怪奇蒐集帳(短編集)

naomikoryo

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132)『蚊帳のむこう』

昭和二十二年の夏。
 私は小学校三年生で、母の実家――岐阜の山間部の村へ疎開していた。

 東京の家は焼け、父は戦地から戻らず、
 母と私は、祖父母の古い農家に身を寄せていた。

 その家の寝間には、大きな蚊帳(かや)が吊ってあった。

 日が落ちると、母が決まって蚊帳を下ろし、
 私と二人、中に入って眠る。

 夜の闇から隔てられた、小さな布の世界。

 蚊帳の外から虫の声が聞こえ、
 時折、木のきしむ音がどこか遠くで鳴った。

 ある夜のことだった。

 眠れず、布団の中で目を開けていると――
 蚊帳の外に、小さな影が立っていた。

 窓から射す月明かりに照らされて、ぼんやりと見える。

 その子は、私と同じくらいの背丈で、浴衣を着ていた。

 だが、顔は見えない。髪が、目の前に落ちていた。

 私が蚊帳の中から見つめていると、影は首をかしげた。

 > 「……なか、あったかそう」

 その声は、風の音にまぎれるように、かすれていた。

 次の日。

 母に「昨夜、誰か来てた?」と訊いたが、
 「なに言ってるの。寝言よ」と一笑された。

 でも、それからというもの――
 夜ごと、“あの子”は蚊帳の外に現れるようになった。

 じっとこちらを見ていたり、布越しに話しかけてきたりする。

 私は名前を訊いた。

 > 「……名前、もういらないの。
 >  忘れちゃったから」

 > 「どこから来たの?」

 > 「うちのうら。あの、もえたとこ」

 祖母に訊ねると、戦時中、この村にも空襲があったという。

 山の裏手に落ちた焼夷弾が、子どもたちのいた分教場を焼いた。

 「うちも、あんたの歳くらいの子を見送ったんだよ。
  名前も顔も、写真も残らんかったけど……あの子、どこに行ったかねぇ」

 そう言って、祖母は遠い目をした。

 蚊帳の中にいるときだけ、あの子は話しかけてくる。

 昼も夜も、布をくぐろうとはしない。

 私は訊いた。

 「入ってこないの?」

 > 「……はいっちゃ、だめなの」

 > 「どうして?」

 > 「わたしがはいったら、“あなたがそとにいく”ことになるから」

 ある夜、母が熱を出して倒れた。

 私は一人で蚊帳に入り、心細さに震えていた。

 すると、蚊帳の外にあの子が立っていた。

 > 「ねえ……かわっても、いいよ?」

 > 「そしたら、あなたはもう、こわくないよ」

 その声は、優しかった。

 私は手を伸ばした。

 指先が、蚊帳の布に触れた瞬間――布の向こうから、冷たい指が絡まった。

 次の朝、私は目を覚ました。

 でも、母は私の顔を見て、数秒、言葉を失っていた。

 「……どうしたの、その髪。あれ? こんな顔だった?」

 鏡を見た。

 確かに、私の顔だった。でも――どこか、違っていた。

 目の位置、唇のかたち、笑い方。

 全部、ほんのわずかずつ“ずれて”いた。

 夜になると、夢に“もうひとりの私”が現れた。

 蚊帳の中にいるのは、その子だった。

 私は外から、蚊帳の中をじっと見つめていた。

 > 「ありがとう。これで、やっと、あったかい」

 > 「あなたはもう、おそとに、いっていいの」

 私は、今もあの夜のことを覚えている。

 でも、誰にも話せない。

 なぜなら、私は“あの子の身体”で生きているからだ。

 あの蚊帳は、戦火の中で命を守ったものだった。
 けれど同時に――命を交換する“結界”でもあった。

◆エピローグ
 もし、蚊帳の中に見知らぬ誰かが立っていたら。

 それは、**命の境界を越えてきた“誰か”**かもしれません。

 そして――あなたが、外に出る番なのかもしれません。

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