飛びのいて、リティシアは彼とは対角線上になるように席を変えた。
たしかに一度、馬車の中で彼に抱かれたことがある。あの時も、これから向かおうとしている海辺の小城、クーベキュアルへの道中だった。
外で護衛している兵士たちに声が聞こえるのではないかとはらはらしながら抱かれるのは、たしかに刺激的ではあったけれど。
そうそう何度も体験したいとはリティシアは思わない。
だいたいあの時は――馬車の外を流れる景色に目をやってリティシアは、記憶の海へと沈みこむ。
あの時は、夫との仲も今のようではなかった。彼には他に愛する人がいてリティシアとの結婚は、政略的な物だった。ただ、北の国境を安定させるためだけの。
だから、リティシアは心を殺して彼の要求にはすべて応じてきた。今はあの時とはちがうはずだ。
「……リティシア?」
夫の声に視線を戻せば、いつの間にか隣へと移動してきている。
「……だめですっ」
また膝にのびてくる手をリティシアは軽くつねった。少々むくれた表情で、レーナルトはたずねる
「――何を考えていた?」
「……あなたのことを」
つねられた手が、リティシアの手首をつかんで押さえつける。
「わたしは目の前にいるのにな」
「……そうですね」
リティシアはそっと顔を仰向ける。レーナルトはリティシアの頬に唇を押しあてる。
その唇が耳へと少しずつ移動していって、リティシアの耳に「愛してる」とささやく。
リティシアの身体から力が抜ける。その後、クーベキュアル城に到着するまで、国王夫妻が馬車から降りることはなかった。
到着した時、リティシアは機嫌が悪かった。結局レーナルトに押しきられて、馬車でハンカチを噛みしめる羽目に陥ったのである。
さすがに服の乱れはなおしたものの、周囲の兵士たちに馬車の中の気配が伝わったのではないかと気が気ではなかった。
「そんなに怒らないで。わたしが悪かったから」
レーナルトが肩を抱こうとのばした手を、リティシアは一歩しりぞいてかわした。
「怒っているわけではありません」
ぷいと顔を横に向けて、リティシアは口をとがらせる。激怒まではいかないにしてもむくれている。
「わたしが悪かったから」
「……知りませんっ」
強引に腕をとると、顔を横にそむけたままそれでもレーナルトに従って城内へと足を踏み入れた。
今回は城からついてきた四人の侍女たちは、そんな二人にも慣れた様子で荷を運び出すよう、城にいる雇い人たちに指示を出している。
寝室からテラスへと出て、リティシアは海風に髪をなびかせた。この城を訪れたのは一昨年のこと。あの時も、海の美しさに感動したものだけれど。
「海へ行こうか?」
室内からレーナルトが声をかけると、
「そうですね」
すっかり機嫌の直った顔でリティシアは駆け寄ってくる。そして、
「いい天気が続くといいですね」
つま先立ちをして、レーナルトの頬に口づけた。
いつまでも仲違いの時は続かない。
それよりも以前は常に穏やかな笑みを見せることしかしていなかったリティシアが、唇をとがらせてむくれた表情を見せてくれるのが彼には嬉しい。
去年はいろいろあって、この城に来る余裕はなかった。今年は薔薇園の薔薇が満開になる時期に合わせてやってきた。
後で薔薇園のほうも行ってみよう。レーナルトがそう言うと、リティシアは、
「満開の時期に合わせてこられてよかったです」
と笑顔になった。
薔薇園を散歩してから、二人は海岸へと足を向けた。今日は風はそれほど強くはない。
「あたたかくてよかったですね」
リティシアは海面に目をむける。リティシアの夫の瞳と同じ色。
「そう言えば――猫を見つけたのはこのあたりだったね」
レーナルトは言った。
「そう……そんなこともありましたね」
リティシアは視線をそらせる。
「どうした?」
「いえ、何でも」
リティシアはレーナルトの腕に抱きついた。表情を隠そうかとするかのように。
レーナルトはそれに気づき――そっとリティシアの髪をかきあげると、
「戻ろうか?」
と声をかけた。
夕食を終えて、二人は早めに寝室に入る。先に湯浴みをすませたリティシアは、レーナルトが入ってきた時にはベッドに腰かけていた。
「リティシア」
呼べば、リティシアはふわりと笑顔をうかべて彼の胸に飛び込んでくる。
「愛しているよ」
そうささやくと、、彼の首に両腕を巻きつけて彼女は
「もう休みましょう」
と、彼をベッドに誘う。愛しい妻に誘われて、彼が拒むはずなどなかった。
寝室には、ゆったりとした空気が流れていた。城にいる時は、いつも翌朝の予定を気にしなければならなかったが、ここでは違う。
リティシアはまだ夜着もまとわずにレーナルトによりそっていた。こうして抱き合った後も素肌で触れ合うのは珍しい。
「何を考えていた?」
リティシアの髪を一筋すくいあげ、口づけながらレーナルトはたずねる。
「何を――ですか?」
「海岸で猫のことを話した時、あなたは表情を変えたね」
「そうだったでしょうか?」
リティシアは、顔をレーナルトの胸に埋めた。
「気になるよ。あなたは何も話してくれないから」
「……本当に何もないのですよ?」
リティシアは顔をあげた。
「ただ――思い出しただけです」
リティシアは小さく微笑んだ。
「猫を見つけた……あの時、猫を見る目とわたくしを見る目が同じだと……気がついてしまいました」
あの時、気がついてしまったのだ。彼にとってリティシアは重要な存在ではないと。大切に扱ってはくれたけれど。
「そんなこともあったと思い出してしまって……それだけです。ですから、たいしたことでは……」
レーナルトは言葉につまる。結婚したばかりの頃、たしかに彼にとってのリティシアは庇護すべき対象であって、拾った猫と大きな違いはなかった。
違いと言えば、もう一つ。リティシアは当時の想い人を忘れるための手段でもあったこと。
彼女はそれを責めたことなどない。それを知って嫁いできたのだからと、すべてを胸のうちにおさめている。
翌朝リティシアが目を覚ました時、夫はいなかった。あわてて着替え、リュシカを呼んで髪を結わせる。髪を結っている間に彼は戻ってきた。
「今日は昼前に視察に出るよ。あなたも来てくれれば嬉しいのだけど」
「もちろん――ご一緒します」
一昨年にここを訪れた時は、リティシアは療養中だったから、視察に同行しなかった。
今年は彼に同行することができる。それが嬉しい。彼の手をぎゅっと握って馬車に乗る。
あいかわらず、人前に出るときは緊張してしまう。
ひょっとしてレーナルトにはふさわしくないと思われるのではないかという不安を覚えながら、リティシアは視察に赴いたのだが、その心配は無用だった。
城に戻ってリティシアはほっとする。少しずつ、ローザニアの王妃としてふるまうことができるようになっているのだろうか。それならいいのだけれど――自信はない。
湯浴みをして、汗でべとつく身体をさっぱりとさせる。花の香りの香油を身体にすりこんで、新しい服に着替える。
「リティシア――散歩に行こう」
もうすぐ食事の時間なのに。断る理由もないから、夫の腕を掴んで一緒に海岸へと出る。
「……日が沈みますね」
リティシアはそれしか言えなかった。沈んでいく太陽は、大きく見える。鮮やかな橙色をした太陽が海を染めていくのをリティシアは目を大きくして見つめた。
リティシアの頬に唇をあてて、レーナルトはささやく。
「それだけではないよ。こちらにおいで」
レーナルトの指さした先を見て、リティシアは息を飲む。
海岸に天幕が用意されていた。
「いつの間に……」
「今朝、用意させた」
だからリティシアが目を覚ます前にレーナルトはいなくなっていたのか。
「今夜はここで寝るんだ。海の音を聞きながらね」
天幕の入口を覆う布をリティシアの為に支えてやりながら、レーナルトは言った。
「ここで……ですか?」
天幕の中に入ってリティシアは驚く。下は一面敷物で覆われて砂は見えなかった。隅には城から運んできたのだろう。敷物の上に寝具が置かれて、ベッドではないものの十分心地よく眠ることができそうだった。
「いつか月の下で食事をしたことがあったね」
「……そんなこともありましたね」
城のテラスに敷物やクッションを持ち出して、夜のピクニックを楽しんだのだった。
「今夜は、海を見ながら、だ」
天幕の中に用意されていたバスケットをレーナルトは持ち上げた。
天幕の外に敷物を敷いて、レーナルトはリティシアを呼ぶ。
「城にいてはこんなことはなかなかできないからね」
バスケットを挟んで向かい合おうとしたら、レーナルトの膝の上に座らされた。
「ほら、口をあけて」
「あの……どうしてこのような?」
リティシアの問いには答えず、レーナルトはパンを一口ちぎってリティシアの口に押し込んだ。
「レーナルト様も。口をあけてください」
レーナルトの手にあるパンから、一口大にちぎってリティシアは彼の口の前へと運ぶ。
親指と人差し指で挟まれたパンを、レーナルトは素直に口を開けて飲み込む――と、指までぺろりと舐められた。
「……指まで食べないでください」
リティシアの尖らせた唇に、レーナルトは笑ってキスをする。
一つのグラスからワインを分けあい、互いの口に食べ物を運ぶ。
鶏に香草で香りをつけて焼いたもの、蒸した野菜、チーズに果物。食後の焼き菓子までたどりついた時には、日は完全に沈んでいた。
最後の焼き菓子を食べさせてもらったリティシアは、満足げなため息をついて、彼の胸に背を預ける。
背後から回された腕が、リティシアを包み込んだ。
「星が綺麗ですね」
今夜は月は出ていない。そのかわり、夜空にはきらびやかな星々が散らばっている。
「――そうだね」
そうささやきながら、レーナルトの唇はリティシアの耳朶をまさぐっていた。
「……くすぐったいです……!」
リティシアが身をよじってのがれようとすると、レーナルトは負けずにリティシアを抱える腕に力をこめて、首筋を舌でくすぐった。
「あぁっ……もうっ!」
きゃっきゃと笑いながら、リティシアはレーナルトの腕から逃れようとする。
レーナルトは素早く体勢を変えた。リティシアを敷物の上に押しつけて、唇を合わせる。
「……愛している」
キスの合間にレーナルトは何度もささやいた。
「わたくしも……」
リティシアはレーナルトの首に腕をからめる。それを合図としたかのように、レーナルトは軽々とリティシアを抱き上げて天幕の中へと姿を消した。
後には波の音だけが残っている。
「あなたの悲しい記憶を、書き換えることはできたかな?」
甘い一夜を過ごした二人は並んで砂浜に座っていた。もうすぐ太陽が水平線上に姿を見せるはずだ。金色に輝き初めた海面がリティシアの目にはまぶしい。
リティシアの肩を抱いたレーナルトの顔をリティシアは見上げる。初めて気がついた。天幕を張られた場所は、一昨年二人が猫を拾った場所であることを。
そのために、わざわざ――?
「ええ……もちろん、もちろんです!」
リティシアはレーナルトの腕の中で身体の向きを変えて、彼にぎゅっと抱きついた。
三年も前のことを、まだ思い出すなんて恨みがましい女だと思われるのではないかと心配していたのだけれど。
「あなたが好きです……レーナルト様」
嫁いできて三年。リティシアはまだ夫に恋している。
リティシアを見るレーナルトの目元が柔らかさをます。
そしてリティシアの鼻先にちゅっと口づけると、
「今日は何をしようか?」
とたずねたのだった。
「馬車の中ですよ? レーナルト様」
「いいではないか、少しくらい」
「だめです」
少しでも油断したら、彼の手は容赦なくスカートの中に入り込んでくるだろう。一度スカートに侵入を許したら、それだけで終わるはずがない。
「昨日だって別々の寝室だったというのに」
不満そうな顔で、レーナルトはおろしたままのリティシアの髪を指に絡めて引っ張った。
「少しくらい自重なさってください。だいたい昨夜はよそのお屋敷に――あっ」
レーナルトは素早くリティシアを引き寄せて唇を重ねる。
「ですか……ら……自……重……」
唇を啄まれる間にリティシアは訴えた。だんだんその声が小さくなっていって、吐息へと姿を変える。
完全にレーナルトに体重を預けたリティシアの肩を抱いて、彼はささやいた。
「このまま――ここで」
「だ……だめですっ」
みるみるリティシアは真っ赤になった。
「前は許してくれたのに」
「あの時はあの時……今は今ですっ」
レーナルトの肩から飛びのいて、リティシアは彼とは対角線上になるように席を変えた。
たしかに一度、馬車の中で彼に抱かれたことがある。あの時も、これから向かおうとしている海辺の小城、クーベキュアルへの道中だった。
外で護衛している兵士たちに声が聞こえるのではないかとはらはらしながら抱かれるのは、たしかに刺激的ではあったけれど。
そうそう何度も体験したいとはリティシアは思わない。
だいたいあの時は――馬車の外を流れる景色に目をやってリティシアは、記憶の海へと沈みこむ。
あの時は、夫との仲も今のようではなかった。彼には他に愛する人がいてリティシアとの結婚は、政略的な物だった。ただ、北の国境を安定させるためだけの。
だから、リティシアは心を殺して彼の要求にはすべて応じてきた。今はあの時とはちがうはずだ。
「……リティシア?」
夫の声に視線を戻せば、いつの間にか隣へと移動してきている。
「……だめですっ」
また膝にのびてくる手をリティシアは軽くつねった。少々むくれた表情で、レーナルトはたずねる
「――何を考えていた?」
「……あなたのことを」
つねられた手が、リティシアの手首をつかんで押さえつける。
「わたしは目の前にいるのにな」
「……そうですね」
リティシアはそっと顔を仰向ける。レーナルトはリティシアの頬に唇を押しあてる。
その唇が耳へと少しずつ移動していって、リティシアの耳に「愛してる」とささやく。
リティシアの身体から力が抜ける。その後、クーベキュアル城に到着するまで、国王夫妻が馬車から降りることはなかった。
到着した時、リティシアは機嫌が悪かった。結局レーナルトに押しきられて、馬車でハンカチを噛みしめる羽目に陥ったのである。
さすがに服の乱れはなおしたものの、周囲の兵士たちに馬車の中の気配が伝わったのではないかと気が気ではなかった。
「そんなに怒らないで。わたしが悪かったから」
レーナルトが肩を抱こうとのばした手を、リティシアは一歩しりぞいてかわした。
「怒っているわけではありません」
ぷいと顔を横に向けて、リティシアは口をとがらせる。激怒まではいかないにしてもむくれている。
「わたしが悪かったから」
「……知りませんっ」
強引に腕をとると、顔を横にそむけたままそれでもレーナルトに従って城内へと足を踏み入れた。
今回は城からついてきた四人の侍女たちは、そんな二人にも慣れた様子で荷を運び出すよう、城にいる雇い人たちに指示を出している。
寝室からテラスへと出て、リティシアは海風に髪をなびかせた。この城を訪れたのは一昨年のこと。あの時も、海の美しさに感動したものだけれど。
「海へ行こうか?」
室内からレーナルトが声をかけると、
「そうですね」
すっかり機嫌の直った顔でリティシアは駆け寄ってくる。そして、
「いい天気が続くといいですね」
つま先立ちをして、レーナルトの頬に口づけた。
いつまでも仲違いの時は続かない。
それよりも以前は常に穏やかな笑みを見せることしかしていなかったリティシアが、唇をとがらせてむくれた表情を見せてくれるのが彼には嬉しい。
去年はいろいろあって、この城に来る余裕はなかった。今年は薔薇園の薔薇が満開になる時期に合わせてやってきた。
後で薔薇園のほうも行ってみよう。レーナルトがそう言うと、リティシアは、
「満開の時期に合わせてこられてよかったです」
と笑顔になった。
薔薇園を散歩してから、二人は海岸へと足を向けた。今日は風はそれほど強くはない。
「あたたかくてよかったですね」
リティシアは海面に目をむける。リティシアの夫の瞳と同じ色。
「そう言えば――猫を見つけたのはこのあたりだったね」
レーナルトは言った。
「そう……そんなこともありましたね」
リティシアは視線をそらせる。
「どうした?」
「いえ、何でも」
リティシアはレーナルトの腕に抱きついた。表情を隠そうかとするかのように。
レーナルトはそれに気づき――そっとリティシアの髪をかきあげると、
「戻ろうか?」
と声をかけた。
夕食を終えて、二人は早めに寝室に入る。先に湯浴みをすませたリティシアは、レーナルトが入ってきた時にはベッドに腰かけていた。
「リティシア」
呼べば、リティシアはふわりと笑顔をうかべて彼の胸に飛び込んでくる。
「愛しているよ」
そうささやくと、、彼の首に両腕を巻きつけて彼女は
「もう休みましょう」
と、彼をベッドに誘う。愛しい妻に誘われて、彼が拒むはずなどなかった。
寝室には、ゆったりとした空気が流れていた。城にいる時は、いつも翌朝の予定を気にしなければならなかったが、ここでは違う。
リティシアはまだ夜着もまとわずにレーナルトによりそっていた。こうして抱き合った後も素肌で触れ合うのは珍しい。
「何を考えていた?」
リティシアの髪を一筋すくいあげ、口づけながらレーナルトはたずねる。
「何を――ですか?」
「海岸で猫のことを話した時、あなたは表情を変えたね」
「そうだったでしょうか?」
リティシアは、顔をレーナルトの胸に埋めた。
「気になるよ。あなたは何も話してくれないから」
「……本当に何もないのですよ?」
リティシアは顔をあげた。
「ただ――思い出しただけです」
リティシアは小さく微笑んだ。
「猫を見つけた……あの時、猫を見る目とわたくしを見る目が同じだと……気がついてしまいました」
あの時、気がついてしまったのだ。彼にとってリティシアは重要な存在ではないと。大切に扱ってはくれたけれど。
「そんなこともあったと思い出してしまって……それだけです。ですから、たいしたことでは……」
レーナルトは言葉につまる。結婚したばかりの頃、たしかに彼にとってのリティシアは庇護すべき対象であって、拾った猫と大きな違いはなかった。
違いと言えば、もう一つ。リティシアは当時の想い人を忘れるための手段でもあったこと。
彼女はそれを責めたことなどない。それを知って嫁いできたのだからと、すべてを胸のうちにおさめている。
翌朝リティシアが目を覚ました時、夫はいなかった。あわてて着替え、リュシカを呼んで髪を結わせる。髪を結っている間に彼は戻ってきた。
「今日は昼前に視察に出るよ。あなたも来てくれれば嬉しいのだけど」
「もちろん――ご一緒します」
一昨年にここを訪れた時は、リティシアは療養中だったから、視察に同行しなかった。
今年は彼に同行することができる。それが嬉しい。彼の手をぎゅっと握って馬車に乗る。
あいかわらず、人前に出るときは緊張してしまう。
ひょっとしてレーナルトにはふさわしくないと思われるのではないかという不安を覚えながら、リティシアは視察に赴いたのだが、その心配は無用だった。
城に戻ってリティシアはほっとする。少しずつ、ローザニアの王妃としてふるまうことができるようになっているのだろうか。それならいいのだけれど――自信はない。
湯浴みをして、汗でべとつく身体をさっぱりとさせる。花の香りの香油を身体にすりこんで、新しい服に着替える。
「リティシア――散歩に行こう」
もうすぐ食事の時間なのに。断る理由もないから、夫の腕を掴んで一緒に海岸へと出る。
「……日が沈みますね」
リティシアはそれしか言えなかった。沈んでいく太陽は、大きく見える。鮮やかな橙色をした太陽が海を染めていくのをリティシアは目を大きくして見つめた。
リティシアの頬に唇をあてて、レーナルトはささやく。
「それだけではないよ。こちらにおいで」
レーナルトの指さした先を見て、リティシアは息を飲む。
海岸に天幕が用意されていた。
「いつの間に……」
「今朝、用意させた」
だからリティシアが目を覚ます前にレーナルトはいなくなっていたのか。
「今夜はここで寝るんだ。海の音を聞きながらね」
天幕の入口を覆う布をリティシアの為に支えてやりながら、レーナルトは言った。
「ここで……ですか?」
天幕の中に入ってリティシアは驚く。下は一面敷物で覆われて砂は見えなかった。隅には城から運んできたのだろう。敷物の上に寝具が置かれて、ベッドではないものの十分心地よく眠ることができそうだった。
「いつか月の下で食事をしたことがあったね」
「……そんなこともありましたね」
城のテラスに敷物やクッションを持ち出して、夜のピクニックを楽しんだのだった。
「今夜は、海を見ながら、だ」
天幕の中に用意されていたバスケットをレーナルトは持ち上げた。
天幕の外に敷物を敷いて、レーナルトはリティシアを呼ぶ。
「城にいてはこんなことはなかなかできないからね」
バスケットを挟んで向かい合おうとしたら、レーナルトの膝の上に座らされた。
「ほら、口をあけて」
「あの……どうしてこのような?」
リティシアの問いには答えず、レーナルトはパンを一口ちぎってリティシアの口に押し込んだ。
「レーナルト様も。口をあけてください」
レーナルトの手にあるパンから、一口大にちぎってリティシアは彼の口の前へと運ぶ。
親指と人差し指で挟まれたパンを、レーナルトは素直に口を開けて飲み込む――と、指までぺろりと舐められた。
「……指まで食べないでください」
リティシアの尖らせた唇に、レーナルトは笑ってキスをする。
一つのグラスからワインを分けあい、互いの口に食べ物を運ぶ。
鶏に香草で香りをつけて焼いたもの、蒸した野菜、チーズに果物。食後の焼き菓子までたどりついた時には、日は完全に沈んでいた。
最後の焼き菓子を食べさせてもらったリティシアは、満足げなため息をついて、彼の胸に背を預ける。
背後から回された腕が、リティシアを包み込んだ。
「星が綺麗ですね」
今夜は月は出ていない。そのかわり、夜空にはきらびやかな星々が散らばっている。
「――そうだね」
そうささやきながら、レーナルトの唇はリティシアの耳朶をまさぐっていた。
「……くすぐったいです……!」
リティシアが身をよじってのがれようとすると、レーナルトは負けずにリティシアを抱える腕に力をこめて、首筋を舌でくすぐった。
「あぁっ……もうっ!」
きゃっきゃと笑いながら、リティシアはレーナルトの腕から逃れようとする。
レーナルトは素早く体勢を変えた。リティシアを敷物の上に押しつけて、唇を合わせる。
「……愛している」
キスの合間にレーナルトは何度もささやいた。
「わたくしも……」
リティシアはレーナルトの首に腕をからめる。それを合図としたかのように、レーナルトは軽々とリティシアを抱き上げて天幕の中へと姿を消した。
後には波の音だけが残っている。
「あなたの悲しい記憶を、書き換えることはできたかな?」
甘い一夜を過ごした二人は並んで砂浜に座っていた。もうすぐ太陽が水平線上に姿を見せるはずだ。金色に輝き初めた海面がリティシアの目にはまぶしい。
リティシアの肩を抱いたレーナルトの顔をリティシアは見上げる。初めて気がついた。天幕を張られた場所は、一昨年二人が猫を拾った場所であることを。
そのために、わざわざ――?
「ええ……もちろん、もちろんです!」
リティシアはレーナルトの腕の中で身体の向きを変えて、彼にぎゅっと抱きついた。
三年も前のことを、まだ思い出すなんて恨みがましい女だと思われるのではないかと心配していたのだけれど。
「あなたが好きです……レーナルト様」
嫁いできて三年。リティシアはまだ夫に恋している。
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公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。