墨華宮の昼寝猫

naomikoryo

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19)宰相の沈黙

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『影の将軍』、金 逸臣(キン・イツシン)は、宮殿の最も深い場所にある地下牢に繋がれていた。

光も音も届かぬその孤独な石の部屋で、彼はただ黙していた。

厳しい尋問にも決して口を開かない。

麗華が訪れても、皇帝が自ら足を運んでも、彼はただ壁の一点を見つめ、その瞳に静かな、しかし燃えるような憎悪の炎を宿らせているだけだった。

「……駄目だ。あの男、口を割らぬ」

麒麟堂で、飛燕は苛立たしげに舌打ちをした。

犯人を捕らえはしたが、その背後にある宰相との繋がりを立証できなければ意味がない。

「……ただ一人を除いてはな」

飛燕はすっと立ち上がると、雪蘭に向かって命じた。

その声は、もはや遊戯の色を含んでいなかった。

「雪蘭。お前が行け」

「……御免被ります」

雪蘭は即座に答えた。

「『月』の亡霊と語らうべき言葉は、月の民にしかあるまい。行け、月影」

それは、雪蘭が最も恐れていた命令だった。

故郷を捨て、過去を封印した自分が、今さらどの面を下げて同郷の生き残りと会えというのか。

彼の家族は、自分が指揮したあの戦で死んだのだ。

その血の重みが、雪蘭の両肩にのしかかる。

「……わたくしはただの後宮の女官です。国の裏切り者と話すことなど、何もございません」

「これは勅命だ」

飛燕のその一言で、雪蘭の最後の抵抗は打ち砕かれた。

◆◇◆

重い足取りで、雪蘭は麗華に伴われ地下牢へと向かった。

ひやりと冷たい石の壁。

黴と絶望の匂い。

そこは彼女の書庫室とは、あまりに対照的な世界だった。

牢の中で金 逸臣は床に座り、鎖に繋がれていた。

最後に見た時よりもさらに痩せこけ、しかしその瞳の光だけは衰えていない。

彼は入ってきた雪蘭を一瞥すると、すぐに興味を失ったように顔をそむけた。

また皇帝の手先が来たと思ったのだろう。

雪蘭は鉄格子の前で、ただ黙って彼を見つめていた。

麗華も飛燕も、隣の監視室から固唾を呑んでその光景を見守っている。

長い長い沈黙の後。

雪蘭は静かに口を開いた。

その言葉は、この帝国の公用語ではなかった。

彼女が何年も封印してきた、故郷『月』の国の古い古い方言だった。

「……お前の家の家紋……『銀梅花』は、王都で一番美しかった」

その一言で、金 逸臣の鉄の仮面が砕け散った。

彼の頭が勢いよく跳ね上がり、その瞳が驚愕に見開かれる。

彼は初めて目の前の女官の顔をまともに見た。

伝説の軍師『月影』の顔は知らない。

だがこの言葉の響きは知っている。

この懐かしい故郷の訛りを、知っている。

「……お前、は……誰だ……?」

絞り出すような声。

雪蘭はその問いには答えず、静かに続けた。

「……お前の父、金将軍は勇敢なお方だった。王都の西門を守り、最後まで戦い抜かれた。お前の兄上も、その隣で共に戦っておられた。……私は、そこにいた。その全てを見ていた」

彼女の口から語られる最後の決戦の詳細。

それはただの記録には決して残らない、その場にいた者、それも全軍を指揮する立場にいた者しか知り得ない生々しい事実だった。

雪蘭の声には、もはや昼寝猫の気怠さはない。

静かで厳かで、そして深い哀しみを帯びた指揮官の声だった。

金 逸臣は、その言葉の一つ一つを聞くうちに、堰が切れたように嗚咽を漏らし始めた。

何年も憎悪だけで固めていた心が、過去の奔流に押し流されていく。

やがて彼は、全てを語り始めた。

寺院で故郷の凶報を聞き、全てを失った絶望。

帝国への燃えるような憎しみ。

そして宰相と手を組み、復讐を誓った経緯。

だが最後に、彼は雪蘭が全く知らなかった事実を告げた。

「……だが、我々は裏切られたのだ! 帝国からだけではない! 内側からだ!」

金 逸臣は顔を上げ、血を吐くように叫んだ。

「西門を守るための援軍! あれは故意に遅らされたのだ! 我が国の上層部の誰かが、自らの保身のために我々を帝国に売り渡したのだ!」

その言葉に、今度は雪蘭が凍り付く番だった。

(……裏切り者?)

敗因は、圧倒的な兵力差と補給の途絶、それだけだと思っていた。

だが違ったというのか。

金 逸臣は、国が内側から腐っていたのだと信じ、もはや守るべき名誉などないと絶望した。

だからこそ彼は、この腐った帝国と、そして彼が信じる腐った王国、その双方を、ただ破滅させるためだけに、その知略を使ったのだ。

雪蘭はよろめいた。

自分の知らないところで、故郷は最も醜い形でその命を終えようとしていた。

過去は、自分が信じていた物語とは全く違う顔をしていた。

まだ、影に隠れたもう一人の亡霊がいる。

最も醜悪な裏切り者という名の亡霊が。

雪蘭の戦いは、まだ終わらない。

いや、今、本当の意味で始まったのかもしれない。

自らが捨てた故郷の最後の真実を、その手で暴き出すという、あまりに過酷な戦いが。
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