墨華宮の昼寝猫

naomikoryo

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17)香炉の火は消えず

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書庫室の空気が変わった。

李 雪蘭は、もう眠らなくなった。

彼女は一日中机に向かい、膨大な資料と地図を見つめている。

その背中はひどく小さく、そして研ぎ澄まされていた。

時折、彼女の呟く指示の声だけが静寂を破る。

あの無気力でだらしない『昼寝猫』の姿は、どこにもなかった。

そこにいるのは、冷徹な思考と鋼の意志を持つ軍師、『月影』その人であった。

王 麗華は、そんな雪蘭の変貌に深い戸惑いを覚えていた。

その恐るべき才能には畏敬の念を抱いている。

だが同時に、今の雪蘭はまるで精巧な硝子の刃物のようで、見ていてひどく危うかった。

あの憎まれ口を叩きながらも、どこか気の抜けた猫の方が、よほど人間らしかったと麗華は思っていた。

「雪蘭、少しは休め。茶を淹れた」

麗華が差し出した湯呑に、雪蘭は気づきもしない。

その瞳は地図の上の一点を見つめたまま、遥か遠くの戦場を見ている。

麗華はその、あまりに張り詰めた横顔に何も言えなくなり、ただ黙って茶が冷めていくのを見ていることしかできなかった。

◆◇◆

対照的に、皇帝・暁 飛燕はこの状況を心から楽しんでいた。

これこそが、彼が望んだ姿だった。

彼はほとんど毎日のように書庫室を訪れた。

勅命を下すためではない。

ただ、彼女の仕事を〝観る〟ためだ。

地図を睨み、迅速に的確な指示を飛ばす雪蘭の姿。

それは飛燕にとって、どんな舞よりも、どんな音楽よりも美しく、心を躍らせる光景であった。

彼は雪蘭に戦略に関する議論を吹っかけた。

わざと意地の悪い問いを投げかけ、彼女の思考の煌めきを引き出そうとする。

それは、二人の天才だけが理解しあえる、危険な知の交歓。

飛燕の瞳に宿る光は、もはやただの好奇心ではなかった。

それは自分と唯一対等に渡り合える魂を見出した、独占欲に満ちた執着の光であった。

◆◇◆

飛燕が放った密偵たちは、各地の寺院から続々と報告をもたらした。

そのほとんどは空振り。

だが一人の密偵が、極めて重要な情報を持ち帰った。

国の西の果て、険しい山脈に抱かれた古い道教の寺院。

そこに、確かに金 逸臣と名乗る少年がいたという。

物静かで利口で、ひたすら医術の書物を読み耽る少年だったと。

だが彼はそこに長くは居なかった。

十年に一度の帝国の人口調査の直前に、彼は寺院を去っていた。

表向きは「都でさらなる医術を学ぶため」という理由だった。

しかし、帝国のどの医術院にも、彼が入学した記録はない。

彼は、まるで煙のようにその消息を絶っていたのだ。

「……都にいる、と」

麗華は呻いた。

「数年前に消えた一人の男を、この数百万の人間が蠢く都で見つけ出すなど……。不可能です!」

絶望的な状況。

だが、雪蘭は揺るがなかった。

彼女は麗華に静かに告げた。

「……人そのものを探すな。その〝筆跡〟を探せ」

「筆跡、だと?」

「そうだ」

雪蘭は立ち上がり、都の巨大な地図を広げた。

「『影の将軍』が事を起こすには、莫大な金と希少な物資が必要だ。
それらを正規の経路で手に入れることはできぬ」

「……つまり、闇市場」

「その通りだ。だが、彼は決して無計画に動かぬ。
彼の行動には必ず目的と合理性がある。
闇市場の取引記録を洗え。
表向きの身分がなく、しかし定期的かつ継続的に、ある特定の組み合わせの品物を買い続けている〝亡霊〟のような買い手がいるはずだ」

その品物の組み合わせとは。

一つは、毒の材料となる希少な薬草。

一つは、西方の蛮族に流すための武具や塩。

そして、もう一つは――

「……上質な紙と墨だ」

雪蘭は呟いた。

「……緻密な計画を立てるには、膨大な量の紙と墨が必要になる。机上の演習のためにな」

それは軍師である雪蘭だからこそ至れる結論であった。

麗華はその新たな捜査の糸口に、はっと目を見開いた。

そしてすぐさま部下を集め、これまで宮廷とは無縁であった都の暗部、すなわち闇市場の調査へと乗り出していった。

書庫室に一人残された雪蘭は、都の地図を見下ろしていた。

彼女はもはや、ただ面倒事を避けるだけの昼寝猫ではない。

自らの過去を狩るための狩人だ。

彼女はこの巨大な都のどこかに潜む、同郷の亡霊を捕らえるために、思考の罠を張り巡らせていく。

その瞳には、もはや眠気はひとかけらもなかった。

ただ、獲物を見据える飢えた獣の光だけが宿っていた。
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