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第十二話:献身とうなじ、そして伊兵衛の覚悟
「若旦那の嫁に夜這いなど、あってはならぬ話だ――!」
そう叫んだ伊兵衛は、その翌日から寝込んだ。
怒りと疲労、そして年齢から来る無理がたたったのだろう。
熱は高く、食も細く、ふだん大声を飛ばすような伊兵衛が、布団の中でうんうんと唸っている。
「まったく……この騒ぎで親父が倒れるとはな」
ため息をつきながらも、慶次郎は口元を引き結んだ。
梨瑚の一件が片付きはしたものの、代償は小さくなかった。
主人が倒れたことで、店中が張りつめている。
けれど――
そんななか、ひとりだけ、変わらない姿を見せる者がいた。
うららだった。
「お加減、いかがですか」
「……ん。相変わらずだ」
「お粥、冷めてしまいますよ。口開けて」
「……自分で食える」
「また子どもみたいなこと言って……はい、あーん」
渋々口を開けて、一匙、また一匙。
病の床にあっても威厳を崩さぬ伊兵衛に対し、
うららはごく自然に接していた。
「風を入れますね」
襖を少しだけ開けると、涼しい風が部屋に流れ込む。
夏のはじまりを告げる、微かに甘い風。
そのとき、うららのうなじがふと、伊兵衛の視界に映った。
髪を結い上げた後ろ姿。
白く、細い首筋に、汗が一筋だけ伝っていた。
(……あの子が、もうこんな年になったのか)
その背中は、もう十三の春に見送った幼子ではなかった。
気立てが良く、物怖じせず、誰にでも笑顔を向ける娘。
店の者にも客にも慕われ、見えぬところでは誰よりも働いている。
(……あの一件さえなければ)
思い出すのは、慶次郎が放った言葉。
「俺は、うららが好きなんだよ」
奉公人と主家の跡取り。
本来ならば、交わってはならぬ道。
だが、それでも。
伊兵衛は――それでも――
「うらら」
「はい?」
「……今夜、少し時間をくれ。話をしたい」
◆◇◆
その夜。
縁側から差し込む月明かりが、座敷を淡く照らしていた。
うららは、座布団の上できちんと正座をして、静かに伊兵衛の言葉を待った。
「……うらら」
「はい」
「わしはな……この蓬莱屋を、慶次郎に継がせるつもりでここまで来た。
だからこそ、相応の嫁を迎え、暖簾を守らせねばと思ってきた」
うららは黙って、目を伏せていた。
「それは、今も変わらん。
だがな……この店が、暖簾だけで持つわけじゃないということも、ようやく分かった」
伊兵衛の声は、ふっと力を失っていた。
「この屋敷が静かだった数日、お前の姿を見ておった。
台所でも、帳場でも、誰に言われずとも動き、誰よりも気を配っておった」
「……そんな、当たり前のことです」
「それが“当たり前”と思えることが、何より貴い」
伊兵衛は、膝に置いた手をぎゅっと握った。
「わしは、お前が来たときのことをよく覚えておる。
痩せっぽちで、声ばかり大きくて、まるで山猿のようだった」
「っ、そ、それは……!」
「だが、今はどうだ」
(……)
「店の空気を和らげ、客を喜ばせ、女将を支えてくれている。
……それだけではない。慶次郎の心も、お前が支えておる」
うららの目に、光るものが滲みはじめる。
「わしはもう、強情を張る歳でもなかろう」
「……!」
「こんな馬鹿な夜這い騒動で、家を乱すような娘を嫁にするくらいなら――」
「……うらら、お前でよい」
空気が、止まったようだった。
「わしは、許す。お前と慶次郎が一緒になることを」
「……!」
言葉が出なかった。
涙が、膝の上にぽたりと落ちた。
「だがな、それだけはわかっておけ。
お前は“嫁”として迎えられるのではない。
“蓬莱屋の若女将”として、これからの店を背負う者として、ここに残るのだ」
その声には、微かな震えがあった。
病の身から絞り出された、誠意と覚悟の声だった。
うららは、深く、深く頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
「……うむ」
「精一杯、尽くします。若さまと……蓬莱屋のために」
その背に、伊兵衛ははじめて、優しい笑みを浮かべた。
◆◇◆
数日後。
伊兵衛は、熱も引き、少しずつ歩けるようになった。
うららは変わらず朝早くから台所に立ち、いつものように、少しだけ鼻歌を口ずさんでいた。
(こんな日常が、ずっと続きますように)
けれど、それが“恋の終わり”ではなく、“恋の始まり”だったと、
このときのうららは、まだ知らなかった。
そう叫んだ伊兵衛は、その翌日から寝込んだ。
怒りと疲労、そして年齢から来る無理がたたったのだろう。
熱は高く、食も細く、ふだん大声を飛ばすような伊兵衛が、布団の中でうんうんと唸っている。
「まったく……この騒ぎで親父が倒れるとはな」
ため息をつきながらも、慶次郎は口元を引き結んだ。
梨瑚の一件が片付きはしたものの、代償は小さくなかった。
主人が倒れたことで、店中が張りつめている。
けれど――
そんななか、ひとりだけ、変わらない姿を見せる者がいた。
うららだった。
「お加減、いかがですか」
「……ん。相変わらずだ」
「お粥、冷めてしまいますよ。口開けて」
「……自分で食える」
「また子どもみたいなこと言って……はい、あーん」
渋々口を開けて、一匙、また一匙。
病の床にあっても威厳を崩さぬ伊兵衛に対し、
うららはごく自然に接していた。
「風を入れますね」
襖を少しだけ開けると、涼しい風が部屋に流れ込む。
夏のはじまりを告げる、微かに甘い風。
そのとき、うららのうなじがふと、伊兵衛の視界に映った。
髪を結い上げた後ろ姿。
白く、細い首筋に、汗が一筋だけ伝っていた。
(……あの子が、もうこんな年になったのか)
その背中は、もう十三の春に見送った幼子ではなかった。
気立てが良く、物怖じせず、誰にでも笑顔を向ける娘。
店の者にも客にも慕われ、見えぬところでは誰よりも働いている。
(……あの一件さえなければ)
思い出すのは、慶次郎が放った言葉。
「俺は、うららが好きなんだよ」
奉公人と主家の跡取り。
本来ならば、交わってはならぬ道。
だが、それでも。
伊兵衛は――それでも――
「うらら」
「はい?」
「……今夜、少し時間をくれ。話をしたい」
◆◇◆
その夜。
縁側から差し込む月明かりが、座敷を淡く照らしていた。
うららは、座布団の上できちんと正座をして、静かに伊兵衛の言葉を待った。
「……うらら」
「はい」
「わしはな……この蓬莱屋を、慶次郎に継がせるつもりでここまで来た。
だからこそ、相応の嫁を迎え、暖簾を守らせねばと思ってきた」
うららは黙って、目を伏せていた。
「それは、今も変わらん。
だがな……この店が、暖簾だけで持つわけじゃないということも、ようやく分かった」
伊兵衛の声は、ふっと力を失っていた。
「この屋敷が静かだった数日、お前の姿を見ておった。
台所でも、帳場でも、誰に言われずとも動き、誰よりも気を配っておった」
「……そんな、当たり前のことです」
「それが“当たり前”と思えることが、何より貴い」
伊兵衛は、膝に置いた手をぎゅっと握った。
「わしは、お前が来たときのことをよく覚えておる。
痩せっぽちで、声ばかり大きくて、まるで山猿のようだった」
「っ、そ、それは……!」
「だが、今はどうだ」
(……)
「店の空気を和らげ、客を喜ばせ、女将を支えてくれている。
……それだけではない。慶次郎の心も、お前が支えておる」
うららの目に、光るものが滲みはじめる。
「わしはもう、強情を張る歳でもなかろう」
「……!」
「こんな馬鹿な夜這い騒動で、家を乱すような娘を嫁にするくらいなら――」
「……うらら、お前でよい」
空気が、止まったようだった。
「わしは、許す。お前と慶次郎が一緒になることを」
「……!」
言葉が出なかった。
涙が、膝の上にぽたりと落ちた。
「だがな、それだけはわかっておけ。
お前は“嫁”として迎えられるのではない。
“蓬莱屋の若女将”として、これからの店を背負う者として、ここに残るのだ」
その声には、微かな震えがあった。
病の身から絞り出された、誠意と覚悟の声だった。
うららは、深く、深く頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
「……うむ」
「精一杯、尽くします。若さまと……蓬莱屋のために」
その背に、伊兵衛ははじめて、優しい笑みを浮かべた。
◆◇◆
数日後。
伊兵衛は、熱も引き、少しずつ歩けるようになった。
うららは変わらず朝早くから台所に立ち、いつものように、少しだけ鼻歌を口ずさんでいた。
(こんな日常が、ずっと続きますように)
けれど、それが“恋の終わり”ではなく、“恋の始まり”だったと、
このときのうららは、まだ知らなかった。
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