怪奇蒐集帳(短編集)

naomikoryo

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70)伊勢湾の沈む舟(三重県)

三重県の伊勢湾——。
 観光地として知られるこの海には、昔から奇妙な噂がある。

 「夜の伊勢湾で、決して沖に向かって手を振ってはいけない」
 「応えるように“舟”が現れるが、それに乗る者は戻れない」

 地元の漁師たちは、代々この教えを守ってきた。

 しかし、それを知らなかった者がいた——。

 これは、実際に起きた出来事である。

***********************************

 Nさん(30代・男性)は、釣りが趣味だった。

 ある日、友人のKと共に、伊勢湾へ夜釣りに出かけた。

 時刻は午後11時。

 満潮が近づき、海は静かに波打っていた。

 「夜の伊勢湾って、なんか神秘的だな」

 Kが呟いた。

 Nさんも同じことを感じていた。

 月明かりが海面を照らし、穏やかな風が吹いている。

 しかし——

 この海には、昔から伝わる奇妙な話があった。

 しばらくすると、Kが海を指さした。

 「おい、あれ見ろよ」

 Nさんが目を向けると——

 沖の方に、小さな影が浮かんでいた。

 「舟……か?」

 それは、まるで古びた小舟のように見えた。

 しかし、奇妙だったのは——

 舟には誰も乗っていなかった。

 波のない海の上を、静かに進んでいた。

「おーい!」
 Kが、冗談半分で手を振った。

 「おい、やめろよ」

 Nさんは、嫌な予感がした。

 だが——

 その瞬間、舟がピタリと止まった。

 「え?」

 次の瞬間——

 舟の中から、白い手がスッと伸びた。

 Nさんは、凍りついた。

 舟の中には誰もいない。

 なのに——

 「おいで……」

 かすれた声が、海の向こうから響いた。

 舟が、ゆっくりと岸に近づいてくる。

 「ヤバい、逃げよう!」

 NさんはKの腕を掴もうとした。

 しかし——

 Kの足が、勝手に海の方へ進んでいた。

 「K!!」

 Nさんは、必死でKを引き戻した。

 しかし、Kの表情は虚ろだった。

 「乗らなきゃ……」

 まるで、何かに操られているかのようだった。

 その時——

 「ザバァッ!!」

 舟の中から、無数の白い手が伸びてきた。

 Nさんは、Kを抱きかかえるようにして地面に倒れ込んだ。

 その瞬間、舟はスッと遠ざかり——

 波の中に消えた。

 翌日、Nさんは地元の漁師にこの話をした。

 すると、漁師は顔を曇らせた。

 「あんたら、手を振ったのか?」

 「Kが、冗談で……」

 漁師は、ため息をついた。

 「あの海には、沈んだ舟がいるんじゃ」

 「沈んだ舟?」

 漁師は、静かに話し始めた。

 「昔、伊勢湾で嵐に遭い、帰れなかった漁師たちがおる」

 「その魂は今も彷徨い、夜になると“新しい乗客”を探しとるんじゃよ……」

***********************************

 もし、あなたが伊勢湾で夜釣りをするなら——

 沖に浮かぶ舟を見ても、決して手を振ってはいけない。

 そして、もし——

 舟から白い手が伸びてきたら。

 その瞬間、あなたの足も——

 海の中へ引きずり込まれるのだから。

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