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13)月の書簡
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皇帝・暁 飛燕にその正体を知られてから、数日が過ぎた。
墨華宮には奇妙な、そして張り詰めた静けさが漂っていた。
飛燕はそれ以上、雪蘭を追及することはなかった。
ただ時折、思い出しては楽しむように、彼女の正体という名の首輪の感触を確かめているかのようだった。
麗華は雪蘭に対する態度を変えざるを得なかった。
目の前の無気力な女官は、かつてこの帝国を震撼させた伝説の軍師。
その事実が、彼女の雪蘭に対する全ての言動をぎこちなくさせた。
そして雪蘭は、といえば。
彼女は一見、何も変わらなかった。
相も変わらず書庫室の日当たりの良い窓辺で、猫のように丸まって眠り続けている。
だが、それはもはや単なる現実逃避の眠りではなかった。
その閉ざされた瞼の裏で、彼女の恐るべき頭脳は帝国全土の地図を広げ、来るべき戦いに備えていた。
◆◇◆
その日、宮廷に衝撃的な知らせがもたらされた。
帝国の穀倉地帯である南方から都へと穀物を運ぶ大動脈、黄河が氾濫。
主要な橋が流され、交通が完全に麻痺したというのだ。
このままでは、一月も経たぬうちに都は深刻な食糧不足に陥るだろう。
宰相をはじめとする臣下たちは大騒ぎになった。
宰相派はこれを天災と断じ、莫大な費用と時間をかけて橋を再建する計画を上奏した。
だが、その完成には早くとも半年はかかる見込みだった。
「……さて、どうしたものか」
麒麟堂に呼び出された雪蘭と麗華の前で、飛燕はわざとらしく頭を抱えてみせた。
「朕の役人たちは、揃いも揃って半年はかかると言う。
宰相の計画では国の金蔵が空になってしまう。
……なあ、朕の優秀な『相談役』殿よ。
何か良き策はないものか?
もっと早く、そして安く、この国難を乗り切るための〝戦略的〟な解決策が、な」
飛燕のその目は明らかに雪蘭を試していた。
謎解きではない。
これは国家規模の危機管理。
軍師『月影』の真価を問う、皇帝からの挑戦状であった。
そしてそれは、雪蘭が待ち望んでいた瞬間でもあった。
「……麗華。地図を」
雪蘭がぼそりと呟く。
麗華ははっと我に返り、慌てて南方一帯の詳細な軍事用地図を広げた。
雪蘭はおもむろに寝椅子から立ち上がると、地図の前に立った。
そして、きっぱりと言った。
「……橋は、架けません」
「なっ……!?」
麗華が驚きの声を上げる。
だが、雪蘭は続けた。
「遅すぎます。費用もかかりすぎる。
問題は橋ではありません。
穀物の流れが滞っていること、です。
ならば川の流れを直すのではなく、穀物の流れの方角を変えればよい」
雪蘭の細い指が、地図の上を滑る。
彼女の瞳には、もはや眠気の色はなかった。
「穀物を北へ運ぶのをやめさせます。
西へ。
この古びた通商路を使い、隣の西河州へと運びます」
「しかし、その道は何十年も使われておらず、荒れ放題のはずだ!」
「だからこそ、使うのです。
この地図によれば、西河州の近隣には、現在使われていない軍の駐屯地がある。
そこの兵を動かします」
雪蘭はそこで初めて、飛燕の顔を真っ直ぐに見据えた。
「兵士たちに剣ではなく鍬を持たせるのです。
荒れた山道を切り開かせ、西河州を流れる小規模な洛水に船橋を架けさせる。
兵士たちの労役は三ヶ月もあれば終わる。
橋の再建よりも早く、そして遥かに安く済みます」
さらに雪蘭は続けた。
「西河州の諸侯に命じ、その土地の余剰な穀物を買い上げさせます。
そうすれば輸送の距離も短縮でき、同時に寂れた西河州の経済を潤すこともできる。
一石二鳥、いえ、一石三鳥の策です」
あまりに完璧な、そして大胆な計画。
麗華は言葉を失っていた。
だが、雪蘭の分析はまだ終わらない。
彼女は地図の、さらに上流を指差した。
「……そもそも、今回の洪水。本当に天災でしょうか」
「……どういうことだ」
飛燕の目が鋭く光る。
「黄河の水源は、西方の蛮族の土地へと繋がっています。
これほど大規模な洪水がこの時期に起こるのは、不自然。
おそらくは、蛮族が何者かの示唆を受け、川の上流に堰を作り、それを意図的に決壊させたと考えるのが合理的です。
帝国の兵站を断つために、な」
その言葉は、暗に、そして明確に、西方の蛮族と繋がりが噂されている宰相の関与を示唆していた。
◆◇◆
飛燕は、ただ黙って雪蘭を見つめていた。
その顔には、もはや愉悦の色はなかった。
驚愕。そして畏怖。さらには、ほんの少しの恐怖。
わずか一刻にも満たない時間で、この女は国家の危機を鮮やかに解決してみせただけでなく、それを軍事演習と経済政策に転化させ、さらには政敵を追い詰めるための最大の武器へと変えてみせたのだ。
これこそが、かつて父帝を苦しめ抜いた軍師『月影』の戦術。
その神業。
飛燕は、自分が何というものを目覚めさせてしまったのか、という戦慄に襲われていた。
これは、もはや面白い玩具などではない。
己の喉元に突きつけられた抜き身の刃だ。
「……よかろう。その策、採用する」
飛燕は声を絞り出し、次々と勅命を下し始めた。
麗華が兵を動かすための使者として南方へ発つことになった。
彼女は、もはや雪蘭の監視役ではない。
雪蘭という総司令官の下で動く、一人の将校であった。
全ての指示を終えた雪蘭は、くるりと踵を返した。
そして飛燕に向かって、いつもの気のない声で言った。
「……では、陛下。
わたくしは、昼寝に戻ってもよろしいでしょうか」
彼女は、自らの価値を証明したのだ。
自分はただの謎解きの玩具ではないと。
自分は、この国を救うことも、あるいは滅ぼすこともできる、危険な〝武器〟なのだと。
龍と猫の力関係は、今この瞬間、決定的に、そして不可逆的に変化した。
雪蘭は書庫室の寝椅子で目を閉じる。
だが、その眠りはもはや、ただの休息ではなかった。
それは、次なる一手を打つための、静かな、そして冷徹な思考の時間へと変わっていた。
墨華宮には奇妙な、そして張り詰めた静けさが漂っていた。
飛燕はそれ以上、雪蘭を追及することはなかった。
ただ時折、思い出しては楽しむように、彼女の正体という名の首輪の感触を確かめているかのようだった。
麗華は雪蘭に対する態度を変えざるを得なかった。
目の前の無気力な女官は、かつてこの帝国を震撼させた伝説の軍師。
その事実が、彼女の雪蘭に対する全ての言動をぎこちなくさせた。
そして雪蘭は、といえば。
彼女は一見、何も変わらなかった。
相も変わらず書庫室の日当たりの良い窓辺で、猫のように丸まって眠り続けている。
だが、それはもはや単なる現実逃避の眠りではなかった。
その閉ざされた瞼の裏で、彼女の恐るべき頭脳は帝国全土の地図を広げ、来るべき戦いに備えていた。
◆◇◆
その日、宮廷に衝撃的な知らせがもたらされた。
帝国の穀倉地帯である南方から都へと穀物を運ぶ大動脈、黄河が氾濫。
主要な橋が流され、交通が完全に麻痺したというのだ。
このままでは、一月も経たぬうちに都は深刻な食糧不足に陥るだろう。
宰相をはじめとする臣下たちは大騒ぎになった。
宰相派はこれを天災と断じ、莫大な費用と時間をかけて橋を再建する計画を上奏した。
だが、その完成には早くとも半年はかかる見込みだった。
「……さて、どうしたものか」
麒麟堂に呼び出された雪蘭と麗華の前で、飛燕はわざとらしく頭を抱えてみせた。
「朕の役人たちは、揃いも揃って半年はかかると言う。
宰相の計画では国の金蔵が空になってしまう。
……なあ、朕の優秀な『相談役』殿よ。
何か良き策はないものか?
もっと早く、そして安く、この国難を乗り切るための〝戦略的〟な解決策が、な」
飛燕のその目は明らかに雪蘭を試していた。
謎解きではない。
これは国家規模の危機管理。
軍師『月影』の真価を問う、皇帝からの挑戦状であった。
そしてそれは、雪蘭が待ち望んでいた瞬間でもあった。
「……麗華。地図を」
雪蘭がぼそりと呟く。
麗華ははっと我に返り、慌てて南方一帯の詳細な軍事用地図を広げた。
雪蘭はおもむろに寝椅子から立ち上がると、地図の前に立った。
そして、きっぱりと言った。
「……橋は、架けません」
「なっ……!?」
麗華が驚きの声を上げる。
だが、雪蘭は続けた。
「遅すぎます。費用もかかりすぎる。
問題は橋ではありません。
穀物の流れが滞っていること、です。
ならば川の流れを直すのではなく、穀物の流れの方角を変えればよい」
雪蘭の細い指が、地図の上を滑る。
彼女の瞳には、もはや眠気の色はなかった。
「穀物を北へ運ぶのをやめさせます。
西へ。
この古びた通商路を使い、隣の西河州へと運びます」
「しかし、その道は何十年も使われておらず、荒れ放題のはずだ!」
「だからこそ、使うのです。
この地図によれば、西河州の近隣には、現在使われていない軍の駐屯地がある。
そこの兵を動かします」
雪蘭はそこで初めて、飛燕の顔を真っ直ぐに見据えた。
「兵士たちに剣ではなく鍬を持たせるのです。
荒れた山道を切り開かせ、西河州を流れる小規模な洛水に船橋を架けさせる。
兵士たちの労役は三ヶ月もあれば終わる。
橋の再建よりも早く、そして遥かに安く済みます」
さらに雪蘭は続けた。
「西河州の諸侯に命じ、その土地の余剰な穀物を買い上げさせます。
そうすれば輸送の距離も短縮でき、同時に寂れた西河州の経済を潤すこともできる。
一石二鳥、いえ、一石三鳥の策です」
あまりに完璧な、そして大胆な計画。
麗華は言葉を失っていた。
だが、雪蘭の分析はまだ終わらない。
彼女は地図の、さらに上流を指差した。
「……そもそも、今回の洪水。本当に天災でしょうか」
「……どういうことだ」
飛燕の目が鋭く光る。
「黄河の水源は、西方の蛮族の土地へと繋がっています。
これほど大規模な洪水がこの時期に起こるのは、不自然。
おそらくは、蛮族が何者かの示唆を受け、川の上流に堰を作り、それを意図的に決壊させたと考えるのが合理的です。
帝国の兵站を断つために、な」
その言葉は、暗に、そして明確に、西方の蛮族と繋がりが噂されている宰相の関与を示唆していた。
◆◇◆
飛燕は、ただ黙って雪蘭を見つめていた。
その顔には、もはや愉悦の色はなかった。
驚愕。そして畏怖。さらには、ほんの少しの恐怖。
わずか一刻にも満たない時間で、この女は国家の危機を鮮やかに解決してみせただけでなく、それを軍事演習と経済政策に転化させ、さらには政敵を追い詰めるための最大の武器へと変えてみせたのだ。
これこそが、かつて父帝を苦しめ抜いた軍師『月影』の戦術。
その神業。
飛燕は、自分が何というものを目覚めさせてしまったのか、という戦慄に襲われていた。
これは、もはや面白い玩具などではない。
己の喉元に突きつけられた抜き身の刃だ。
「……よかろう。その策、採用する」
飛燕は声を絞り出し、次々と勅命を下し始めた。
麗華が兵を動かすための使者として南方へ発つことになった。
彼女は、もはや雪蘭の監視役ではない。
雪蘭という総司令官の下で動く、一人の将校であった。
全ての指示を終えた雪蘭は、くるりと踵を返した。
そして飛燕に向かって、いつもの気のない声で言った。
「……では、陛下。
わたくしは、昼寝に戻ってもよろしいでしょうか」
彼女は、自らの価値を証明したのだ。
自分はただの謎解きの玩具ではないと。
自分は、この国を救うことも、あるいは滅ぼすこともできる、危険な〝武器〟なのだと。
龍と猫の力関係は、今この瞬間、決定的に、そして不可逆的に変化した。
雪蘭は書庫室の寝椅子で目を閉じる。
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