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1巻
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両親を失ってから、イサラは他人とあまり関わろうとしなかった。だから、ディミオスとエウロパのようなつながりを誰とも築くことができなかったということに改めて気づかされる。
その他細々とした品を揃えて家に戻った時には昼近くになっていた。
市場で買ってきた屋台の品で簡単に昼食を済ませれば、もう出立の時間だ。エウロパがイサラを連れて買い出しに行っている間に、ディミオスも支度を終えていた。
肩に荷を背負い、腰に剣を吊ってディミオスはイサラを見る。
「――前払いしてもらおうか」
差し出された手に、イサラは素直に耳飾りを載せる。それはそのままエウロパの手に渡された。
「換金しておいてくれ」
「あんたが戻ってきてからにするよ。女の一人暮らしの家に大金があると知られたくないからね」
「誰もこんな家、気にしないだろうさ」
馬鹿な心配をするなと言いたげに鼻を鳴らしてディミオスは先に家を出た。続こうとするイサラにエウロパは忠告をくれる。
「いいかい、あんたはディミオスの言うことを聞いていれば間違いないから。どうせ島から出たことはないんだろ?」
「……はい。色々と……ありがとう、ございました」
他人と接するのを避けてきたイサラにしては、これだけ言えれば上出来だ。ぺこりと頭を下げてイサラはディミオスの後を追った。
彼は確かに旅慣れていた。
慣れないイサラが歩かないで済むようにと、荷車を引いている男に頼んで途中まで乗せてもらうという交渉までしてくれた。
見渡す限り麦畑が広がっている。一日もあれば回ることのできる島では考えられない光景だ。荷車の後ろに乗りこんだイサラは、きょろきょろとあたりを見回した。
「珍しいか?」
イサラの隣に座ったディミオスは、忙しく視線を走らせる彼女が面白くてしかたないらしい。
「こんなに畑ばかり続いている光景って見たことないから」
素直にイサラが返すと、彼はさらに表情を緩めた。
最初の夜は、イオニアから一番近い宿場町に宿をとった。宿についている食堂で簡単に夕食を済ませ、部屋に入る。
部屋に入ってイサラはまごついた。ベッドが一つしかない。
「……どこで寝るの?」
「ベッドはあんたが使え。俺は床で寝る――何かあった時すぐ動けないと困るから、横にはならない。気にするな。あんたは俺の雇い主だ」
「そうじゃなくて」
身内でもない異性と一つ部屋というのは抵抗がある。できれば別の部屋にしてほしい。
そう言うつもりだった。
けれど、途中で荷車に乗せてもらいほとんど歩いていないはずなのに、もう瞼が重くなっている。どこで寝るかなど言い争う気力もなかった。
仕方なく説得は諦め、ベッドに倒れこんだイサラは眠りに落ちる。
気がついた時には、夜が明けていた。起き上がって、ベッドの上で眠気を追い払おうと頭を振る。
扉の方に目をやると、ディミオスは床の上に胡坐をかき、腕を組んで扉を塞ぐように座っていた。剣は組んだ腕の中に抱え込まれている。
彼はまだ眠っているように見えた。イサラは様子をうかがうべく、そっとベッドから下りて彼に近づこうとする。
床に足がつくのと同時に、ごくわずかに床板がきしんだ。
眠っていたように見えたディミオスが剣を手に飛び上がる。次の瞬間にはいつでも剣を抜ける体勢になっていた。
「あっあの……お、おはよう……」
彼の雰囲気が違う。殺気、とでも言えばいいのだろうか。
何ともいえない威圧感に脚の力が抜けた。今立ち上がったばかりのベッドに腰を落としてしまう。
「あ――悪い。明日からは先に声をかけてくれ」
剣を床に横たえたディミオスは、床の上に座り直して苦笑した。そうすると、目つきが悪いことには変わりないものの、まとう空気がいくぶん柔らかなものへと変化する。
「声をかけてもらえれば敵じゃないとわかる」
「……今、寝ていたの?」
「寝てた」
「……でも」
床板がわずかにきしんだだけで、一瞬にして目を覚ますことなどできるのだろうか?
「いつ敵に襲われるかわからないからな。戦場じゃ常識だ」
イサラが落ち着きを取り戻したのを察したのか、立ち上がったディミオスは大きく伸びをして窓の方へと歩み寄り、大きく開いた。
「今日もいい天気になりそうだ――急いで支度をして出かけるか」
イサラは不審の目を彼へ向けた。こんなふうに警戒する人なんて、イサラが今まで知っていた人たちの中にはいなかった。
傭兵という彼の職にあって、それは当然なのかもしれないけれど、何か人に追われるようなことをしていたんじゃないだろうか。そんな彼が恐ろしく感じられて、また不安がつのる。
彼を信じていいのだろうか――でも、今は彼を信用するしかない。
ぐらぐら揺れる気持ちを落ち着けるようにきゅっと唇を結ぶと、イサラは彼が開いたままにしておいた窓を閉めて出立の支度に取りかかった。
ディミオスが頭を抱えたのは、歩き始めて三日目のことだった。
「まいったな」
「……どうしたの?」
宿の食堂で朝食の席に着いたイサラは首をかしげた。それまでディミオスと話していた男が、彼の肩をぽんぽんと叩いて離れていく。
「前からきな臭い話がなかったわけじゃないんだがな……この先で小競り合いが起きているらしい。今の男が教えてくれた」
「小競り合いって?」
イサラはまた首をかしげる。島では住民全員が顔見知りで、ほとんど全員が何らかの血縁関係にある。小競り合いという言葉は知っていても、具体的に想像するのは難しかった。
「ここはローラント公爵とサルディア伯爵の領地の境あたりなんだ。この二人、領地の境界線をめぐって何度となくやり合ってるんだよな」
「そうなの?」
「半年ぐらい前にもやり合ったばかりだ。確かにそろそろぶつかりそうだという話は聞いていたが、その前に通過できると思っていたんだがな」
ディミオスの説明によると、イサラを拾った夜、彼の家に集まっていた傭兵仲間たちからそういった話を聞いていたのだそうだ。そう言えば出発した朝、エウロパも同じことを言っていた。
彼はまだ大丈夫だろうと楽観視していたが、予想より早く両者が戦端を開いてしまったのだという。これから旅程を変更しなければならなくなったというわけだ。
ディミオスは嘆息して、硬めのパンを勢いよく食いちぎった。朝から食欲旺盛だ。
パンをちぎるのに苦戦していたイサラは、その様子を見て慌てて自分の食事に戻る。
「とにかく、あてが外れたってことだ。このまま進めば、傭兵たちがぶつかり合っているところに正面から突っこんでいくことになる」
「……それは困ったわ」
「……困ったな」
それほど困ってもいないような顔で彼は言う。どうするのかとイサラに問いかけられて、彼は朝食の皿をよけてそこに地図を広げた。
「今いるのがここだ」
半島の中央よりやや南に寄ったあたりをディミオスが指す。メラーナ、と書かれた場所のすぐ近くだった。
「小競り合いが起きそうなのはこの先だ――ここは避けてこっちの道を通って海辺に出ようと思う」
「ここは通れないの?」
イサラはディミオスが指したのとは違う箇所を指で押さえた。
「その道も悪くはないが、山越えになる。俺一人ならそっちでもいいんだが、あんたを連れているなら山越えは避けたい。何かあったら面倒だろ?」
そう言われてしまえばイサラは反論することができない。旅のことはディミオスに任せておいた方が正解だ。
「メラーナまで行ったらこの道を通って港町のチェトアに出る。そこからザールまで船で行くのが楽でいいだろう。金を払えば荷を運ぶ船の片隅に乗せてもらえるはずだ。あんたも船は大丈夫だろ?」
「……うん、大丈夫」
幼い頃から海には慣れている。船酔いなんてしたこともない。今まで乗ったことがあるのは漁師たちの小舟だけだが、たいした違いはないだろう。
「決まりだ。それならさっさと出かけようか。今日のうちにメラーナまで行ってしまいたい」
今日の旅程を決めると、ディミオスは地図を閉じた。
それから二日後。二人がチェトアに到着したのは夕方だった。ここは外国との交易がさかんな大きい商業都市だ。多彩な衣服に身を包んだ人たちが行き来している。
こうしてきょろきょろするのは、島を出てから何回目になるだろう。鮮やかな赤い上着に幅広のベルトを合わせた男が通ったかと思えば、頭から布をかぶって性別すらわからない人が市場を眺めたりしている。見慣れない装束の人々にイサラの目はまた丸くなった。
ディミオスと旅に出てから、珍しいものばかり見ているような気がする。島に帰ってからも、このことはきっと忘れないだろう。
二人は、海の近くの宿屋に部屋をとった。窓を開ければ海が見える。久しぶりの潮風にイサラは目を細めた。
「あんたはここで待っているといい。俺が船を探してくる」
窓の下は市場になっていた。
ディミオスからすればイサラを連れて歩くのは面倒くさかったのだろう。くれぐれも部屋から出ないようにときつく言い残して出かけていった。
ここに到着するまでの間、市場の人ごみの中をうまく歩くことができなくて彼に世話を焼かせてしまったから、イサラとしても残った方が気が楽だ。
宿の二階から見下ろした通りは人であふれている。
野菜や果物を山ほど買い込んでいる主婦たち。荷車に大きな荷を載せて引いている商人たち。ディミオスのように剣を吊った男たちは傭兵なのだろうか。
通りの喧騒は、イサラには馴染みのないものだった。眺めているだけで楽しい。一人で待っている時間も、少しも退屈ではなかった。
ディミオスが戻ってきたのは、夕食ぎりぎりの時間だった。
「船は見つかった?」
問いかけるイサラに「ああ」と彼は返す。
「知り合いの船長に会った。目的地は違うんだが、ザールを経由するそうだからそこで降ろしてもらえる」
まったく知らない相手の船よりはいいだろうということで、彼はその船に決めてきたのだそうだ。
「明日早朝出航だそうだ。ザールまでは三日程度かかるらしい。歩いていくよりは速そうだな」
扉の前にディミオスが眠り、ベッドはイサラが占領するという状態にも慣れた。
夕食を終えるとさっさと寝支度を終えてベッドに潜り込む。
この先に何が待ち受けているのか考えもしないままに。
旅の間、晴天に恵まれ続けていたのは運がよかった。旅慣れないイサラは雨が降ったらすぐに体調を崩してしまっただろう。
出航の日も、今までと同じようによく晴れていた。宿を出たディミオスは市場を抜けて、港へとイサラを連れていく。
「よろしく頼む」
「船長のシグアスだ。何かあったら言ってくれ。どうした、船は怖いか?」
浮かない顔のイサラに、シグアスはたずねた。
「船は怖くないけれど……」
「こいつはマルゲリア島の出身だ。船なんて乗り慣れているさ」
ディミオスの言葉にも、イサラの表情は晴れない。口を開きかけては閉じてしまう。
「言いたいことがあったら言え」
ディミオスにうながされて、ようやくイサラは胸にあった懸念を口にする。
「出航……しない方がいいと思うの」
「なぜだ?」
シグアスは不思議そうにイサラを見る。ディミオスも同様だった。
「……嵐が来るから」
イサラの言葉にシグアスは笑った。海で生きる男らしい豪快な笑い方だ。その笑い方は決して嫌なものではなかった。
「おいおい、どこ見て言ってるんだ?」
「本当だってば!」
思わずイサラは声を荒らげる。なだめるようにディミオスがイサラの肩に手を置いた。
「シグアスは、何年も海で暮らしてるんだ。彼が嵐にならないと言うなら大丈夫だろ」
「わたしだって島育ちよ!」
苛立ちに足を踏み鳴らしたい衝動を抑え、イサラはディミオスを見上げた。正面から彼の茶色の瞳とぶつかり合うが、うまく言葉が出てきてくれない。イサラは説明できないもどかしさに焦る。
「この船を逃すと次は三日後だ。どうする?」
ディミオスの言葉に、イサラはうつむいて唇を噛んだ。
海竜の加護を受けているイサラは、この先の天候を予知することができるが、彼らは違う。海竜の血を引いているといっても伝説上のことだ。島で生きている人たち以外にはわかってもらえないだろう。
「どうする?」
ディミオスが再度問う。
「……わかった。乗るわ」
できることなら乗りたくないが、しかたない。祖父も心配しているだろうし、できるだけ早く島に帰りたい。長い間考えた後、この船に乗ることにイサラは同意した。
二人に与えられたのは、狭いながらも清潔な船室だった。
「なあ、イサラ」
今までとは違い、室内には両壁際に二つのベッドが置かれている。イサラが片方のベッドに腰かけると、ディミオスも反対側のベッドに腰を下ろし、左の膝に頬杖をつく。
「何で嵐が来ると思ったんだ?」
「……勘」
ぶすりとした表情を隠そうともせず、イサラは短く答えながらブーツを脱ぎ捨てる。そのまま彼に背中を向けて、ベッド脇の小窓から外の様子をうかがった。
「勘ってそれだけか?」
「それだけ、よ。今まで……島の人たちは信じてくれたもの」
島ではイサラの勘は重要視されていた。海に関することならば彼女が異様なまでの勘のよさを発揮するのを皆知っているからだ。島においては、それは海竜の血が濃く出た証とされる。
今日の天気はどうか、どこに行けば魚が多く獲れるか。
島の住民たちも海竜の血を引くと言われているから少なからず勘がきくのだが、イサラにたずねるのが一番速くて確実だ。
問われればイサラはわかる範囲のことを全て教えてやったし、帰ってきた漁師たちがお礼にと魚を分けてくれたりもした。
平和な生活の中で、イサラは皆に大切にされて育ってきた――両親のことがあったからなおさらかもしれない。
「ま、ここは島じゃないからな」
「あなたの言う通りだわ。信じてもらえなくてもしかたないと思う」
イサラはディミオスの言葉に逆らわなかった。信じてくれないことはわかっていた。
イサラはベッドの上に座り直すと、今脱いだばかりのブーツにもう一度足を入れた。
ディミオスに断って甲板に上がる。雲は多いが、雲の隙間から覗いている空は真っ青で、嵐の来る予兆は見受けられない。
「やっぱり気のせいじゃないか?」
イサラを追って上がってきたディミオスが空を見上げた。
「……気のせいなんかじゃないんだから」
そう言うのが精一杯で、イサラは唇を尖らせる。ディミオスは苦笑いしたようだった。
「お嬢さん、マルゲリア島の出身なんだって?」
イサラに話しかけてきたのは船長のシグアスだった。
ディミオスは肩をすくめてイサラから離れ、すぐ側の手すりにもたれつつ二人を眺める。
「ええ。だから海のことならちょっと詳しいの」
つんとしながらイサラはシグアスに答える。シグアスはイサラが強情を張っていると思ったらしく、面白がるかのように頬を緩めた。
「そうだな。俺たちも同じくらい詳しい」
その言葉にイサラはあえて何も返さない。
この船の船長はシグアスだ。それにイサラの勘が外れるかもしれない――それは希望的観測でしかないことはわかっていたのだけれど。
「そういや、マルゲリア島には海竜の宝があるんだってな」
いきなりシグアスが話題を変えたのでイサラはまごついた。
「どうしたの? 急に。偉い人が宝に興味を持っているって話も聞くし……ひょっとして本土の人たちは今まで知らなかったの? 海竜の宝の話」
トレーヴォといい、シグアスといい――本土の人たちは海竜の伝説について知らなかったのだろうか? イサラにとっては、幼い頃毎晩のように聞かされた物語なのに。
「いや、知ってたさ。子どものおとぎ話だがな」
シグアスはイサラから目を離して空を見上げる。空を占める雲の量は出航した時とほとんど変わっていないようだった。それを確認したらしい彼は話題を戻す。
「ただ、おとぎ話を信じているのが王様となれば話は別だろ?」
「王様?」
「そう。モルディア国王カリュプス陛下さ」
揶揄するような口ぶりでシグアスは言った。
「陛下は海竜の宝をお望みなんだと」
「……何で?」
イサラは驚いて目を丸くする。〝国王陛下〟などという人はイサラにとっては雲の上、いやそれ以上の存在だ。そんな偉い人が子どものおとぎ話を信じているなど驚きだった。
「あんた何も知らないんだな。今、モルディア国はあちこちの国と戦争中だろ? 王様は領土を広げたいのさ。そのために敵を打ち砕く力を持つという海竜の宝を欲している――わかりやすい話だろ?」
「そんな……」
確かにマルゲリア島には、海竜の宝があるという伝説が残されている。
その宝は海竜が妻と暮らした島を守るために使ったとされており、シグアスの言う通りかつては多くの敵を打ち砕いたというが、今は失われてどこにあるのかわからない。
イサラはその伝説を信じた男たちに拉致されて島を出ることになってしまったが、住民たちはその宝を探そうと思ったことさえなかったはずだ。島で平和に暮らしている者たちに、敵を打ち砕く力など必要ない。
「王のところへその宝を持っていけば、大金が手に入るだろうな。そんな噂が広まっているんだ。皆が血眼になって探すのもわかるだろ?」
イサラは黙りこんでしまった。
ひょっとすると今、島には財宝目当ての人たちがたくさん乗りこんでいたりするのだろうか。島の漁師以外で島に上陸できるのは相当熟練した船乗りだけだが、皆無というわけではない。
島が宝目当ての人間に荒らされるようなことになっていたら。
イサラの胸にのしかかる不安がまた一つ増えた。
「いつまでそんな子どもじみた話をしているんだよ」
手すりにもたれてこちらを見ていたディミオスが、二人の方へと近寄ってくる。
「まあいいじゃないか」
シグアスは笑いながらディミオスをとりなし、ようやくイサラを解放したのだった。
第二章
シグアスの表情が変化したのは、それから半日も経たないうちだった。
急に空が真っ暗になり、船乗りたちが嵐への備えを終えるか終えないかのうちに船は暴風と横殴りの雨に翻弄されていた。
「……本当に嵐になるとはな」
与えられた船室で、ディミオスは信じられないといった様子でベッドに腰かけている。
天候が崩れそうだからと部屋まで連れ戻されたイサラは、ベッドに膝をついて小窓から外の様子をうかがっている。最初に部屋に入った時にそうしたように、ブーツは床に脱ぎ捨てられていた。
「あんたの勘が当たったな」
ディミオスの言葉にもイサラは反応しなかった。
ディミオスに気づかれないよう、イサラは小さな窓に額を押しつけて意識を海に向けていた。
海の生き物たちも嵐を予期していたようで、イサラの声に応えるものは近くにいない。皆、安全な場所に避難しているのだろう。
「当たってほしくはなかったけれど」
意識をこちらへ戻して、イサラは深々とため息をついた。
「海竜の民、か」
不意にディミオスが冗談めかしてつぶやいた。
「マルゲリア島の住民たちが、海竜の血を引いているってのは、案外事実だったりしてな」
それは事実だと言っても、島の外の人たちには理解できないだろう。
イサラは本当に海竜の血を引いているのだ。そうでなかったら、こんな風に海と通じ合うことなどできないはず。けれどそれを彼に言うこともできなくて、イサラは「そうかもね」と言葉を濁した。
船が大きく揺れた。二人とも壁に叩きつけられないよう、とっさに窓枠に掴まる。
「ねえ……この船、大丈夫だと思う?」
「わからん。俺は船は専門外だからな――おおっと!」
また船が大きく揺れる。ベッドの上で滑りかけたディミオスは慌ててまた窓枠に掴まった。
「……一番近くの港まで持たないんじゃないの?」
そうつぶやいて、イサラはふらりと立ち上がった。ブーツを履かず、裸足のままぺたぺたと歩き出す。
「様子、見てくる」
「――おい、ちょっと待て!」
ディミオスがとめる間もなく、イサラは部屋を出ていた。
揺れる船内を危なげない足取りで歩き階段へと向かう。その後から、イサラよりはるかに危なっかしい足取りで彼が追いかけてきた。
甲板に出ると雨が叩きつけるように肌を打つ。あっという間に着ていたものがびしょ濡れになった。
「シグアスさん!」
扉の前に立ち、風に負けないような大声でイサラは叫んだ。
「こら、素人はひっこんでろ!」
船乗りたちに次々と指示を出していたシグアスが、甲板に出てきた無防備な二人に向かって声を張り上げた。
「この船、大丈夫なの?」
「何とかする! 俺たちだってまだ死にたくはないからな!」
シグアスの答えはイサラを満足させるものではなかった。風にあおられ、船乗りの一人が海へと転がり落ちそうになる。イサラは、手を伸ばしたシグアスが彼をしっかり捕まえて引き寄せるのを見つめていた。
この船は、そう長くは持たないだろう。男たちが懸命に船を繰る様子を見たイサラは確信する。
こんなところで死ぬわけにはいかない――いくら海竜の加護を受けているイサラでも、嵐の海を泳いで陸地にたどりつく自信はなかった。
それに自分だけ助かるわけにもいかない。この船には数十人もの船乗りがいる。ディミオスだって海に放り出されたら無事では済まないはずだ。
――祖父からは、人前で使わないように言われていた力だけど。
イサラは心を決めた。
「一番近い港はどっち?」
イサラは大きな声を上げてシグアスにたずねた。
「北西だ。それを聞いてどうする?」
北西――どれほどの距離があるのかはわからないが、何とかなるはず――いや、何とかしなければならない。
イサラはその場に膝をついた。
その他細々とした品を揃えて家に戻った時には昼近くになっていた。
市場で買ってきた屋台の品で簡単に昼食を済ませれば、もう出立の時間だ。エウロパがイサラを連れて買い出しに行っている間に、ディミオスも支度を終えていた。
肩に荷を背負い、腰に剣を吊ってディミオスはイサラを見る。
「――前払いしてもらおうか」
差し出された手に、イサラは素直に耳飾りを載せる。それはそのままエウロパの手に渡された。
「換金しておいてくれ」
「あんたが戻ってきてからにするよ。女の一人暮らしの家に大金があると知られたくないからね」
「誰もこんな家、気にしないだろうさ」
馬鹿な心配をするなと言いたげに鼻を鳴らしてディミオスは先に家を出た。続こうとするイサラにエウロパは忠告をくれる。
「いいかい、あんたはディミオスの言うことを聞いていれば間違いないから。どうせ島から出たことはないんだろ?」
「……はい。色々と……ありがとう、ございました」
他人と接するのを避けてきたイサラにしては、これだけ言えれば上出来だ。ぺこりと頭を下げてイサラはディミオスの後を追った。
彼は確かに旅慣れていた。
慣れないイサラが歩かないで済むようにと、荷車を引いている男に頼んで途中まで乗せてもらうという交渉までしてくれた。
見渡す限り麦畑が広がっている。一日もあれば回ることのできる島では考えられない光景だ。荷車の後ろに乗りこんだイサラは、きょろきょろとあたりを見回した。
「珍しいか?」
イサラの隣に座ったディミオスは、忙しく視線を走らせる彼女が面白くてしかたないらしい。
「こんなに畑ばかり続いている光景って見たことないから」
素直にイサラが返すと、彼はさらに表情を緩めた。
最初の夜は、イオニアから一番近い宿場町に宿をとった。宿についている食堂で簡単に夕食を済ませ、部屋に入る。
部屋に入ってイサラはまごついた。ベッドが一つしかない。
「……どこで寝るの?」
「ベッドはあんたが使え。俺は床で寝る――何かあった時すぐ動けないと困るから、横にはならない。気にするな。あんたは俺の雇い主だ」
「そうじゃなくて」
身内でもない異性と一つ部屋というのは抵抗がある。できれば別の部屋にしてほしい。
そう言うつもりだった。
けれど、途中で荷車に乗せてもらいほとんど歩いていないはずなのに、もう瞼が重くなっている。どこで寝るかなど言い争う気力もなかった。
仕方なく説得は諦め、ベッドに倒れこんだイサラは眠りに落ちる。
気がついた時には、夜が明けていた。起き上がって、ベッドの上で眠気を追い払おうと頭を振る。
扉の方に目をやると、ディミオスは床の上に胡坐をかき、腕を組んで扉を塞ぐように座っていた。剣は組んだ腕の中に抱え込まれている。
彼はまだ眠っているように見えた。イサラは様子をうかがうべく、そっとベッドから下りて彼に近づこうとする。
床に足がつくのと同時に、ごくわずかに床板がきしんだ。
眠っていたように見えたディミオスが剣を手に飛び上がる。次の瞬間にはいつでも剣を抜ける体勢になっていた。
「あっあの……お、おはよう……」
彼の雰囲気が違う。殺気、とでも言えばいいのだろうか。
何ともいえない威圧感に脚の力が抜けた。今立ち上がったばかりのベッドに腰を落としてしまう。
「あ――悪い。明日からは先に声をかけてくれ」
剣を床に横たえたディミオスは、床の上に座り直して苦笑した。そうすると、目つきが悪いことには変わりないものの、まとう空気がいくぶん柔らかなものへと変化する。
「声をかけてもらえれば敵じゃないとわかる」
「……今、寝ていたの?」
「寝てた」
「……でも」
床板がわずかにきしんだだけで、一瞬にして目を覚ますことなどできるのだろうか?
「いつ敵に襲われるかわからないからな。戦場じゃ常識だ」
イサラが落ち着きを取り戻したのを察したのか、立ち上がったディミオスは大きく伸びをして窓の方へと歩み寄り、大きく開いた。
「今日もいい天気になりそうだ――急いで支度をして出かけるか」
イサラは不審の目を彼へ向けた。こんなふうに警戒する人なんて、イサラが今まで知っていた人たちの中にはいなかった。
傭兵という彼の職にあって、それは当然なのかもしれないけれど、何か人に追われるようなことをしていたんじゃないだろうか。そんな彼が恐ろしく感じられて、また不安がつのる。
彼を信じていいのだろうか――でも、今は彼を信用するしかない。
ぐらぐら揺れる気持ちを落ち着けるようにきゅっと唇を結ぶと、イサラは彼が開いたままにしておいた窓を閉めて出立の支度に取りかかった。
ディミオスが頭を抱えたのは、歩き始めて三日目のことだった。
「まいったな」
「……どうしたの?」
宿の食堂で朝食の席に着いたイサラは首をかしげた。それまでディミオスと話していた男が、彼の肩をぽんぽんと叩いて離れていく。
「前からきな臭い話がなかったわけじゃないんだがな……この先で小競り合いが起きているらしい。今の男が教えてくれた」
「小競り合いって?」
イサラはまた首をかしげる。島では住民全員が顔見知りで、ほとんど全員が何らかの血縁関係にある。小競り合いという言葉は知っていても、具体的に想像するのは難しかった。
「ここはローラント公爵とサルディア伯爵の領地の境あたりなんだ。この二人、領地の境界線をめぐって何度となくやり合ってるんだよな」
「そうなの?」
「半年ぐらい前にもやり合ったばかりだ。確かにそろそろぶつかりそうだという話は聞いていたが、その前に通過できると思っていたんだがな」
ディミオスの説明によると、イサラを拾った夜、彼の家に集まっていた傭兵仲間たちからそういった話を聞いていたのだそうだ。そう言えば出発した朝、エウロパも同じことを言っていた。
彼はまだ大丈夫だろうと楽観視していたが、予想より早く両者が戦端を開いてしまったのだという。これから旅程を変更しなければならなくなったというわけだ。
ディミオスは嘆息して、硬めのパンを勢いよく食いちぎった。朝から食欲旺盛だ。
パンをちぎるのに苦戦していたイサラは、その様子を見て慌てて自分の食事に戻る。
「とにかく、あてが外れたってことだ。このまま進めば、傭兵たちがぶつかり合っているところに正面から突っこんでいくことになる」
「……それは困ったわ」
「……困ったな」
それほど困ってもいないような顔で彼は言う。どうするのかとイサラに問いかけられて、彼は朝食の皿をよけてそこに地図を広げた。
「今いるのがここだ」
半島の中央よりやや南に寄ったあたりをディミオスが指す。メラーナ、と書かれた場所のすぐ近くだった。
「小競り合いが起きそうなのはこの先だ――ここは避けてこっちの道を通って海辺に出ようと思う」
「ここは通れないの?」
イサラはディミオスが指したのとは違う箇所を指で押さえた。
「その道も悪くはないが、山越えになる。俺一人ならそっちでもいいんだが、あんたを連れているなら山越えは避けたい。何かあったら面倒だろ?」
そう言われてしまえばイサラは反論することができない。旅のことはディミオスに任せておいた方が正解だ。
「メラーナまで行ったらこの道を通って港町のチェトアに出る。そこからザールまで船で行くのが楽でいいだろう。金を払えば荷を運ぶ船の片隅に乗せてもらえるはずだ。あんたも船は大丈夫だろ?」
「……うん、大丈夫」
幼い頃から海には慣れている。船酔いなんてしたこともない。今まで乗ったことがあるのは漁師たちの小舟だけだが、たいした違いはないだろう。
「決まりだ。それならさっさと出かけようか。今日のうちにメラーナまで行ってしまいたい」
今日の旅程を決めると、ディミオスは地図を閉じた。
それから二日後。二人がチェトアに到着したのは夕方だった。ここは外国との交易がさかんな大きい商業都市だ。多彩な衣服に身を包んだ人たちが行き来している。
こうしてきょろきょろするのは、島を出てから何回目になるだろう。鮮やかな赤い上着に幅広のベルトを合わせた男が通ったかと思えば、頭から布をかぶって性別すらわからない人が市場を眺めたりしている。見慣れない装束の人々にイサラの目はまた丸くなった。
ディミオスと旅に出てから、珍しいものばかり見ているような気がする。島に帰ってからも、このことはきっと忘れないだろう。
二人は、海の近くの宿屋に部屋をとった。窓を開ければ海が見える。久しぶりの潮風にイサラは目を細めた。
「あんたはここで待っているといい。俺が船を探してくる」
窓の下は市場になっていた。
ディミオスからすればイサラを連れて歩くのは面倒くさかったのだろう。くれぐれも部屋から出ないようにときつく言い残して出かけていった。
ここに到着するまでの間、市場の人ごみの中をうまく歩くことができなくて彼に世話を焼かせてしまったから、イサラとしても残った方が気が楽だ。
宿の二階から見下ろした通りは人であふれている。
野菜や果物を山ほど買い込んでいる主婦たち。荷車に大きな荷を載せて引いている商人たち。ディミオスのように剣を吊った男たちは傭兵なのだろうか。
通りの喧騒は、イサラには馴染みのないものだった。眺めているだけで楽しい。一人で待っている時間も、少しも退屈ではなかった。
ディミオスが戻ってきたのは、夕食ぎりぎりの時間だった。
「船は見つかった?」
問いかけるイサラに「ああ」と彼は返す。
「知り合いの船長に会った。目的地は違うんだが、ザールを経由するそうだからそこで降ろしてもらえる」
まったく知らない相手の船よりはいいだろうということで、彼はその船に決めてきたのだそうだ。
「明日早朝出航だそうだ。ザールまでは三日程度かかるらしい。歩いていくよりは速そうだな」
扉の前にディミオスが眠り、ベッドはイサラが占領するという状態にも慣れた。
夕食を終えるとさっさと寝支度を終えてベッドに潜り込む。
この先に何が待ち受けているのか考えもしないままに。
旅の間、晴天に恵まれ続けていたのは運がよかった。旅慣れないイサラは雨が降ったらすぐに体調を崩してしまっただろう。
出航の日も、今までと同じようによく晴れていた。宿を出たディミオスは市場を抜けて、港へとイサラを連れていく。
「よろしく頼む」
「船長のシグアスだ。何かあったら言ってくれ。どうした、船は怖いか?」
浮かない顔のイサラに、シグアスはたずねた。
「船は怖くないけれど……」
「こいつはマルゲリア島の出身だ。船なんて乗り慣れているさ」
ディミオスの言葉にも、イサラの表情は晴れない。口を開きかけては閉じてしまう。
「言いたいことがあったら言え」
ディミオスにうながされて、ようやくイサラは胸にあった懸念を口にする。
「出航……しない方がいいと思うの」
「なぜだ?」
シグアスは不思議そうにイサラを見る。ディミオスも同様だった。
「……嵐が来るから」
イサラの言葉にシグアスは笑った。海で生きる男らしい豪快な笑い方だ。その笑い方は決して嫌なものではなかった。
「おいおい、どこ見て言ってるんだ?」
「本当だってば!」
思わずイサラは声を荒らげる。なだめるようにディミオスがイサラの肩に手を置いた。
「シグアスは、何年も海で暮らしてるんだ。彼が嵐にならないと言うなら大丈夫だろ」
「わたしだって島育ちよ!」
苛立ちに足を踏み鳴らしたい衝動を抑え、イサラはディミオスを見上げた。正面から彼の茶色の瞳とぶつかり合うが、うまく言葉が出てきてくれない。イサラは説明できないもどかしさに焦る。
「この船を逃すと次は三日後だ。どうする?」
ディミオスの言葉に、イサラはうつむいて唇を噛んだ。
海竜の加護を受けているイサラは、この先の天候を予知することができるが、彼らは違う。海竜の血を引いているといっても伝説上のことだ。島で生きている人たち以外にはわかってもらえないだろう。
「どうする?」
ディミオスが再度問う。
「……わかった。乗るわ」
できることなら乗りたくないが、しかたない。祖父も心配しているだろうし、できるだけ早く島に帰りたい。長い間考えた後、この船に乗ることにイサラは同意した。
二人に与えられたのは、狭いながらも清潔な船室だった。
「なあ、イサラ」
今までとは違い、室内には両壁際に二つのベッドが置かれている。イサラが片方のベッドに腰かけると、ディミオスも反対側のベッドに腰を下ろし、左の膝に頬杖をつく。
「何で嵐が来ると思ったんだ?」
「……勘」
ぶすりとした表情を隠そうともせず、イサラは短く答えながらブーツを脱ぎ捨てる。そのまま彼に背中を向けて、ベッド脇の小窓から外の様子をうかがった。
「勘ってそれだけか?」
「それだけ、よ。今まで……島の人たちは信じてくれたもの」
島ではイサラの勘は重要視されていた。海に関することならば彼女が異様なまでの勘のよさを発揮するのを皆知っているからだ。島においては、それは海竜の血が濃く出た証とされる。
今日の天気はどうか、どこに行けば魚が多く獲れるか。
島の住民たちも海竜の血を引くと言われているから少なからず勘がきくのだが、イサラにたずねるのが一番速くて確実だ。
問われればイサラはわかる範囲のことを全て教えてやったし、帰ってきた漁師たちがお礼にと魚を分けてくれたりもした。
平和な生活の中で、イサラは皆に大切にされて育ってきた――両親のことがあったからなおさらかもしれない。
「ま、ここは島じゃないからな」
「あなたの言う通りだわ。信じてもらえなくてもしかたないと思う」
イサラはディミオスの言葉に逆らわなかった。信じてくれないことはわかっていた。
イサラはベッドの上に座り直すと、今脱いだばかりのブーツにもう一度足を入れた。
ディミオスに断って甲板に上がる。雲は多いが、雲の隙間から覗いている空は真っ青で、嵐の来る予兆は見受けられない。
「やっぱり気のせいじゃないか?」
イサラを追って上がってきたディミオスが空を見上げた。
「……気のせいなんかじゃないんだから」
そう言うのが精一杯で、イサラは唇を尖らせる。ディミオスは苦笑いしたようだった。
「お嬢さん、マルゲリア島の出身なんだって?」
イサラに話しかけてきたのは船長のシグアスだった。
ディミオスは肩をすくめてイサラから離れ、すぐ側の手すりにもたれつつ二人を眺める。
「ええ。だから海のことならちょっと詳しいの」
つんとしながらイサラはシグアスに答える。シグアスはイサラが強情を張っていると思ったらしく、面白がるかのように頬を緩めた。
「そうだな。俺たちも同じくらい詳しい」
その言葉にイサラはあえて何も返さない。
この船の船長はシグアスだ。それにイサラの勘が外れるかもしれない――それは希望的観測でしかないことはわかっていたのだけれど。
「そういや、マルゲリア島には海竜の宝があるんだってな」
いきなりシグアスが話題を変えたのでイサラはまごついた。
「どうしたの? 急に。偉い人が宝に興味を持っているって話も聞くし……ひょっとして本土の人たちは今まで知らなかったの? 海竜の宝の話」
トレーヴォといい、シグアスといい――本土の人たちは海竜の伝説について知らなかったのだろうか? イサラにとっては、幼い頃毎晩のように聞かされた物語なのに。
「いや、知ってたさ。子どものおとぎ話だがな」
シグアスはイサラから目を離して空を見上げる。空を占める雲の量は出航した時とほとんど変わっていないようだった。それを確認したらしい彼は話題を戻す。
「ただ、おとぎ話を信じているのが王様となれば話は別だろ?」
「王様?」
「そう。モルディア国王カリュプス陛下さ」
揶揄するような口ぶりでシグアスは言った。
「陛下は海竜の宝をお望みなんだと」
「……何で?」
イサラは驚いて目を丸くする。〝国王陛下〟などという人はイサラにとっては雲の上、いやそれ以上の存在だ。そんな偉い人が子どものおとぎ話を信じているなど驚きだった。
「あんた何も知らないんだな。今、モルディア国はあちこちの国と戦争中だろ? 王様は領土を広げたいのさ。そのために敵を打ち砕く力を持つという海竜の宝を欲している――わかりやすい話だろ?」
「そんな……」
確かにマルゲリア島には、海竜の宝があるという伝説が残されている。
その宝は海竜が妻と暮らした島を守るために使ったとされており、シグアスの言う通りかつては多くの敵を打ち砕いたというが、今は失われてどこにあるのかわからない。
イサラはその伝説を信じた男たちに拉致されて島を出ることになってしまったが、住民たちはその宝を探そうと思ったことさえなかったはずだ。島で平和に暮らしている者たちに、敵を打ち砕く力など必要ない。
「王のところへその宝を持っていけば、大金が手に入るだろうな。そんな噂が広まっているんだ。皆が血眼になって探すのもわかるだろ?」
イサラは黙りこんでしまった。
ひょっとすると今、島には財宝目当ての人たちがたくさん乗りこんでいたりするのだろうか。島の漁師以外で島に上陸できるのは相当熟練した船乗りだけだが、皆無というわけではない。
島が宝目当ての人間に荒らされるようなことになっていたら。
イサラの胸にのしかかる不安がまた一つ増えた。
「いつまでそんな子どもじみた話をしているんだよ」
手すりにもたれてこちらを見ていたディミオスが、二人の方へと近寄ってくる。
「まあいいじゃないか」
シグアスは笑いながらディミオスをとりなし、ようやくイサラを解放したのだった。
第二章
シグアスの表情が変化したのは、それから半日も経たないうちだった。
急に空が真っ暗になり、船乗りたちが嵐への備えを終えるか終えないかのうちに船は暴風と横殴りの雨に翻弄されていた。
「……本当に嵐になるとはな」
与えられた船室で、ディミオスは信じられないといった様子でベッドに腰かけている。
天候が崩れそうだからと部屋まで連れ戻されたイサラは、ベッドに膝をついて小窓から外の様子をうかがっている。最初に部屋に入った時にそうしたように、ブーツは床に脱ぎ捨てられていた。
「あんたの勘が当たったな」
ディミオスの言葉にもイサラは反応しなかった。
ディミオスに気づかれないよう、イサラは小さな窓に額を押しつけて意識を海に向けていた。
海の生き物たちも嵐を予期していたようで、イサラの声に応えるものは近くにいない。皆、安全な場所に避難しているのだろう。
「当たってほしくはなかったけれど」
意識をこちらへ戻して、イサラは深々とため息をついた。
「海竜の民、か」
不意にディミオスが冗談めかしてつぶやいた。
「マルゲリア島の住民たちが、海竜の血を引いているってのは、案外事実だったりしてな」
それは事実だと言っても、島の外の人たちには理解できないだろう。
イサラは本当に海竜の血を引いているのだ。そうでなかったら、こんな風に海と通じ合うことなどできないはず。けれどそれを彼に言うこともできなくて、イサラは「そうかもね」と言葉を濁した。
船が大きく揺れた。二人とも壁に叩きつけられないよう、とっさに窓枠に掴まる。
「ねえ……この船、大丈夫だと思う?」
「わからん。俺は船は専門外だからな――おおっと!」
また船が大きく揺れる。ベッドの上で滑りかけたディミオスは慌ててまた窓枠に掴まった。
「……一番近くの港まで持たないんじゃないの?」
そうつぶやいて、イサラはふらりと立ち上がった。ブーツを履かず、裸足のままぺたぺたと歩き出す。
「様子、見てくる」
「――おい、ちょっと待て!」
ディミオスがとめる間もなく、イサラは部屋を出ていた。
揺れる船内を危なげない足取りで歩き階段へと向かう。その後から、イサラよりはるかに危なっかしい足取りで彼が追いかけてきた。
甲板に出ると雨が叩きつけるように肌を打つ。あっという間に着ていたものがびしょ濡れになった。
「シグアスさん!」
扉の前に立ち、風に負けないような大声でイサラは叫んだ。
「こら、素人はひっこんでろ!」
船乗りたちに次々と指示を出していたシグアスが、甲板に出てきた無防備な二人に向かって声を張り上げた。
「この船、大丈夫なの?」
「何とかする! 俺たちだってまだ死にたくはないからな!」
シグアスの答えはイサラを満足させるものではなかった。風にあおられ、船乗りの一人が海へと転がり落ちそうになる。イサラは、手を伸ばしたシグアスが彼をしっかり捕まえて引き寄せるのを見つめていた。
この船は、そう長くは持たないだろう。男たちが懸命に船を繰る様子を見たイサラは確信する。
こんなところで死ぬわけにはいかない――いくら海竜の加護を受けているイサラでも、嵐の海を泳いで陸地にたどりつく自信はなかった。
それに自分だけ助かるわけにもいかない。この船には数十人もの船乗りがいる。ディミオスだって海に放り出されたら無事では済まないはずだ。
――祖父からは、人前で使わないように言われていた力だけど。
イサラは心を決めた。
「一番近い港はどっち?」
イサラは大きな声を上げてシグアスにたずねた。
「北西だ。それを聞いてどうする?」
北西――どれほどの距離があるのかはわからないが、何とかなるはず――いや、何とかしなければならない。
イサラはその場に膝をついた。
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