春燈に咲く

naomikoryo

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第十六話:朝餉の支度と、蓬莱屋の若女将

朝が来た。

鳥のさえずりと、炊き始めた米の匂いに、
静かだった屋敷に少しずつ活気が戻ってくる。

蓬莱屋の厨房。
かつては奉公人として走り回っていたその場所に、
今日は若女将・うららとしての姿がある。

白い割烹着を身につけ、
袖口をきゅっと結ぶ姿はもう“娘”ではなく、“女将”。

「おはようございます」

「おはようございます、若女将さま」

厨房の年配の女中頭が、いつもより深く頭を下げた。

「そ、そんな……いつも通りで構いませんよ」

「いえいえ。今日からは、お立場が違います。お気を悪くなさらぬよう……」

「……じゃあ、みんながそう呼ぶなら、仕方ないですね」

うららは、笑った。
その笑顔に、厨房の空気がふっと和らぐ。

鍋の火加減、味噌の量、漬物の塩加減。
いつもやってきたことなのに、
今朝は一つ一つが新しく思えた。

(これが、“蓬莱屋の台所”ってものなんだな)

ふと、勝手口が開いて、
「米、持ってきたぞ」と声がした。

田んぼ帰りのような格好の男が米俵を担いで入ってくる――
その顔を見て、うららの目がぱっと明るくなった。

「おとっつぁん!」

「おう、うらら!」

うららの父・市蔵だった。

「朝の用事、終わったからな。少しだけでええから手伝わせてくれや」

「そんな……お客様ですよ?」

「何を。嫁入りした娘の台所ぐらい、見ておきたくてな」

「おとっつぁん、ほんとに……」

微笑む娘の頬に、照れたように手をやりながら、
市蔵は小声で呟いた。

「……立派になったな」

「……ありがとう」

「まさか、蓬莱屋の若女将になる日が来るとはなぁ」

「うちも、よう働いたんだよ」

「知ってる。見てきたもんな。みんなが言ってた。
 “うららは、どんなお偉いさんより気が利く”ってよ」

うららは、胸がいっぱいになりながらも、
米俵の口を開けて、さらさらと米を洗い始める。

小さなころ、母と一緒に川で米を研いでいた日を思い出しながら。

◆◇◆

台所の香りが、表座敷にも届くころ。

慶次郎はふと、うららの姿を見に裏へ回った。

(まったく……朝から働きすぎじゃねぇか)

そっと厨房の戸口から覗くと、
そこには、せわしなく動きながらも笑顔を絶やさないうららの姿があった。

炊き立ての飯をよそう手つきも、
味噌汁の味を確認する横顔も――

もう“奉公人の娘”ではなかった。

“俺の嫁”になった、蓬莱屋の若女将。

(……惚れ直した)

思わず、襖の陰で口元を緩めた瞬間、
背後から声がした。

「若旦那、見てましたね?」

振り向けば、おふじが両手に茶碗を持って立っていた。

「べ、別に。様子を見に来ただけだ」

「まぁまぁ、照れなくても。……でも、見てるだけじゃダメですよ」

「は?」

「ご飯が冷める前に、ちゃんと言ってくださいね。
 “美味い”って、“ありがとう”って。
 それが、若女将を守るってことなんですから」

そう言って、にやりと笑って立ち去っていく。

慶次郎は、襖に手をついたまましばし沈黙し――

「……あの女、相変わらず口が立つな」

と、ぼやいた。

◆◇◆

その日の朝餉。

蓬莱屋の主座敷には、うららの家族も一緒に膳を囲んでいた。

父・市蔵
母・おとせ
長女・さよ
そして弟や妹たち――みな、恐縮しながらも目を輝かせて箸を進めていた。

「うらら、これ……お前が作ったのか」

「うん。みんなでね」

「うめえなぁ……こんな味、はじめて食った」

「ほら、しゃべってばっかいないで、ごはん冷めるよ」

妹に叱られ、弟が慌ててごはんをかきこむ。

「ふふ、変わらないね、みんな」

そのやり取りを見て、
女将・たえも、ふっと微笑んでいた。

やがて、見送りの時刻が来る。

店の前に出て、家族を送り出すうらら。

「……じゃあな、うらら。風邪ひくなよ」

「はい。おとっつぁんも」

「……おまえはもう、蓬莱屋の人間だ。誇り持って、胸張って生きなさい」

「……うん」

母・おとせは、何も言わずにただ抱きしめてきた。

「……あんたの匂い、まだ残ってるねぇ……小さいころのままだよ」

「おっかぁ……」

「立派におなり。どこに出しても恥ずかしくない、うちの娘だよ」

うららの目に、涙が溜まる。

(でも、今日は泣かないって決めたんだ)

見えなくなるまで家族に手を振り、
店の中に戻ったその時――

不意に背後から、ぐいと腕を引かれた。

「わっ……!」

「……よく泣かずに帰したな」

振り返ると、慶次郎の腕の中だった。

「泣いたら、おかあさんが心配するから」

「そうか。……お前、強ぇな」

「ううん。今は、守ってくれる人がいるから。強くいられるの」

「……あたりめぇだ」

そう言って、額にそっとキスを落とした。

それは、前夜の口づけとは違う、
ふたりの“日常”に踏み出す最初の一歩のキスだった。
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