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第十七話:秋風と、再び現れた梨瑚
空の色が変わった。
青さが日に日に淡くなり、朝晩の風が肌に冷たい。
虫の声も静まり、風鈴はもう軒先から外された。
うららは、台所で秋茄子を包丁で割きながらふと思った。
(夏が、終わったんだな)
祝言から、ふた月が過ぎていた。
「お味噌、少し強めにしたほうがええかね?」
「うん。秋は、体が冷えやすいからね」
「若女将さま、ほんと、何でもよう知ってはるわぁ」
「やだ、“さま”なんて言わないで。まだまだ分からないことだらけです」
照れ笑いで返しながらも、
心の中は、穏やかだった。
蓬莱屋の若女将としての仕事。
帳場の手伝い、店の者の顔色、
そして何より、慶次郎の隣にいること。
朝、彼の湯呑みに熱すぎない番茶を淹れるとき。
夕、背中越しに「おかえり」と声をかけるとき。
それだけで、十分だった。
――その時までは。
◆◇◆
「若、訪ね人でございます」
と、番頭が頭を下げる。
「誰だ?」
「……嶋屋の、お嬢さまで」
帳場の空気がぴんと張り詰める。
うららは、手にしていた帳面を思わず止めた。
「通すな」
慶次郎は、即座に言い放つ。
「ですが……“女将さまにご挨拶を”と……」
(……女将に?)
その言葉に、奥から出てきたのはたえ。
「わたしが出ます。通しなさい」
「はい」
◆◇◆
数刻後、客間に現れたのは――
以前と変わらぬ、いや、以前よりもさらに磨き抜かれた梨瑚の姿だった。
白襟に薄紫の地紋の着物、
絹の帯に、銀のかんざしが月のようにきらめいていた。
「……まぁ、梨瑚さん。お久しゅうございます」
「女将さまもお変わりなく」
丁寧に頭を下げる様は完璧だったが、
その笑顔には、かすかな“熱”があった。
「何かご用件で?」
「はい。今さらとは思いましたが……正式に、一度きちんとお詫びを申し上げたくて」
「……ふむ」
梨瑚は、深く深く頭を下げた。
「以前は、夜分に無礼をいたしました。
母共々、若さまのお心を取り違え、不躾な振る舞いをしてしまったこと、
深くお詫び申し上げます」
(まさか……詫びに来た?)
うららは、廊下の柱陰から耳を澄ませていた。
だが、梨瑚の声色に“本当の詫び”の気配はない。
(……何か、企んでる)
◆◇◆
数日後。
蓬莱屋の前で、またも梨瑚の姿があった。
今度は、うららが直接応対する。
「……梨瑚さん」
「うららさん。あら、“若女将”とお呼びすべきかしら?」
「いいえ。うららで」
「ふふ、相変わらず可愛らしいのね。――けれど、もう“可愛い”だけでは務まりませんでしょう?」
その言葉に、微かな棘がある。
「お一人で? 今日は」
「ええ。ちょっと町に用がありまして。蓬莱屋の品も見たくて」
「でしたら、店の者がご案内いたします。私は奥におりますので」
「そう。――でも、少しだけ、お時間いただけませんか?」
うららは黙って頷いた。
庭先の腰掛けで、ふたりだけの静かな時間。
梨瑚は、ふう、と風を吸い込んだ。
「秋の匂いって、好きなの。冷たくて、少し寂しくて」
「……分かる気がします」
「でもね。寂しさって、埋めたくなるものなのよ」
うららが顔を上げると、
梨瑚の目が、まっすぐこちらを射抜いていた。
「わたくし、まだ諦めていないの」
「……え?」
「慶次郎さまのこと」
静かな声。
風で、簪がかすかに鳴った。
「好きだったの。ほんとうに。あの人と並んで歩きたかった。
母も……嶋屋も……あの人を“婿”に迎えたがっていたのよ」
「でも……」
「夜這いの件で、すべてを失った。でもね――
わたくし、あれがなければ“あなたに負けていた”って思ってないのよ」
うららの息が詰まる。
「“可愛い奉公人”が、“若女将”になる。
素敵な話よ。町もきっと、美談にするわ。
でもそれが、ずっと続くとは限らないわね」
「何が言いたいんですか」
「女って怖いのよ。あなたも、きっと知る時が来る。
誰かに好かれるって、誰かに恨まれることなの」
そう言って、梨瑚は立ち上がった。
「また伺うわ。――今度は、お買い物じゃなくて、“ご挨拶”に」
「挨拶?」
「お店を持つ話が出ているの。母がね、
“慶次郎さまのご祝儀を、お返ししなきゃ”って」
うららは、何も言えなかった。
ただその背中を見送りながら、
手のひらに、じわりと汗がにじんでいた。
◆◇◆
その夜。
帳場で帳面を整えていた慶次郎に、うららが近づく。
「……今日、梨瑚さんが来ました」
「知ってる」
「話しました。いろんなことを」
「で?」
「……怖かったです。言葉じゃないんです。
目が……笑ってるのに、怒ってるみたいで」
慶次郎は、帳面を閉じて顔を上げた。
「心配すんな」
「……でも」
「“お前に恨みがある”のは、俺のせいだ」
「……」
「だから、もし何かされたら――
俺が許さねぇ」
その言葉に、うららはそっと頷いた。
(だけど――)
(ただ守られるだけの“嫁”にはなりたくない)
うららの胸には、
ふつふつと新しい決意が灯っていた。
青さが日に日に淡くなり、朝晩の風が肌に冷たい。
虫の声も静まり、風鈴はもう軒先から外された。
うららは、台所で秋茄子を包丁で割きながらふと思った。
(夏が、終わったんだな)
祝言から、ふた月が過ぎていた。
「お味噌、少し強めにしたほうがええかね?」
「うん。秋は、体が冷えやすいからね」
「若女将さま、ほんと、何でもよう知ってはるわぁ」
「やだ、“さま”なんて言わないで。まだまだ分からないことだらけです」
照れ笑いで返しながらも、
心の中は、穏やかだった。
蓬莱屋の若女将としての仕事。
帳場の手伝い、店の者の顔色、
そして何より、慶次郎の隣にいること。
朝、彼の湯呑みに熱すぎない番茶を淹れるとき。
夕、背中越しに「おかえり」と声をかけるとき。
それだけで、十分だった。
――その時までは。
◆◇◆
「若、訪ね人でございます」
と、番頭が頭を下げる。
「誰だ?」
「……嶋屋の、お嬢さまで」
帳場の空気がぴんと張り詰める。
うららは、手にしていた帳面を思わず止めた。
「通すな」
慶次郎は、即座に言い放つ。
「ですが……“女将さまにご挨拶を”と……」
(……女将に?)
その言葉に、奥から出てきたのはたえ。
「わたしが出ます。通しなさい」
「はい」
◆◇◆
数刻後、客間に現れたのは――
以前と変わらぬ、いや、以前よりもさらに磨き抜かれた梨瑚の姿だった。
白襟に薄紫の地紋の着物、
絹の帯に、銀のかんざしが月のようにきらめいていた。
「……まぁ、梨瑚さん。お久しゅうございます」
「女将さまもお変わりなく」
丁寧に頭を下げる様は完璧だったが、
その笑顔には、かすかな“熱”があった。
「何かご用件で?」
「はい。今さらとは思いましたが……正式に、一度きちんとお詫びを申し上げたくて」
「……ふむ」
梨瑚は、深く深く頭を下げた。
「以前は、夜分に無礼をいたしました。
母共々、若さまのお心を取り違え、不躾な振る舞いをしてしまったこと、
深くお詫び申し上げます」
(まさか……詫びに来た?)
うららは、廊下の柱陰から耳を澄ませていた。
だが、梨瑚の声色に“本当の詫び”の気配はない。
(……何か、企んでる)
◆◇◆
数日後。
蓬莱屋の前で、またも梨瑚の姿があった。
今度は、うららが直接応対する。
「……梨瑚さん」
「うららさん。あら、“若女将”とお呼びすべきかしら?」
「いいえ。うららで」
「ふふ、相変わらず可愛らしいのね。――けれど、もう“可愛い”だけでは務まりませんでしょう?」
その言葉に、微かな棘がある。
「お一人で? 今日は」
「ええ。ちょっと町に用がありまして。蓬莱屋の品も見たくて」
「でしたら、店の者がご案内いたします。私は奥におりますので」
「そう。――でも、少しだけ、お時間いただけませんか?」
うららは黙って頷いた。
庭先の腰掛けで、ふたりだけの静かな時間。
梨瑚は、ふう、と風を吸い込んだ。
「秋の匂いって、好きなの。冷たくて、少し寂しくて」
「……分かる気がします」
「でもね。寂しさって、埋めたくなるものなのよ」
うららが顔を上げると、
梨瑚の目が、まっすぐこちらを射抜いていた。
「わたくし、まだ諦めていないの」
「……え?」
「慶次郎さまのこと」
静かな声。
風で、簪がかすかに鳴った。
「好きだったの。ほんとうに。あの人と並んで歩きたかった。
母も……嶋屋も……あの人を“婿”に迎えたがっていたのよ」
「でも……」
「夜這いの件で、すべてを失った。でもね――
わたくし、あれがなければ“あなたに負けていた”って思ってないのよ」
うららの息が詰まる。
「“可愛い奉公人”が、“若女将”になる。
素敵な話よ。町もきっと、美談にするわ。
でもそれが、ずっと続くとは限らないわね」
「何が言いたいんですか」
「女って怖いのよ。あなたも、きっと知る時が来る。
誰かに好かれるって、誰かに恨まれることなの」
そう言って、梨瑚は立ち上がった。
「また伺うわ。――今度は、お買い物じゃなくて、“ご挨拶”に」
「挨拶?」
「お店を持つ話が出ているの。母がね、
“慶次郎さまのご祝儀を、お返ししなきゃ”って」
うららは、何も言えなかった。
ただその背中を見送りながら、
手のひらに、じわりと汗がにじんでいた。
◆◇◆
その夜。
帳場で帳面を整えていた慶次郎に、うららが近づく。
「……今日、梨瑚さんが来ました」
「知ってる」
「話しました。いろんなことを」
「で?」
「……怖かったです。言葉じゃないんです。
目が……笑ってるのに、怒ってるみたいで」
慶次郎は、帳面を閉じて顔を上げた。
「心配すんな」
「……でも」
「“お前に恨みがある”のは、俺のせいだ」
「……」
「だから、もし何かされたら――
俺が許さねぇ」
その言葉に、うららはそっと頷いた。
(だけど――)
(ただ守られるだけの“嫁”にはなりたくない)
うららの胸には、
ふつふつと新しい決意が灯っていた。
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アルファポリス公開日 2024/10/21
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