花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo

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第十九話 帰らぬつもりの江戸

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 その文が届いたのは、朝の露がまだ庭の草を濡らしている頃だった。
 澪が山道から帰ると、宗真が不思議な顔をして、縁側に立っていた。

 「……江戸からの文だ。老中筆頭・松平遠江守(とおとうみのかみ)より」

 「……老中から?」

 澪は思わず言葉をのみこんだ。
 もう何の縁もなくなったはずの“あの地”から、ふたりに何の用があるというのか。

 

◇ ◇ ◇

 文は丁寧な筆で、短くこう記されていた。

「結城宗真殿ならびに御台・澪殿
 このたび、御上意により、結城家の家名および家財の一部返還が検討されております。
 ついては、江戸表にて拝顔の上、詳細を議す所存。
 御下向いただきたく、筆を取る次第――
 文政十一年 春三月 松平遠江守」

 読み終えたあと、ふたりの間に長い沈黙が落ちた。

 「……宗真様。お戻りになりますか」

 「戻らぬ。私はすでに名を捨て、流された身だ。
  その重さを、“返還”などという言葉で軽くされては困る」

 「……ですが、幕府が動いたのは、“あなたの正しさ”が認められた証では?」

 「正しさを“認める”のが遅すぎた者たちに、何を語られようと……今さら響きはせぬ」

 宗真の声には怒りはなく、ただ、深い倦みと諦めがあった。

 けれど――澪は、胸の奥で何かがざわめくのを感じていた。

 

◇ ◇ ◇

 その夜。
 草庵の灯火のもと、澪は独り筆を取った。

 白い和紙に向き合うと、心の中の声が自然と浮かび上がる。

「人の名とは、誰のためにあるのでしょう。
 家のため、世のため、親のため……
 けれど私は、あなたの“名前”が好きでした。
 宗真様という名のもとに、義を貫いたあなたの背を、私は今も信じております」

 筆を置いたあと、澪は静かに立ち上がった。

 「……行くべきです」

 宗真が顔を上げる。

 「江戸へ。これは、あなたの“贖い”ではありません。
  あなたが選んだ“道”の、終わりを見届ける旅です。
  そしてそれは――私自身の旅でもあるのです」

 

◇ ◇ ◇

 三日後、ふたりは旅支度を整えた。

 村の者たちが、ささやかに見送ってくれた。

 「また、戻って来てくだされ」

 「先生、字の続きを教えてくださると約束を……」

 宗真が、黙って子の頭を撫でた。

 澪は、村の女たちから手渡された布巾を懐に入れ、静かに頭を下げた。

 「この地は、私たちの第二の生家です。
  必ず、また帰ってまいります」

 草庵の椿が、ふたりを見送るように揺れていた。
 その葉に、春の風がやさしく吹いていた。

 

◇ ◇ ◇

 街道の先、江戸の空はまだ遠い。
 けれど、ふたりの足は迷わず進んでいた。

 帰らぬつもりで去った都へ。
 今ふたたび、**“顔を上げて”**戻ってゆく。

 それは、終わらせるための旅ではない。

 ――名を捨て、信を貫いたふたりが、
  ようやく“ほんとうの自由”を取り戻す旅だった。
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