春燈に咲く

naomikoryo

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番外編:⑩春、灯(とも)る日にて

蓬莱屋の帳場に差し込む朝の光は、
春になるといっそうやわらかくなる。

「……よし。朝の支度は終いっと」

きびきびとした足取りで台所を出てきたのは、
もう“奉公娘”とは呼ばれない――若女将、うららだった。

17歳。

町の者からは「しっかりしたもんだ」と言われ、
奉公人からは「姉さま」と慕われ、
慶次郎の母――女将からも、「安心して任せられる」と評される。

けれど、本人からしてみれば、まだまだ“半人前”のつもりだった。

「米問屋の納め、帳面と数が合いません。確認をお願いします」

「はい、すぐ見ますね」

「お昼の膳数、今日一つ減らしていいですか? 病付きの旦那衆が欠けるって」

「了解しました。代わりに夕の仕込みを少し増やしておきましょうか」

朝から次々と飛び込む用件を、
うららは一つひとつ、落ち着いた口調と手際でさばいていく。

かつて包丁を持てば自分の指を切り、
鍋を焦がし、畳の拭き方も逆だった娘とは思えないほど。

けれど――

(あたし、なんでこんなに動けるようになったんだろう)

ふとした瞬間に、そんなことを思う。

答えは、案外簡単だった。

(……誰かのため、って思うと、自然と体が動く)

慶次郎の顔が浮かぶ。

(あの人の隣にいたくて。支えになりたくて)

(“蓬莱屋の若女将”であることに、誇りを持ちたくて)

気づけば、ここが“自分の居場所”になっていた。

◆◇◆

昼過ぎ。

おふじが台所でお膳を並べながら、ぽつりと言った。

「ねぇ、うらら。来年には、あんた、もう“おっかさん”になってるかもねぇ」

「えっ……!」

思わずお盆を持つ手が止まった。

「いや、だってさ。最近顔つきも柔らかくなったし、色香っていうのかねぇ……こう、母の匂いが出てきたんだよ」

「ま、まだそんな……っ」

「若旦那、前にも増して甘々だもんねぇ。
 奉公人が居間に近づくたび、“近ぇ!”って怒鳴ってるって噂よ?」

「も、もうっ……!」

うららは真っ赤になって台所を飛び出した。

廊下に出て、ほっとひと息つく。
けれど胸の奥は、どこか温かくて、くすぐったい。

(あたしが……母に、なる……?)

まだ想像もつかない世界だった。
でも、どこかで――“その時”が来るような気もしていた。

それは、怖いことではなく、
どこか懐かしい光に包まれた、未来の景色のように感じられた。

◆◇◆

夕刻。

風呂場で奉公人が湯を沸かし、
帳場で番頭が帳簿を整え、
慶次郎が、夜の客の出迎えの準備をしていた。

「……おい、うらら」

「あ、はい。なんでしょう」

「ちょっと、来い」

そのまま帳場の奥、座敷に引っ張られる。
不意に、障子を閉められ、ふたりきりになる。

「え、えっ……なにか……っ」

「……これ」

差し出されたのは、小さな包み。

桐の箱の中に、白地に藤色の花模様が描かれた、
上等な小紋の反物が収まっていた。

「……これ……」

「誕生日だろ、今日」

「……覚えてて、くれたんですね」

「当然だ。お前がこの世に生まれてきた、俺にとって一番大事な日だ」

目が潤む。

(あたしが、ここにいることを)

(生まれてきたことを、こんなふうに祝ってもらえるなんて)

うららは箱をそっと胸に抱いた。

「……ありがとう、慶次郎さん」

「その反物で、仕立ててやる。春の終わりには着て出かけよう」

「……はい」

少し震えた声で答えると、
慶次郎はうららを静かに抱き寄せた。

「……お前は、もう立派な女将だ」

「でもな、俺にとっては、まだ“女の子”なんだよ」

「心配で、愛しくて、つい過保護になる」

「でも、それが俺の幸せなんだ」

胸元で、うららの小さな嗚咽がこぼれた。

嬉しさと、感謝と、どうしようもないほどの愛しさが、胸をいっぱいにする。

その夜、ふたりは並んで帳場の灯を見つめた。

春燈が、今日も穏やかに揺れていた。

ふたりの未来を、優しく照らすように。
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