春燈に咲く

naomikoryo

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番外編:②若女将見習い日記

蓬莱屋の台所に、朝の光が差し込む。

「……っと、味噌をもうひと匙。はいはい、そこ焦がすんじゃないよ、うらら!」

「へ、へいっ! すんませんおふじさん!」

若女将見習い――うららが、味噌汁の鍋をかき混ぜながら慌てて火加減を直す。

小さな背中に、布の前掛けをきちんと結んで、
額にはいつものように汗をにじませている。

「うらら、あんたまた朝っぱらから火吹いてたでしょ。お鍋がべっこべこだよ」

「ち、違うよ! 今日は火の調子が良すぎたの!」

「はいはい、そういうのを“火吹いた”って言うのさ」

くすくすと笑いながら、蓬莱屋の女中・おふじとおそのは顔を見合わせた。

この屋敷に“うらら”という名の少女がやって来たのは、もう二年も前のことだ。

◆◇◆

当時は、ほんとうに“何もできない子”だった。

味噌を焦がす、包丁で指を切る、
畳を拭けば逆撫でにして埃を舞い上げる、
小間物を数えれば一両余る――

それでも、泣き言は言わなかった。

「次は間違えません!」

「手は出せなくても、足は動かせます!」

そう言って、朝から晩まで働き詰めだった。

「ま、あの根性だけは大したもんだと思ったよねぇ」

「うんうん。あたしらも最初は冷やかし半分だったけど、
 気づいたら“今日も頑張ってんだろうなぁ”って、気にするようになってさ」

「そうそう、しまいにゃ若旦那まで……」

「こらこら、そこから先はご法度だよ」

「やだねぇ。うちの若旦那がうららに甘いのなんて、
 もう店中どころか町中知ってるんだから」

「……けどさ」

おそのが、ふっと声を落とす。

「いっつも笑ってるけど、あの子、きっとすごく気ぃ遣ってる」

「気ぃ遣うさ、あんな立場じゃ。
 奉公から女将に上がったんだもの、周りの目は冷たくもなるよ」

「でもさ、朝一番に“おはようございます”って言ってくれるの、
 あの子だけなんだよね」

「あと、皆が帰る時にも“今日もありがとうございました”って」

「……あたし、ああいうの弱いんだ」

「分かる」

ふたりは顔を見合わせ、声を立てずに笑った。

◆◇◆

昼の仕込みの最中。

「なぁ、うらら、結婚してもさ……ここで一緒に働くの?」

「へ? ……あったり前だよ。あたしがいなきゃ、おふじさんが大変でしょ?」

「そ、それは嬉しいけどさぁ……」

「なんか、もっとこう……“奥”に引っ込むのかと思ってた」

「何それ。あたし、座敷で優雅にお琴とか弾く柄じゃないよ」

「そりゃそうだ」

「うん、それは無理だわ」

「はははっ」

台所が笑いに包まれる。

うららは、へへっと笑いながら、おひつのご飯をよそった。

「たぶん、あたしの良さって、泥くさいとこだと思うんだ。
 ピカピカにはなれないけど、汚れても笑えるようには、なれるかなって」

「……うらら」

「うん、やっぱ、あんたすげぇよ」

そう言いながら、
皆が不意に顔を背けるのは、
なんだか泣きそうになったからだ。

◆◇◆

夜。

片付けが終わり、皆が引き上げた後の台所。

小さな灯りが一つ残っていて、
その下でうららが帳面を見つめていた。

「……おふじさん、今日もありがとうございました」

「あんたねぇ、こっちが言う台詞だよ」

「だって、まだまだ勉強中だからさ」

「でも、若女将にはもうなれてるよ。
 みんな、ちゃんと見てるから」

「……うん、頑張る」

灯りの明かりが、彼女の横顔を照らしていた。
あのときと同じ――
泥にまみれても、笑える“春の灯”。
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