日本列島壊滅の日

安藤 菊次郎

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第十一章

落ちた偶像

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       (一) 
 石井が五十嵐のアパートを訪ねたのは捜査本部で証言した翌々日のことである。五十嵐の仕事が忙しすぎたのだ。午後10時を過ぎていた。アパートのチャイムを押すと、ドアが中から開かれ、彼女は周りも気にせず飛びついてきた。石井は軽々とその体を抱き上げそのままベッドまで運び倒れ込んだ。
  二人は失った時を取り戻そうとするかのように濃厚なキスで互いを求めた。二人は時のたつのも忘れた。何時の間に時が過ぎ、石井がその体を離した時、五十嵐は朦朧とした意識のなか、心の内で呟いた。
 「不思議な偶然がこの現実を運んでくれた。偶然って、本当に単なる偶然?」
  もし彼女がこの問いを石井に発したなら、石井はこう答えたであろう。「偶然なんてこの世にあるわけはない。全ては必然なんだ。偶然は、人間に神を感得させるための、神の配剤なんだ」と。彼女がこの言葉を石井から聞くのはずっと後のことである。
 石井が目覚めて時計を見ると8時15分を少しまわっていた。彼女が出勤するおり、一度起こされたのだが、また寝入ってしまった。昨夜は夜が更けるまで話しあった。そしてもう離れないと誓いあった。恐らくこのままゴールまで突き進むだろう。
 昨日の幸福な余韻にひたっていた石井は、ふと現実に引き戻された。寝過ごしてしまったという現実である。事務所まで急いだところで遅刻は免れない。佐々木の嫌味は何とかやり過すとして、客が来るという9時半までには出勤しなければならない。
 急いで着替え終えた時、携帯のベルが鳴った。
 「もしもし、石井ですが。」
 「・・・・・」
 相手は押し黙ったままだ。
 「もーし、もーし。」
 暫くして囁くような声が聞こえた。
 「もしもし、わたし、保科香子。」
 石井は驚いて思わず携帯を取り落としそうになった。
 「保科さん、今何処?」
 「貴方と初めて会った場所で、コーヒーを飲んでいるわ。約束の日より随分前だけど、貴方との約束を守ろうと思って。今日、大丈夫?」
 「ああ、勿論大丈夫だ。すぐ行く。」
  事務所に電話をいれると佐々木は既に出勤していた。
 「どうしたの、今日はお客さんが来るって言っていたでしょう、ええと、苗字は確か相沢さん。とにかく9時半までには来てもらわないと。」
 「それが、急用が出来た。どうしても行けそうにない。」
 「そんなの困るわ。龍二さんは出張だし、あとはアルバイトばっかりよ。どうするつもりなのよ。」
 「山口は来てる?」
 「えっ、ええ…、ちょうど今来たところ。」
 「山口を上の叔母さんのところに連れてって、龍二さんの背広を着せるんだ。奴は見た目がオジンだから、とても大学生には見えない。何とかなる。俺の名刺を持たせて、俺になりきって相沢さんに会ってもらおう。」
 「でも上半身はぴったりだと思うけど、脚がちょっとねー…、短すぎるわねー。」
 山口を上から下まで仔細にチェックする佐々木の顔が浮かんだ。受話器の向こうで山口の抗議する声が聞こえる。
 「そんなものは、ズボンの裾を糸でちょこっと止めれば大丈夫だ。何とか間にあわせてくれ。」
そう言って携帯を切ると、アパートを飛び出した。

     (二)
  考え事をしているうちにコーヒーはすっかり冷めていた。保科香子は苦いコーヒーをすすり、再び物思いにふけった。何故なのか、何故教祖はあんなに動揺していたのか、保科にはそれが不思議でならなかった。常に自信と威厳に満ち溢れたあの教祖と同じ人とは思えなかったのだ。
 教祖の声が裏返った。唾を飲み込む時「ウエ」という音声を発した。ましてその日、教祖は最上階に篭り、大災害の被害を少しでも和らげるために祈りを捧げているはずなのに、東京からの電話だった。
 教祖の予言では10月25日から12月25日までが大災害の起こる期間としており、その日は危険な時期に入って三日目だった。
  保科は頭の中で、教祖の言葉を何度も反芻していた。
 「新たなイメージが波のように押し寄せて来る。新たな局面が現れたに違いない。そのイメージに圧倒されて目が眩むようだ。それがまだ完全に映像として見えてこない。これまでのように君が側にいてくれればきっとはっきりと見えてくるはずだ。とにかく直にでも東京に来てくれ。」
 「でも、何度も言うように母が一昨晩亡くなったの。その母の亡骸を置いて出てゆくわけにはいかないわ。荼毘にふしてあげたいの。今日役所に行って手続きをして来る。」
 「分かった、とにかく早急に東京に帰ってくるんだ。」
 「奥さんも呼んだの?」
あのビルには教祖の妻も移り住んでいた。一瞬教祖は口ごもった。そして答えた。
 「いや、君だけだ。乗る飛行機はこっちで手配する。帰れる日を連絡してくれ。」
 詳しく聞かれるのを避けるように教祖は電話を切った。
  幸い二日後には母を荼毘にふすことができた。しかし、人々の思いもかけない反応に途惑った。母はあの強固なビルが完成して直ぐに入った。末期癌とはいえ普通に生活していた。だから多くの友人に囲まれ楽しそうに過ごしていたのだ。
  それが、ビルの住人の中で、一人として火葬場まで付き添い見送ろうという者はいなかった。保科は母の骨を一人で拾うしかなかったのだ。すでに危険時期に入り、誰もがビルから出ることに恐怖を抱いていた。あの最新の耐震設計のビルにいるかぎり安全だと聞かされていたからだ。
  しかし、それではあまりに母が可哀想な気がした。あのビルに来て初めて親友に出会ったと嬉しそうに話していた母の笑顔が浮かんだ。その大親友でさえビルから一歩も出ようとしなかったのだ。
  保科は冷えて苦いだけのコーヒーを一気に飲んだ。ふつふつと怒りが込み上げてくる。誰に対する怒りというのではない。その怒りは自分に向けられていた。何故自分はあんな人々と関わってしまったのか。自分のことばかり考えている人々。そして何故自分はあんな男を好きになってしまったのかということである。
  しかし、その答えは最初から分かっていた。それを引き寄せたのは己自身だと言うことを。最初の結婚も男の持つ資産に惹かれた。しかし、母一人子一人の恋人のような二人に入り込む隙はなかった。そしてこのたびは教祖の能力に惹きつけられたしまったのだ。
  まして殺人まで犯してしまった。その原因を作ったのは教祖の息子だ。殺人の嫌疑をかけられるほどの不良息子なのだ。教祖はその息子を警察の目から逃れさせるため、息子の事故死を偽装した。そして息子を何処かに隠したのだ。
あの脂ぎった顔が浮かぶ。議員秘書の浦辺一郎だ。
 「坂口さくら君が私を頼ってきてね。彼女が言うには、満君は生きているらしいじゃないか。これってどういうことかね。」
 「えっ、私、知りません。」
 慌てて受話器を押さえて振り返った。ベッドで煙草をくゆらす教祖が怪訝な顔で見詰める。浦辺が言ったことを小声で伝えると、驚愕の色を浮かべ、
 「俺はここにはいないことにするんだ。まず奴の話を聞け。」と言う。受話器にむかった。
 「どういうことでしょう。」
 「だから、満君は生きている。ついこの間まで坂口さくらは満君と一緒に生活していた。彼女は満君がいる秘密の場所から逃げ出してきた。つまり、ヨットの遭難事故は偽装工作だってことだ。」
 「待って下さい。そんなこと私には関係ありません。そういう話なら教祖に直接お話して頂けませんか。」
 怒鳴り声が響いた。
 「教祖に話す前にアンタに会って話がしたいって言っているんだ。教祖が困るということはアンタも困るということだ。そうじゃないのか。」
 受話器に耳を寄せ、話を聞いていた教祖が、保科に向き直って大きく口を開閉させた。最初は分からなかったが、「会え」と言っているのだ。しかたなく会う約束をした。電話を切ると、教祖が言った。
 「奴の狙いは君の体だ。会うだけ会って話を聞いてくれ。何も寝ろとは言ってない。まずは会って話を聞くんだ。恐らく金の話も出るだろう。」
 「でも、ホテルに連れ込まれたらどうしたらいいの。話を聞くだけでは済まないわ。」
 「大丈夫だ。あんな男に、指一本だって君の体に触れさせるものか。私に考えがある。ただ・・・」
 「ただ、何なの?」
  約束の日、教祖は睡眠薬を用意していた。そして、眠らせたうえで浦辺の物を勃起させろと言う。卑猥な行為に耽る姿を写真に納めろと指示したのだ。浦辺の脅迫に対抗するためだと言ったが、薬を飲んだ浦辺は意識を失い、いくら勃起させようともがいてもそれがそそりたつことはなかった。そして死んでいることに気付いたのだ。
  本当に教祖は薬の量を間違えたのだろうか。もしかしたら最初から殺す気でいたのでは?つと、涙が頬を伝う。それを拭うと、後はとめどなく、嗚咽を堪えきれなかった。己が哀れであった。場末のホテルの一室で死体のものを口に含む自分の姿が哀れだった。
  石井に会おうと決心したのは正しい選択だと思う。石井の言うように自首するのが一番だ。また一から出直すことにしよう。そう思うことによって漸く自分を許す気になれた。石井にホテルから出てくる姿を見られた。その偶然が新たな道を用意してくれたのだ。
  ふと見上げると、かつての憧れの君がラウンジを歩いて近づいてくる。何の屈託もないその笑顔は、自分の門出を祝ってくれているように思え、思わず微笑んだ。
 「どうした、随分と急じゃないか。」
 立ち上がり、微笑みながら石井を迎えた。ウエイトレスがオーダーを聞き終えて去ると、口を開いた。
 「ごめんなさい、前もって電話すればよかったかしら。」
 「別に、今日でも一週間前でも同じことさ。僕にとって急なことには違いない。お母さんの具合はどうなの。」
 「10日前に亡くなったの。」
 「そう、それは、どうも、どうも。本当にご愁傷さまです。」
 「少しも苦しまずに眠るように逝ったわ。私も母にあやかりたい。でも、ようやく貴方との約束を果たせるとおもうと気が楽になった。人一人殺しているのですもの。」
 「もしよければ事情を詳しく話してくれないか。」
 「ええ、いいわ。今はもう何も隠すこともないもの。」
  保科は全てを語った。悟道会教祖と知り合った経緯から、殺人に至るまで。恐ろしい予言についても語り、初めて石井に会った時、石井と二度と会うことはないと思っていたことも。語り終えて、照れくさそうに笑った。
 「馬鹿な夢、そう馬鹿な夢を見ていたの。たとえ大災害で死んだとしても、それはそれで仕方がない。でも、こうしてまた会えて良かった。会えなければ・・・私・・・きっと地獄に落ちたかもしれない。」
 「地獄なんてあるものか。」
 「いいえ、あるわ、私にはわかるの。あの世にも、この世にも、地獄はあるの。それってすごく似ているんだと思う。」
 石井は、きっぱりと言う保科の目をじっと見詰めた。その確信に揺るぎはなかった。視線を外し、保科が言った。
 「さあ、これでお別れしましょう。この後、千葉の捜査本部へ向かうわ。さあ、握手。」
 保科の笑顔には何の屈託もなかった。もじもじしている石井に向かって保科が少女のようにはしゃいだ声で言った。
 「何だか、いい年して照れちゃうわね。」
 石井は沈んだ声で答えた。
 「ああ、ちょっとね。」
 保科の不幸な巡りあわせが心を重くしていた。それでも笑顔を作って手を握った。掌は柔らかかった。強く握った。保科はそれに応えた。すっと立ち上がり、背中を向けて歩き出す保科を、石井は見送った。
 憧れの東京女が霞の中から現れ、そして靄に消えていった17年前を思い出していた。胸のポケットに忍ばせたラブレターを渡す機会を何度も窺った。しかし最後まで一歩前に踏み出すことができなかった。ほろ苦い思いが胸にいっぱいに広がった。

  ホテルを出ると、石井は五十嵐に電話を入れた。
 「僕だ。今何処にいる。」
 「悟道会のビルよ。今朝早く、捜査令状がおりたわ。家宅捜索の真っ最中よ。」
 「教祖の杉田啓次郎は殺人の疑いも出てきた。杉田の愛人がそう証言した。」
 「それってどういうこと。」
 「国会議員の安東代議士の秘書が殺された事件は知っているだろう。」
 「ええ。安東代議士は杉田啓次郎の資金援助で議員になったわ。」
 「杉田の愛人が、その秘書に睡眠薬を飲ませた。その睡眠薬は杉田から渡されたそうだ。そして秘書はそれを飲んだ後、あの世に旅立った。」
 「いったいどういうことなの。どんな事情でそうなったの。」
 石井はその経緯を詳細に語った。勿論杉田の愛人が石井の初恋の人だというのは伏せた。聞き終えると五十嵐が言った。
 「その杉田の愛人は、こっちでもそう証言してくれるのかしら。」
 「その愛人は今、千葉県警の代議士秘書殺人事件の捜査本部に向かった。彼女の証言は千葉県警から貰えるはずだ。ところで、今日もアパートに行く。」
 「ええ、待ってる。でも、遅くなると思う。電話する。」
  石井はホテルの玄関でタクシーを拾って四谷に向かった。今日来ることになっていたお客、相沢のことが気になったからだ。どうも相沢が石井を名指してきたのが気にくわない。煙草を吸おうとポケットに手を入れた。
  固い手触りがあった。それを掴み目の前にかざした。盗聴器だ。あっと思い当たった。ホテルのラウンジに入る直前、若い男とぶつかった。あの時、盗聴器が石井のポケットに落とされたのだ。石井が叫んだ。
 「おい、運ちゃん、新宿に戻ってくれ。」
センチュリーハイアットを通り過ぎ、タクシーは新宿駅に向かった。最初の十字路に人だかりがしている。最悪の事態がそこにあった。タクシーを降り、ゆっくりと人だかりに向かって歩いた。人々の足元の先に赤黒い血溜まりが見えた、石井の頬に涙が伝わった。
  保科の額には銃弾の丸い穴が穿たれ、その艶やかだった髪は、植物が根を張るように血の海に広がっていた。石井は自分の不甲斐なさを呪った。自分が見張られていたことを今始めて思い知らされたのである。石井のポケットに落とされた盗聴器によって保科の証言は杉田に筒抜けだったのだ。
  杉田は愛人の裏切りを許せなかった。だから殺した。この推測に間違いはない。自分の気の緩みが、保科を死なせることになったのだ。石井は、保科の遺骸に向かって手を合わせた。そして語りかけた。
 「また何処かで会おう。今生では縁はなかったけど、また会えるはずだ。さようなら。」
  石井はその人だかりに背を向け、涙を拭い歩き出した。拭っても拭っても涙が溢れた。しかし、石井は確信していた。死による別れは悲しいものだが、いつか再びめぐり合えることを。

     (三)
 【保科は、この世にもあの世にも地獄があると語った。実は石井も同じ真理を確信していたのだ。同じ真理に到達した二人が、人生と言う旅路のほんの一時会いまみえた。不思議な縁としか言いようがない。この世でも愛の欠落した人々が相集えば、その空間は地獄の様相をおびるであろう。あの世の地獄も同じようなものだ。
  石井の霊界のイメージはスエデンボルグの著作の影響で形作られた。彼はこの世と隣り合わせでもあり、しかし人間世界とは明らかに次元を異にするあの世の様子を微にいり細にいり語っている。
  彼が言うには、霊界は「天界」、「地獄界」、「霊たちの世界」という三つの領域から成る。すべての人々は死後、「霊たちの世界」に入り、その人の帯びた愛の度合いに応じて「天界」へ或いは「地獄界」へと進んでゆくと言う。従って輪廻転生は否定されている。
  スエデンボルグの語る地獄には奇妙にも刑罰的な色彩はない。悪人は自ら好んで地獄界に入る。自らの穢れが地獄界の腐った臭気を求めさせるのだ。天界には天界の、地獄界には地獄界の波長があり、霊達はそれぞれの波長に引き寄せられるのである。
  この世の人間は天界とも繋がっているが、同時に地獄界とも繋がっている。時として沸き起こる崇高な思いと悪魔的な思い。こうした迷いは誰もが体験していると思うが、人間は常に、隣り合わせに存在する霊界の霊達の思いに晒されているのである。
  しかし、人間には自由意志があり、両者を選択する能力を有するとスエデンボルグは言う。】
  保科香子はこの世の地獄から抜け出してきた。恐怖は人間の心を凍てつかせる。恐怖の呪縛から逃れるのは至難の業だ。しかし、何が彼女をそうさせたのかは分からないが、彼女は悪霊たちの誘惑に打ち勝ったのだ。
  石井はそのことを思って涙を拭い、良かったと心の底から思う。何故なら、再びあの世で会えるからだ。霊界では類似は結合し、異種は分離すると言う。彼女は教祖の力を目の当たりにしてきた。恐怖の度合いは石井の比ではなかったはずだ。石井は彼女の勇気を心から祝福し、そして、少しだけそれを貰ったような気がした。
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