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第30話『たっくん、おとうさんの本当の仕事を知る』
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朝の団地には、やさしい味噌の匂いが広がる。
B棟三階、柊家の部屋からも、ふわっと白い湯気が立ちのぼっていた。
ちゃぶ台の上には、ちゃんと三角に盛りつけられたごはん。
卵焼きは少し焦げていたけれど、味は文句なし。
みそ汁には、わかめとネギと、ちょっとだけ残っていた油揚げ。
そのすべてを準備したのは――小学三年生、柊拓斗。
「おとうさーん! 味噌汁、ぬるくなるよー!」
寝室の奥から、バタバタと音がした。
寝ぐせをつけたまま、Yシャツのボタンを留めながら出てくるのは、たっくんのおとうさん。
「あー……ごめん、ごめん……間に合った?」
「はい、セーフ」
「はは、朝からありがとよ。やっぱりたっくんが作る味噌汁は最高だなぁ」
「わかってる」
たっくんは、ふっと自慢げに微笑んだ。
毎朝のこの時間は、団地の朝の音と、ふたりだけの会話でできている。
けれど、最近のおとうさん――なにか様子がおかしい。
テレビを見ながら返事がずれたり、
スマホを見ているときに眉をしかめたり、
何より夜、電話をしている回数がやたらと増えていた。
「……はい。はい……いえ、それは……」
「もちろん、前向きには……でも、息子が……」
たっくんは、寝室の明かりの下で会話するおとうさんの背中を、
襖のすき間から何度か見ていた。
(……ぼくのこと、話してるのかな)
(仕事の話だよね。でも、どうして“ぼく”のことが出てくるんだろう)
***
日曜日の午後。
団地中庭の掲示板の貼り替え作業を終えたたっくんは、
帰り道で「にじや」に寄って、いつもの豆腐と牛乳を買った。
袋を手に下げて団地に戻ると、
ちょうどおとうさんがベランダで洗濯物を取り込んでいるのが見えた。
たっくんは静かに台所に入り、スーパーの袋を冷蔵庫に詰めた。
「おかえり」
「うん。掲示板、梅雨入りのイラストに変えた」
「そろそろ、また季節が動くね」
「……おとうさん」
「ん?」
たっくんは、ちゃぶ台に腰を下ろして、まっすぐおとうさんの顔を見た。
「最近、なんか変じゃない?」
「……変?」
「電話の回数も多いし。おとうさん、仕事で何かあった?」
おとうさんは驚いたようにまばたきをした後、苦笑した。
「……たっくんには隠し事できないな」
「無理だよ。ぼく、観察力にステ振りしてるから」
「ステ振り?」
「ゲームで言うところの“探偵タイプ”ってやつ」
おとうさんは、ゆっくりと息を吐いた。
「実は……会社から、転勤の打診があってな」
「転勤?」
「うん。場所は――沖縄だ」
(おきなわ!?)
たっくんの頭の中に、エメラルドの海とサトウキビ畑が一瞬で浮かんだ。
「……え、なんで急に沖縄なの?」
「それを話すには……たっくんに、ちょっとカミングアウトしないとな」
おとうさんは少しだけ笑って、それから、真剣な顔で言った。
「おとうさんの仕事な、ただの“設計事務所の人”じゃないんだ」
「えっ……じゃあ……なに?」
「正確に言うと、宇宙開発関連の設計技術者なんだ。
つまり、ロケットの部品を設計してる」
「――……え???」
たっくんは、一瞬、時が止まったように固まった。
「ロ、ロ、ロケットって……あの、宇宙行く……あの?」
「そう、あの。宇宙飛行士が乗る前に、まず飛ばなきゃいけない、アレ」
「おとうさん、それ、ほんとに? ガチ?」
「ガチ」
「うっわーーーー!!! なにそれ、なんで今まで黙ってたの!?!?」
「いや……なんか言いそびれたままタイミング逃して……」
「ちょっと! ぼく、ずっと“地味だけど堅実な設計士”だと思ってたのに!」
「ま、堅実な設計士ではある」
「でもロケットって! 爆発とかあるやつでしょ!?」
「うん。だから本当に難しくて、責任も大きい」
たっくんは、しばらく口をぽかんと開けていたが、
やがてじわじわと、顔に感情が戻ってきた。
「おとうさん、すごいね……」
「ありがとう。でも、今度の転勤は、設計じゃなくて管理側の仕事。
沖縄宇宙通信所の副所長にならないか、って言われてるんだ」
「副所長……!」
「今後は種子島での打ち上げにも出向して、全体の指揮をとる立場になるかもしれない」
「それって……出世ってことだよね?」
「まぁ、そうだな」
「じゃあ――いいじゃん!! 行こうよ沖縄!!」
おとうさんは、一瞬きょとんとして、それから苦笑した。
「……本当に、それでいいのか?」
「うん。おとうさんがやりたいなら、ぼくもやりたい。
それに、ぼくひとりでもどこでも生きていけるし。書記だし」
「いや、書記は団地内の役職だろ」
「沖縄でもやるもん。沖縄支部たぬきポスト設立する!」
「はは、じゃあポストはシーサー型か?」
「それいい!!」
けれどたっくんの笑顔の奥には、ほんの少しだけ、
さみしさがまざっていたのも事実だった。
のぞみ。
田所さん。
掲示板。
たぬきポスト。
回覧板の紙の手ざわり。
団地の夜の虫の声。
ベランダから見える景色。
全部、もう「当たり前」だった。
でも、その当たり前を手放す覚悟を、たっくんは今、
小さな背中にきちんと詰めこもうとしていた。
「おとうさん。ひとつだけ、お願いがある」
「なんだ?」
「転勤のこと、みんなにはまだ言わないで。
ぼく、自分のタイミングで伝えたい」
「わかった。ちゃんと、区切りをつけたいんだな」
「うん。“書記の仕事”、まだ終わってないから」
たっくんは、自分のスケッチブックを開いて、こう書いた。
【団地感謝月間・準備案】
・団地のみんなに“ありがとう”を伝える掲示板企画
・子どもたちによる“回覧演劇”(公民館で)
・たぬきポスト・ファイナルデー開催?
→転勤するなんて、まだ言わないけど。準備は、始める。
たっくんの顔は、決して沈んでいなかった。
ロケットのように、未来を見つめていた。
―――つづく
B棟三階、柊家の部屋からも、ふわっと白い湯気が立ちのぼっていた。
ちゃぶ台の上には、ちゃんと三角に盛りつけられたごはん。
卵焼きは少し焦げていたけれど、味は文句なし。
みそ汁には、わかめとネギと、ちょっとだけ残っていた油揚げ。
そのすべてを準備したのは――小学三年生、柊拓斗。
「おとうさーん! 味噌汁、ぬるくなるよー!」
寝室の奥から、バタバタと音がした。
寝ぐせをつけたまま、Yシャツのボタンを留めながら出てくるのは、たっくんのおとうさん。
「あー……ごめん、ごめん……間に合った?」
「はい、セーフ」
「はは、朝からありがとよ。やっぱりたっくんが作る味噌汁は最高だなぁ」
「わかってる」
たっくんは、ふっと自慢げに微笑んだ。
毎朝のこの時間は、団地の朝の音と、ふたりだけの会話でできている。
けれど、最近のおとうさん――なにか様子がおかしい。
テレビを見ながら返事がずれたり、
スマホを見ているときに眉をしかめたり、
何より夜、電話をしている回数がやたらと増えていた。
「……はい。はい……いえ、それは……」
「もちろん、前向きには……でも、息子が……」
たっくんは、寝室の明かりの下で会話するおとうさんの背中を、
襖のすき間から何度か見ていた。
(……ぼくのこと、話してるのかな)
(仕事の話だよね。でも、どうして“ぼく”のことが出てくるんだろう)
***
日曜日の午後。
団地中庭の掲示板の貼り替え作業を終えたたっくんは、
帰り道で「にじや」に寄って、いつもの豆腐と牛乳を買った。
袋を手に下げて団地に戻ると、
ちょうどおとうさんがベランダで洗濯物を取り込んでいるのが見えた。
たっくんは静かに台所に入り、スーパーの袋を冷蔵庫に詰めた。
「おかえり」
「うん。掲示板、梅雨入りのイラストに変えた」
「そろそろ、また季節が動くね」
「……おとうさん」
「ん?」
たっくんは、ちゃぶ台に腰を下ろして、まっすぐおとうさんの顔を見た。
「最近、なんか変じゃない?」
「……変?」
「電話の回数も多いし。おとうさん、仕事で何かあった?」
おとうさんは驚いたようにまばたきをした後、苦笑した。
「……たっくんには隠し事できないな」
「無理だよ。ぼく、観察力にステ振りしてるから」
「ステ振り?」
「ゲームで言うところの“探偵タイプ”ってやつ」
おとうさんは、ゆっくりと息を吐いた。
「実は……会社から、転勤の打診があってな」
「転勤?」
「うん。場所は――沖縄だ」
(おきなわ!?)
たっくんの頭の中に、エメラルドの海とサトウキビ畑が一瞬で浮かんだ。
「……え、なんで急に沖縄なの?」
「それを話すには……たっくんに、ちょっとカミングアウトしないとな」
おとうさんは少しだけ笑って、それから、真剣な顔で言った。
「おとうさんの仕事な、ただの“設計事務所の人”じゃないんだ」
「えっ……じゃあ……なに?」
「正確に言うと、宇宙開発関連の設計技術者なんだ。
つまり、ロケットの部品を設計してる」
「――……え???」
たっくんは、一瞬、時が止まったように固まった。
「ロ、ロ、ロケットって……あの、宇宙行く……あの?」
「そう、あの。宇宙飛行士が乗る前に、まず飛ばなきゃいけない、アレ」
「おとうさん、それ、ほんとに? ガチ?」
「ガチ」
「うっわーーーー!!! なにそれ、なんで今まで黙ってたの!?!?」
「いや……なんか言いそびれたままタイミング逃して……」
「ちょっと! ぼく、ずっと“地味だけど堅実な設計士”だと思ってたのに!」
「ま、堅実な設計士ではある」
「でもロケットって! 爆発とかあるやつでしょ!?」
「うん。だから本当に難しくて、責任も大きい」
たっくんは、しばらく口をぽかんと開けていたが、
やがてじわじわと、顔に感情が戻ってきた。
「おとうさん、すごいね……」
「ありがとう。でも、今度の転勤は、設計じゃなくて管理側の仕事。
沖縄宇宙通信所の副所長にならないか、って言われてるんだ」
「副所長……!」
「今後は種子島での打ち上げにも出向して、全体の指揮をとる立場になるかもしれない」
「それって……出世ってことだよね?」
「まぁ、そうだな」
「じゃあ――いいじゃん!! 行こうよ沖縄!!」
おとうさんは、一瞬きょとんとして、それから苦笑した。
「……本当に、それでいいのか?」
「うん。おとうさんがやりたいなら、ぼくもやりたい。
それに、ぼくひとりでもどこでも生きていけるし。書記だし」
「いや、書記は団地内の役職だろ」
「沖縄でもやるもん。沖縄支部たぬきポスト設立する!」
「はは、じゃあポストはシーサー型か?」
「それいい!!」
けれどたっくんの笑顔の奥には、ほんの少しだけ、
さみしさがまざっていたのも事実だった。
のぞみ。
田所さん。
掲示板。
たぬきポスト。
回覧板の紙の手ざわり。
団地の夜の虫の声。
ベランダから見える景色。
全部、もう「当たり前」だった。
でも、その当たり前を手放す覚悟を、たっくんは今、
小さな背中にきちんと詰めこもうとしていた。
「おとうさん。ひとつだけ、お願いがある」
「なんだ?」
「転勤のこと、みんなにはまだ言わないで。
ぼく、自分のタイミングで伝えたい」
「わかった。ちゃんと、区切りをつけたいんだな」
「うん。“書記の仕事”、まだ終わってないから」
たっくんは、自分のスケッチブックを開いて、こう書いた。
【団地感謝月間・準備案】
・団地のみんなに“ありがとう”を伝える掲示板企画
・子どもたちによる“回覧演劇”(公民館で)
・たぬきポスト・ファイナルデー開催?
→転勤するなんて、まだ言わないけど。準備は、始める。
たっくんの顔は、決して沈んでいなかった。
ロケットのように、未来を見つめていた。
―――つづく
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