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第5話 ささやかな修理屋
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「……あら」
ぽとり、と本棚の上段から一冊の古書が落ちたのは、ちょうど午後の紅茶が出された直後だった。
「大丈夫ですか?」
智也が驚いて駆け寄ると、綾瀬澪は落ちた本をそっと抱き上げ、少し困ったように笑った。
「ええ、大丈夫です。本は無事ですが、棚の金具がゆるんでしまったようです」
彼女の言葉通り、木製の書架の一部がぐらついている。
棚の金具を留めていたネジが錆びて、半ば外れかかっていた。
「……あー、これ、たぶん壁側の下地が弱ってますね」
「分かるんですか?」
「一応、大学時代に建築学科だったので。……あと、実家が工務店で。工具くらいなら、持ってこれます」
澪は一瞬だけ目を見開いたあと、静かに頷いた。
「……助かります。でも、いいんですか?」
「もちろんです。なんというか……図書館に“恩返し”したい気分なんですよ」
その言葉に、綾瀬はふわりと笑った。
「では、ささやかな“修理屋さん”、お願いしても?」
「お任せを」
***
次の日、智也は私服で図書館を訪れた。
肩には小ぶりな工具箱を下げている。
今日は仕事を午前中で終え、午後から“修理ボランティア”としての訪問だ。
「こんにちは。……来てしまいました」
「あら、“修理屋さん”、いらっしゃいませ」
図書館の扉を開けると、澪は昨日と同じ場所で待っていた。
彼女は今日も淡い色のカーディガンを羽織っているが、よく見ると袖を軽くまくっていた。
「こちらです。念のため、本は別の棚に移動しておきました」
智也は書架のネジを確認しながら、慎重に工具を取り出した。
「こういうのって、道具があるだけで半分終わったようなものですからね」
「……慣れていらっしゃるんですね。てきぱきしていて」
「家ではよく家具の修理とかやってたので。というか、無理やりやらされてましたけど」
澪はくすっと笑った。
ふたりの間にある空気が、少しずつ軽くなっていくのを智也は感じた。
「……ネジ穴が馬鹿になってますね」
「え?」
「ネジを何度も締め直すと、木が削れて、穴がゆるくなっちゃうんです。ここはパテで補強して、再固定すればたぶん大丈夫です」
「……詳しいですね」
「なんというか、“道具の声”が分かるって言うと、ちょっと魔女っぽいですか?」
その一言に、綾瀬は思わず笑ってしまった。
智也はその声を聞いて、少し驚いた。
綾瀬が声を立てて笑うのは、初めてだったからだ。
「“魔女”は私の役目です。……高野さんは、“道具の精”ということで」
「なるほど、それも悪くないかもしれませんね」
そんな他愛ない会話を交わしながら、修理作業は進んでいく。
澪は時折、本を手にしながら智也の様子をちらちらと見ていた。
金属と木と、ほんの少しの汗の匂い。
普段の図書館にはない空気が、どこか新鮮だった。
「……これで、しばらくは大丈夫だと思います」
小一時間の作業を終え、智也は汗をぬぐいながら立ち上がった。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「いえ、僕の方こそ。なんだか、ここが少し“自分の場所”になった気がします」
澪は、少し驚いたように智也を見た。
その目には、うっすらとした感情の波が浮かんでいるようだった。
「……そう思っていただけるなら、うれしいです」
彼女の声は、いつもよりほんの少しだけ揺れていた。
***
紅茶をふたり分いれて、書架の傍らにある小さなティーテーブルでひと息つく。
「高野さんって、こういう細かい作業、嫌いじゃないんですね」
「むしろ、好きなほうです。手を動かしてると、余計なこと考えずに済むんで」
「……余計なこと、ですか?」
「たとえば、“この先どうなるんだろう”とか、“自分はここでいいのか”とか、そういうやつです」
「それは……誰しも考えることです。けれど、本を読むときは、そういう考えから一度自由になれる気がします」
「……たしかに、そうかもしれません」
ふたりは静かにカップを口に運んだ。
沈黙はある。けれど、それはすっかり馴染んだものだった。
***
帰り際、澪がふと口にした。
「今日、少し違う空気がありました」
「修理中の、工具の音とかですか?」
「いえ……もう少し、人の“手”の温度のようなもの。……図書館は“本の場所”でもありますが、“人が居る場所”でもあると、改めて思いました」
「それって、僕が“うるさかった”ってことですか?」
「ふふ、そうではなくて……“あたたかかった”んです」
図書館の中に、ぽっと灯りがともるようなその言葉に、智也は返す言葉を探した。
けれど、うまく見つからなかった。
だから代わりに、少し照れくさそうに笑った。
その夜、智也は実家に電話をかけた。
父は相変わらずぶっきらぼうだったが、「道具箱の中身を足して送ってくれ」と頼むと、思いのほかすぐに了承してくれた。
「なんだ、お前、どっか直してるのか?」
「まあ、ちょっとな。大事な場所で」
そう答えたとき、自分でも驚くほど素直だった。
修理したのは、本棚の金具ひとつ。
けれど、澪の世界と、自分の世界が、ほんの少し交差した瞬間だった。
ささやかな修理。けれど、それはふたりの間にある見えない棚板にも、そっとネジをひとつ留めるような時間だった。
(第5話 完)
ぽとり、と本棚の上段から一冊の古書が落ちたのは、ちょうど午後の紅茶が出された直後だった。
「大丈夫ですか?」
智也が驚いて駆け寄ると、綾瀬澪は落ちた本をそっと抱き上げ、少し困ったように笑った。
「ええ、大丈夫です。本は無事ですが、棚の金具がゆるんでしまったようです」
彼女の言葉通り、木製の書架の一部がぐらついている。
棚の金具を留めていたネジが錆びて、半ば外れかかっていた。
「……あー、これ、たぶん壁側の下地が弱ってますね」
「分かるんですか?」
「一応、大学時代に建築学科だったので。……あと、実家が工務店で。工具くらいなら、持ってこれます」
澪は一瞬だけ目を見開いたあと、静かに頷いた。
「……助かります。でも、いいんですか?」
「もちろんです。なんというか……図書館に“恩返し”したい気分なんですよ」
その言葉に、綾瀬はふわりと笑った。
「では、ささやかな“修理屋さん”、お願いしても?」
「お任せを」
***
次の日、智也は私服で図書館を訪れた。
肩には小ぶりな工具箱を下げている。
今日は仕事を午前中で終え、午後から“修理ボランティア”としての訪問だ。
「こんにちは。……来てしまいました」
「あら、“修理屋さん”、いらっしゃいませ」
図書館の扉を開けると、澪は昨日と同じ場所で待っていた。
彼女は今日も淡い色のカーディガンを羽織っているが、よく見ると袖を軽くまくっていた。
「こちらです。念のため、本は別の棚に移動しておきました」
智也は書架のネジを確認しながら、慎重に工具を取り出した。
「こういうのって、道具があるだけで半分終わったようなものですからね」
「……慣れていらっしゃるんですね。てきぱきしていて」
「家ではよく家具の修理とかやってたので。というか、無理やりやらされてましたけど」
澪はくすっと笑った。
ふたりの間にある空気が、少しずつ軽くなっていくのを智也は感じた。
「……ネジ穴が馬鹿になってますね」
「え?」
「ネジを何度も締め直すと、木が削れて、穴がゆるくなっちゃうんです。ここはパテで補強して、再固定すればたぶん大丈夫です」
「……詳しいですね」
「なんというか、“道具の声”が分かるって言うと、ちょっと魔女っぽいですか?」
その一言に、綾瀬は思わず笑ってしまった。
智也はその声を聞いて、少し驚いた。
綾瀬が声を立てて笑うのは、初めてだったからだ。
「“魔女”は私の役目です。……高野さんは、“道具の精”ということで」
「なるほど、それも悪くないかもしれませんね」
そんな他愛ない会話を交わしながら、修理作業は進んでいく。
澪は時折、本を手にしながら智也の様子をちらちらと見ていた。
金属と木と、ほんの少しの汗の匂い。
普段の図書館にはない空気が、どこか新鮮だった。
「……これで、しばらくは大丈夫だと思います」
小一時間の作業を終え、智也は汗をぬぐいながら立ち上がった。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「いえ、僕の方こそ。なんだか、ここが少し“自分の場所”になった気がします」
澪は、少し驚いたように智也を見た。
その目には、うっすらとした感情の波が浮かんでいるようだった。
「……そう思っていただけるなら、うれしいです」
彼女の声は、いつもよりほんの少しだけ揺れていた。
***
紅茶をふたり分いれて、書架の傍らにある小さなティーテーブルでひと息つく。
「高野さんって、こういう細かい作業、嫌いじゃないんですね」
「むしろ、好きなほうです。手を動かしてると、余計なこと考えずに済むんで」
「……余計なこと、ですか?」
「たとえば、“この先どうなるんだろう”とか、“自分はここでいいのか”とか、そういうやつです」
「それは……誰しも考えることです。けれど、本を読むときは、そういう考えから一度自由になれる気がします」
「……たしかに、そうかもしれません」
ふたりは静かにカップを口に運んだ。
沈黙はある。けれど、それはすっかり馴染んだものだった。
***
帰り際、澪がふと口にした。
「今日、少し違う空気がありました」
「修理中の、工具の音とかですか?」
「いえ……もう少し、人の“手”の温度のようなもの。……図書館は“本の場所”でもありますが、“人が居る場所”でもあると、改めて思いました」
「それって、僕が“うるさかった”ってことですか?」
「ふふ、そうではなくて……“あたたかかった”んです」
図書館の中に、ぽっと灯りがともるようなその言葉に、智也は返す言葉を探した。
けれど、うまく見つからなかった。
だから代わりに、少し照れくさそうに笑った。
その夜、智也は実家に電話をかけた。
父は相変わらずぶっきらぼうだったが、「道具箱の中身を足して送ってくれ」と頼むと、思いのほかすぐに了承してくれた。
「なんだ、お前、どっか直してるのか?」
「まあ、ちょっとな。大事な場所で」
そう答えたとき、自分でも驚くほど素直だった。
修理したのは、本棚の金具ひとつ。
けれど、澪の世界と、自分の世界が、ほんの少し交差した瞬間だった。
ささやかな修理。けれど、それはふたりの間にある見えない棚板にも、そっとネジをひとつ留めるような時間だった。
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