日本列島壊滅の日

安藤 菊次郎

文字の大きさ
上 下
17 / 17
第十七章

恍惚の閃き

しおりを挟む
    
  石井は恍惚の中にいた。その恍惚は・・あれに近いと思った。と言うことは、死に近づいているということか?かつて石井はナイフで刺されて死にそうになったことがある。心臓の鼓動とともに肩から血が噴出していた。その時、石井は朦朧とした意識の中で強烈な恍惚感を味わっていたのだ。
  医者に言わせると、それは脳内麻薬物質が大量に放出されるために起こる現象ということになる。しかし、石井はあの微妙な感覚は単にそれだけのものではないと確信していた。その微妙な感覚とは、がんじがらめに縛られた物質から、つまり自らの肉体から徐々に開放されてゆくという感覚なのだ。
  この悦楽は肉体のあらゆる快楽とは異なる。しかし、ある時、・・あれに似ていると思った瞬間がある。それは一日ゲレンデで滑って、あのきつく締め付けていたスキー靴を脱いだ瞬間だ。足全体に感じた開放感がその悦楽にほんの僅かに似ていると言えないこともない。
  その微妙な開放感を千倍にも、万倍にも増幅させた感覚なのだ。肉体とその周辺の境が次第に希薄になって、体が溶け出すような感覚。肉体と言う重い鎧を脱ぐことによる開放感をも含んで、空と一体化するような感じがした。
  そして思った。神は優しいと。たとえそれが脳内麻薬物質によって引き起こされた現象であったとしても、死を迎える人間に苦痛を和らげる仕組みを作っている。そのことが神は優しいという、その証左としか思えなかったのである。
  視界に影が走る。石井の視線は一瞬、声は聞こえないものの、けたたましく高笑する満の顔を捉えた。落下してゆく満の顔には恐怖の色はない。何が可笑しいのか小さく遠ざかる顔はまだ笑っていた。
  ふと気配を感じて見上げた。髪を振り乱した男と視線が合う。目は血走り頬が風圧を受けて小刻みに震えている。何かを言ったがその声は聞こえない。誰なのか思い出そうとするが朦朧とした脳髄は何の反応も返してはこない。
  男は消えたかと思ったらすぐ姿を現し、憎々しげに睨みすえ、腰を落とすと脚でパイプにつかまる石井の拳を蹴り始めた。痺れかけた手には痛みは感じないものの、パイプを掴んだ指が徐々に力を失ってゆく。ずるずるパイプから指が滑る。
  渾身の力を込めて握ろうとするのだが、指先が震えるだけだ。一瞬、走馬燈のようにこれまで歩んできた人生の断片が浮かんでは消えた。これがあれか!と思った瞬間、手が完全にパイプから離れた。体が完全に宙に浮いた。
  腹にどすんという衝撃を受け我に返った。まだ体はヘリコプターから放たれてはいない。少し前、手元があやしくなってきたので、ベルトをパイプに通していたのだ。体はそのベルトによってヘリコプターと繋がっていた。
  男は舌打ちして、腰を浮かせてパイプに脚を掛けた。両足を器用に操り、ベルトをはずそうと試みている。しかし、石井の全体重を支えるベルトはそう易々とはずれるものではない。男は意を決してパイプに降り立った。朦朧とした意識の中、石井は覚悟を決めた。

  その少し前…。
 杉田は、満をキャビンから突き落とした。すぐさま後方のドアを開けると落下してゆく満に向かって叫んだ。
 「ざま見ろ、ざま見ろ、地獄に落ちろ。はあ、はあ、はあ・・・ん、何だ?誰だ貴様は。」
 杉田が振り返り片桐に言った。
 「片桐、銃を貸せ。もう一匹地獄に叩き落してやる。石井だ。香子をたぶらかした奴だ。殺してやる。おい、銃をよこせ。」
 片桐が答えた。
 「お前の命令は聞かん。それに重雄を撃ったのが最後の弾だ。そんなに殺りたければ蹴落とせばいいだろう。その自慢の長い脚でよ。」
 二人は睨みあった。教祖は力なく笑い、背中を向けしゃがみこんだ。片桐が五十嵐に声を掛けた。
 「おい、お嬢さん、恋人が下にいる。」
 五十嵐は驚いて片桐を見た。片桐がにやりと笑う。意味が分からない。首を左右に振って意味を問う。片桐が顎をしゃくった。五十嵐は片桐が示した方を見た。教祖が手すりにつかまり、片足で何かを蹴っている。片桐が言った。
 「教祖を蹴落とせ。恋人が危ない。」
はっとして教祖の後姿を見詰めた。教祖は下にいる石井を蹴落とそうとしている。思わずかっと血が騒いだ。教祖は両側にある手すりにつかまって、右足で石井を蹴っている。しばらくして、下に降り立った。五十嵐は咄嗟に手すりを握る教祖の右手を蹴った。教祖の右手がはずれ体が前に傾いた。
  すかさず思い切り左手を蹴った。その手が手すりから滑った。くるりと体をこちら側にむけた。一瞬途方にくれるような表情を浮かべ、ついで恐怖に顔を引き攣らせた。ゆっくりと落ちて行く。五十嵐は呆然と立ち尽くしていた。
 「おい、ロープを切ってやる。こっちに腕を向けろ。」
 後ろで片桐の声が聞こえた。

  石井は飛行するヘリと一心同体になっていた。パイプと平行に吊られている状態で飛んでいるような感覚を楽しんでいた。空気が薄く、さらに冷気が体の体温を奪い、意識は朦朧としていた。しかし体全体は恍惚に包まれていた。
  このまま死を迎えてもよいと思った。口を大きく開けると強烈な風圧が唇をぶるぶると震わせ体の中を空が通り抜ける。地平線は丸みを帯びその周辺は雲に覆われその輪郭は定かではない。
  左に島影が見える。伊豆七島だろうか。右には雲のまにまに富士の頂が顔をのぞかせている。ふと、石井の視線は眼下の雲をとらえた。雲が踊るように波打ったからだ。雲の波は渦を巻きそして一瞬にして消えた。その直後、同じ位置に再び雲が現れたのだ。その雲は今度はゆっくりと波打ちながら舞うように移動を始めた。そして一瞬のうちに再び消えしまった。まるで魔法でも見ているような光景だ。ふと、何かがすっと脳膜内に入り込んだ……。
  衝撃が走った。雷にでも打たれたような衝撃だ。思わず叫んだ。
 「何てこった、何で、何で、こんな簡単な理屈が分からなかったんだろう。神がこんなに身近に潜んでいたなんて思いもしなかった。何のことはない、空が神じゃないか。今、神が見せてくれた。今、空が雲を作ったように、空が宇宙を創造したんだ。ってことは、空が神ってことだ。そして雲が波打ったように、空も波打っていたんだ。」
 全てが一瞬にして見えた。歓喜が石井の体内に入り込んできた。心の底から歓喜がこみ上げてきて、そしてはじけた。石井は恍惚として笑い続けた。その笑い声は強烈な風圧によって瞬時に掻き消された。しかし歓喜はそれを押しのけ後から後から湧き出てくる。
  ふいに五十嵐が顔をのぞかせた。何か叫んでいる。石井は我に返った。五十嵐は聞こえていないと分かるとヘリから身を乗り出してくる。石井もパイプに掛けた手に最後に残った力を振り絞り、体を持ち上げた。二人の顔と顔が近づく。
 「上がってもいいって。」
 「何だって?」
 「片桐さんが、中に入りなさいって言っているわ。」
 朦朧とした意識に安堵感が広がった。途端に恐怖が襲ってきた。体中が震えていた。今、自分の置かれている危険な状態を意識し、高所恐怖症が甦った。五十嵐が叫んだ。
 「さあ、この輪に体を通して。」
ロープの先になるほど丈夫そうな皮の輪が繋がっている。それを体に巻きつけ、そしてベルトをはずした。ロープがぴんと張り、石井の体は持ち上げられた。キャビンの中に引っ張り込まれ、石井は五十嵐の体を抱きしめた。五十嵐の柔らかな体がその体温を伝えてくる。片桐が声をかけてきた。
 「下に取り付いたのは分かっていた。よく落ちなかったな。」
 張りのある大きな声だ。
 「ああ、まだ死にたくなかった。」
 震えながら答えた。
 「お前さん、優秀な刑事だったらしいな。昔の仲間に調べさせた。」
 五十嵐が聞いた。
 「ということは、片桐さんも警視庁?」
 「昔のことだ。もう、忘れた。それよりお似合いだな。」
 「・・・・」
 「二人のことだ。」
 石井は五十嵐を強く抱きしめた。暖かい肉体だった。
 「結婚するのか。」
 「ええ、そのつもりです。」
 石井が答え、五十嵐はにこりと微笑んで石井を見上げた。
 「まったく見せ付けるね。」
これまでのドタバタ劇が嘘のようにゆったりと長閑な時間が流れている。石井がふと思い出したように聞いた。
 「さっき落ちていったのは教祖ですか?」
 「ああ、このくそ寒いのに海に飛び込んだ。」
 「あれがやはり教祖だったんだ。その前に満が落ちていったようだけど?」
 「ああ、教祖が突き落とした。満は生きたままあの世の地獄に落ちていった。俺は生きたままこの世の地獄にいる。似たもの同士ってことさ。」
  片桐がことさら大きな声を上げて笑ったが、二人は黙ったままだ。
 次第に体温が戻ってきている。石井は五十嵐を抱きしめ、瞑目している。言葉が途切れ、片桐は操縦桿を握り前方を見詰める。石井に話しかけてきた時、片桐は一度も振り向かなかった。それに無理に声を弾ませているように思え、もしかしたら泣いているのではないか、石井はそんな気がしていた。
  石井は五十嵐を抱く腕に力を込めた。五十嵐は石井の胸で寝息をたてている。ふと安堵の内にあの歓喜が蘇る。石井は思う。真理は単純であればあるほど気付きにくい。しかし、眼下に見えた雲の動きは、石井にインスピレーションを与えてくれた。
 【世界的な量子力学の権威であるデイビッド・ボームが言う。「1立方センチの中のエネルギーは、宇宙の今までに知られているあらゆる物質の総エネルギー量をはるかに超えている」と。つまり1立方センチの空は宇宙を創造するほどのエネルギーを秘めていると言うのだ。
 空には無限のエネルギーが内蔵されている。何故なのか。それは、宇宙がダイナミックに躍動しているからだ。つまり宇宙は、我々が死と再生を繰り返すように、星や銀河が絶えず生成し、そして消滅するというダイナミズムの場なのだ。
  天文学者達は、今までなかったところに銀河が突然生まれると、こともなげに言う。信じ難いことだが、これは事実だとすると、空は、死滅した星や銀河の残滓を吸収し、新たな生命を、つまり新たな星や銀河を生み出すために絶えず素粒子を放出し続けている。そのために無限のエネルギーが内蔵されているのだ。
  この理屈は所謂定常宇宙論的だが、原初の大爆発で宇宙が出来たとするビッグバン理論でもかまわない。最初に空=無があった。その空が突然大爆発して時空を押し広げ、同時に宇宙を構成する全ての物質を放出した。そして空は、今も無限に広がる宇宙を創造し続けているということになる。
  星や銀河が生成と消滅を無限に繰り返す宇宙も、或いは無限に膨張する宇宙も、無限のエネルギーを有する者のみが創り得るのである。つまり宇宙の創造者は空だ。そして全ての宗教に共通する教義は、神が宇宙を創造したということ。だとすれば、宇宙を創造したのは空なのだから、空こそが神ということになる。
  「神の臨在」という謎も簡単に解ける。神は何時でも、何処にいても、それが誰であろうと、その者と共にあるという「神の臨在」という問題も、空は我々を包み込んでいるのだし、言い方を変えるなら、我々は誰彼なく空に抱かれているのだから疑問でも何でもない。空は人間を、そして宇宙さえも包み込んでいるのだから。
  物質の本質についても、石井の得たインスピレーションは非常に単純なものだった。物質は突如何もない空から生じる。どのように?実は空自らが振動して素粒子へと変貌するのである。物質の最小単位と言われるクオークは空の振動によって作られる。
  我々の体を構成する全ての原子は空の波動によって生じる。つまり我々は空から生じたというより、実は、空がその姿を変えているに過ぎず、物質化した空なのである。
  この事実は、我々の心或いは意識というものも説明出来る。つまり、我々が空そのものであるなら、そこから生じる想念波動もやはり空ということである。物質化した空から生じた想念化した空であり、心とも意識とも呼ばれる魂そのものである。それが絡み合い縁を形成しながら集合的無意識を構成する。
  現代物理学によれば、宇宙は四つの力によって支配されていると言う。ケーシーの「物質界に現されている宇宙緒力の創造エネルギーと一つになる」という言葉は、この四つの宇宙諸力の創造エネルギーの源である空、すなわち神の元に帰るという意味となる。その時、個としての波動は止み、空と一体となるのである。
  ふと、石井は苦笑いを漏らした。自分の勘違に気付いたからだ。実は、集合的無意識は人類が作り出した仮の宿にしか過ぎず、人類が真に帰るべき『母なる海』とはこの「空」であったのだ。物質化した空、つまり堕ちた天使が、物質から開放され、天(空)に帰るには純な魂となって昇華するしかない。『母なる海』はそれを心待ちにしている。】

  黙想する石井の顔に満足げな笑みが浮かぶ。その時、片桐が再び大きな声を響かせた。
 「さあ、ビルに着陸する。降りる用意をしろ。キャビンのドアのロックを外せ。おいおい、ポリ公がうようよいやがる。まさに大捜査線だな。」
 高らかに笑っている。ヘリが屋上へ下りてゆく。警官が着陸地点を取り巻くように集まってきた。
  ヘリが警官達が作る輪の中心に着地した。エンジンが切られた。ロータはその回転速度を急速におとしてゆく。警官達が近寄ってくる。

  片桐が始めて振り返り微笑みかけた。
 「これも何かの縁だな。」
 「ええ、私もそう思います。きっと前世でも会っていると思います」
 片桐の視線が揺れた。そして僅かに頷くと、微笑んだ。石井も片桐を見詰めたまま笑顔を返した。

 石井は立ち上がり、
 「それじゃあ、先に下ります。」
と言うと、五十嵐の手をとりキャビンのドアを開けた。
  田村警部が前の窓ガラスをドンドンと叩いた。前のドアはロックされたままだ。片桐が待っていろとばかり、田村に手をふる。そして足元に置いてあるアタッシュケースを開けると、拳銃のカートリッジを取り出して装着した。
  それに気付きもせず、田村警部がまたドンドンと叩く。石井と五十嵐が降り立つと、後部座席に入れ替わるように小林刑事が入っていった。
  五十嵐の肩を抱き、歩き出した直後、田村警部の悲鳴のような声、続きバンという銃声が響きわたった。驚いて二人で振り向く。しばらくして小林刑事が顔を血だらけにしてキャビンから降りてきた。その足取りは覚束ない。
  一瞬、胸が凍るような感覚に襲われた。田村警部が恐怖に顔を引き攣らせ後退りする。その時、小林と同年輩の初老の刑事が近寄り、その体を支えようとした。小林刑事はその手を振り払い、尻のポケットからハンカチを取り出し、血だらけの目の辺りを拭った。そして言った。
 「野郎、死ぬのは勝手だが、人様の迷惑も少しは考えろってえの。血を浴びせやがって、何も見えやしねえ。それに一張羅がだいなしだぜ。」
  ほっと胸をなでおろし、石井は五十嵐を抱き寄せ歩き出したが、ふと、足を止め振り返ると、血に染まった風防ガラスに向けて合掌した。五十嵐も慌ててそれにならう。その頬を涙が伝う。
  二人は再び歩き出すが、五十嵐の涙は止まらない。石井は立ち止まり、その肩に手を置き語りかけた。
 「いいか、片桐さんはようやくこの世の地獄から逃れられたんだ。今はきっとほっとしている。それに男としてケジメをつけたかったんだ」
 「それは分かっている。でも、何であんな教祖と出会ってしまったのかしら。もし、出逢わなければ、きっと立派なデカとして、人生を全うできたはずよ」
 「それはね、神様から与えられた試練なんだ」
 「神様?」
 「そう驚くな、俺は神様を信じているんだ。その試練に、片桐さんは押しつぶされてしまった。でも、きっと次はウマくやると思う」
 「次って、つまり、輪廻転生ってこと?」
 「ああ、その通り。人生は一回こっきりじゃない、何度でもやり直せる」
 「ふーん、でも、そうかもしれない。そう思ったら何だか気が楽になったみたい」
 「そうだ、そう思えばいい。人生に失敗はつきものだ。でも、生きている限り、やり直しはきく。たとえ死んでもまたチャンスはある」
 「分かった、そう思うことにする」
 二人は頷き、ほほえみあい、そしてまた歩き始めた。


 屋上のドアの手前で来て、五十嵐が「あれっ、いけない」と言って立ち止まった。石井が何事かと顔を向ける。
 「忘れてた、山口君、倉庫に監禁されたままだわ。助けてあげないと。」
にこりとして石井が答えた。
 「よし、二人で助け出そう。」
 「でも山口君、真治のこと分かるかしら。ひどい顔よ。」
 「そんなにひどいか。」
  二人は笑いながらエレベーターに向かった。

  石井の前に、足早に階段を駆け下りる五十嵐がいる。ちょっとびっこを引きながら石井がその後を追う。五十嵐の後ろ姿を見ながら、石井は思った。「空」のことは五十嵐だけには話そうと。
  笑われるかもしれないが、それはそれでかまわない。あの時、神が富士山頂で見せてくれた光景、雲が波うち、舞い踊り、そして消えた。再び現れると今度はゆっくりと舞い、そして一瞬にして消失したのだ。
  単に水蒸気の気温による変化と気流の悪戯に過ぎないのだろうが、それは神が石井に真理を感得させるために起した現象なのだ。石井は一人で納得し、にこにこしながら何度も頷いた。窮地を脱した安堵感と難問を解いた爽快感が心を満たしていた。
  しかし、石井は、遅れてくる石井をちらりと見上げる五十嵐の目に猜疑の色が宿っているのに気付いてはいない。五十嵐の脳裏には教祖の言った言葉がこびりついている。
  教祖は、石井が香子をたぶらかしたと言った。「たぶらかした」とは、いったいどういうことをしたのか?嫉妬が渦巻いている。どうやら、二人の間に、ひと波乱ありそうである。

しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...