春燈に咲く

naomikoryo

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第十三話:恋の実りと、初めての口づけ

風が、変わった。

そう思ったのは、女将・たえが朝の支度をしていた時だった。

陽の匂い、空気の流れ、店の空気――
そして、何よりうららの姿が、これまでと違って見えた。

(……少し、背が伸びたかしら)

そうじゃない。違う。
“何かを覚悟した人間”にだけ備わる、芯のある佇まい。

それが、彼女の表情や仕草、歩き方のすべてに滲み出ていた。

「うらら」

「はい」

「なんだか、綺麗になったわね」

「っ……」

不意に言われた言葉に、うららは耳まで赤くした。

「ふふ、図星みたい」

「そ、そんなこと……っ」

うつむきながらも、心の奥がじんわり温かくなる。

(若さまの隣に……胸を張って立てるようになりたい)

それは、夢ではない。
今、初めて「許された願い」。

(だからこそ、ちゃんと向き合わなきゃ)

◆◇◆

夕刻。

仕事終わりの帳場裏にて。
慶次郎が帳面をめくる手を止め、ふと呟いた。

「……あいつ、最近やけに静かだな」

かつてのうららは、帳場の周りでもよく声を上げていた。
番頭や丁稚に混じって、笑ったり、冗談を言ったり。

それが今は――静かで、けれど、どこか優雅な気配がある。

(……梨瑚が来てから、変わったよな)

いや、違う。

(あの夜、親父に許されたんだ)

(それを、ちゃんと受け止めて、変わろうとしてる)

それがわかるからこそ、余計に近づきづらい。

(あいつは前に進んでるのに、俺は――)

戸惑いが、足を鈍らせる。

(……俺だって、本気だ。ちゃんと伝えたい)

◆◇◆

夜。

うららは、いつものように道具の片付けを終え、
桶に張った水で手を洗っていた。

冷たい水が指先に触れるたび、
今日一日の汚れも、心のざわめきも流れていくようで。

そこへ――

「うらら」

その声に、振り向くと、慶次郎がいた。

「わ、若さま……っ」

「話、あんだけど」

「……はい」

少し間をおいて、ふたりは裏庭の縁側へと出た。

空には星がまたたき、虫の音が遠くに響く。
柔らかな風が、髪を揺らす。

「……この前、親父から聞いた」

「……」

「お前が俺の嫁になってもいいって。許されたって」

「……はい」

「それで、黙ってんのか?」

「……?」

「もっと、嬉しそうな顔しろよ」

「……してます」

「してねぇよ。今だって、無理に落ち着いてる顔してる」

そう言われて、うららは小さく息を飲んだ。

「……だって、怖かったんです」

「何がだよ」

「こんな夢みたいな話……きっと、どこかで終わっちゃうって。
 目が覚めたら、全部なくなってるんじゃないかって、怖くて……」

震える声。

その震えが、慶次郎の胸に突き刺さった。

「……だから」

彼は、ゆっくりと手を伸ばし、うららの頬に触れた。

「だったら、俺が証拠をくれてやる」

「……え?」

「これは夢じゃねぇって、はっきり分かるようにしてやる」

そのまま、顔が近づく。

うららは目を見開いたまま、動けなかった。

次の瞬間――

唇が、そっと触れた。

やわらかくて、温かくて。
けれど、はっきりと“男と女”の距離。

頬が熱を持ち、心臓の音が耳の奥で鳴り響く。

触れていたのはほんの数秒。
けれど、二人の世界にはそれ以上の時が流れていた。

「……これで、わかったろ?」

「……若さま……」

「もう、“若さま”じゃねぇ。
 俺は、慶次郎だ。お前が生涯呼ぶ名なんだから、ちゃんとそう呼べ」

「……け、けいじろう……さま……」

頬を染めながら、うららがつぶやく。

その声に、慶次郎はふっと笑った。

「悪くねぇな。もう一回」

「……け、慶次郎さま……」

「今度は“さま”いらねぇ」

「け、けいじろう……」

「よし」

そう言って、またそっと抱きしめられた。

うららの額が慶次郎の胸に触れ、
その心音が、彼の想いを何度も刻んでくれる。

(これは……夢じゃない)

(ちゃんと、ここにある)

うららは、そっと目を閉じた。

恋は、ようやく、実を結んだ。

けれど――
物語は、まだ終わらない。

この恋を「店の者たち」「世間」「未来」へどうつないでいくか。
本当の“始まり”は、ここからなのだ。
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