怪奇蒐集帳(短編集)

naomikoryo

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134)『夢買い堂』

夜、目が覚める。

 鼓膜に残っていたのは、鈴の音だった。
 ちりん――ちりん、と。

 夏の風に似た、柔らかな音。

 ふらふらと、私は寝間を出て、草履を履き、町へ出た。
 こんな時間にどこへ行くのか、自分でもよくわからなかった。

 ただ、その音が、あの人の声に似ていた気がしたのだ。

 その屋台を見つけたのは、橋のたもとだった。

 小さな紅提灯に「夢買い堂」と書かれている。

 屋台には、白い仮面をつけた男がひとり。
 帳簿を広げ、ゆっくりと墨を走らせていた。

 屋根には、風鈴がひとつ。
 ちりん……と鳴る音が、夢の入り口を開ける。

 私はなぜか、そこに座っていた。

 「……ここは?」

 「夢を買い取る店でございます」

 仮面の男は筆を止め、静かに答えた。

 「お客様の見た夢を、形にし、収集し、そして別の者へお渡しいたします。
  とても良い夢でございましたら、高く買い取らせていただきます」

 私は黙っていた。

 男はさらに言う。

 「差し出された夢は、“現実の記憶”と交換になります。
  つまり、夢を売れば、その夢の元となった現実も、貴方の中から抜け落ちます」

 私は口を開いた。

 「……死んだ妹の夢を見ました。昔のままの声で、笑ってました」

 「それは、上物でございます」

 「……あの子のことを、忘れるってことですか?」

 「はい。ただし、夢の中の“記憶”は、そのまま別の誰かの夢になります。
  つまり、お客様の夢を、別の誰かが見るのです。
  そこに妹様が出てきて、笑ってくれるかもしれませんよ」

 私は迷った。

 でも、その夢は、あまりにも幸せすぎた。
 胸が痛くなるほど、懐かしく、そして……悲しかった。

 私は、売った。

 家に帰ると、机の上に妹の写真が置かれていた。

 でも、その顔が――ぼやけて見えた。

 まるで光が当たりすぎたように、輪郭がにじみ、色も薄れている。

 名前を呼ぼうとした。だが、口が動かなかった。

 「……あの子の名前……なんだっけ?」

 喉の奥が詰まるような感覚。

 記憶はある。妹がいたことも、幼いころ一緒に遊んだことも。
 でも――“名前”だけが思い出せない。

 次の夜、また夢を見た。

 今度は、海辺にいた。
 風の中、見知らぬ少年が貝殻を集めている。

 彼はこちらに気づき、手を振った。

 「お姉ちゃん、あそぼ!」

 その声は、妹と同じだった。

 ――誰だ、お前は。

 声を出そうとしたが、目が覚めた。

 翌日。

 屋台はまた、橋のたもとにあった。

 夢買い堂の主は、仮面の奥で静かに筆を動かしている。

 「お戻りですか」

 「……誰かが、妹の夢を見てる。違うかたちで、違う人と」

 「それが、“夢の旅”というものです。
  一度放した夢は、誰のものでもなくなります。
  それを悼むか、解き放つか――選ぶのは、貴方です」

 「……取り戻せますか?」

 男は、墨を拭き取りながら言った。

 「できます。ただし、代価として、“別の記憶”を置いていただきます」

 私は言った。

 「じゃあ、母の声を。……妹を思い出す代わりに、母の記憶を差し出します」

 契約は成立した。

 その夜、私は夢の中で――名前を呼ばれた。

 「お姉ちゃん、みつけた」

 妹が、幼いままの姿でそこにいた。

 涙が止まらなかった。

 翌朝、目を覚ますと、家の中は静まり返っていた。

 台所にいるはずの母はいなかった。

 いや――母という存在が、この家には最初からいなかった。

 アルバムを開く。
 写真の中に、母の姿はなかった。

 親戚の誰に訊いても、「お前に母親なんていなかっただろう」と言われる。

 記憶ごと、存在が書き換わっていた。

 私は、それから何度も夢を売った。

 ・好きだった人の夢を
 ・子供の頃の夏の夢を
 ・高校の卒業式の夢を
 ・父の最後の言葉の夢を

 夢を売るたび、私は軽くなった。

 記憶が抜け落ち、世界から関係が消え、
 身軽な風のように、生きていけた。

 ある夜、私はこう訊ねた。

 「この夢は、どこに流れていくの?」

 夢買い堂の主は、少し黙ってから言った。

 > 「夢しか持たない子どもたちへ。
 >  思い出を持たずに生まれてきた者たちへ。
 >  忘れることを恐れた人のもとへ、
 >  そして――“これからあなたになる誰か”のもとへ」

 その日から私は、夢を描く側になった。

 筆を握り、夢を絵にする。
 売った夢のかわりに、新しい夢を描く。

 妹の夢は、もう私の中にはない。

 けれど、どこかの誰かの中で、彼女はまた、笑っている。

◆エピローグ
 眠る前、ふと知らない夢を見ることがありませんか?

 見たこともない景色。会ったこともない人。

 それ――誰かが“手放した夢”かもしれません。

 そしてその夢は、あなたの記憶をひとつだけ、静かに持ち去っていくのです。

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