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第13話 春の風、めくるページ
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三月の風は、少しだけ冷たく、けれど確かに春の匂いをまとっていた。
町中に梅の花が咲き、風が吹くたびにその香りがふわりと運ばれてくる。
桜にはまだ早いが、季節は確実に次の章をめくろうとしていた。
その日、智也は町役場の人事課に呼ばれた。
「高野くん、次の辞令、出たよ。四月から本庁に戻ることになった」
そう言われたとき、智也は「はい」と即答することができなかった。
もともとこの町への赴任は“期間限定”のものだった。
文化振興担当として一年、地方自治体との連携と現場経験を積むための異動だったのだ。
だが――
この町での日々が、予想以上に自分の心に根を張っていたことを、智也ははっきりと自覚していた。
特に、あの図書館。
そして、綾瀬澪という人。
いまや彼女の存在は、季節のように当たり前で、
けれど唯一無二のものだった。
***
その日、いつものように図書館を訪れると、澪はすでに窓際で本を読んでいた。
彼女の横顔には、春の日差しが淡く差し込んでいる。
とても静かで、穏やかな風景。
だけど智也には、それがなぜか“遠くなる”予感を含んで見えた。
「こんにちは」
「こんにちは、高野さん。今日は、少し風がありますね」
「はい。……春の風って、なんでこんなに切ないんでしょうね」
「冬の名残を連れているからでしょうか。あるいは、何かを終わらせる前触れ……」
彼女はそう言って、そっとページをめくった。
「……実は、異動の話が出ました」
しばらくの沈黙のあと、智也は口を開いた。
「四月から、東京の本庁に戻ることになりました。正式には来週発表です」
澪は、本を閉じて、智也の顔を静かに見つめた。
驚きは見せなかった。ただ、その視線に、言葉にできない“揺らぎ”があった。
「……そうですか」
「最初から、決まっていたことなんです。でも……」
「でも?」
「こんなふうになるなんて、思ってなかったんです」
そう言った瞬間、智也は自分の感情が溢れそうになるのを感じた。
「この町で過ごした日々が、自分にとってどれほど大切になっていたか……気づくのが、遅かったのかもしれません」
澪は、ゆっくりと視線を下ろした。
「それでも……時間は戻せませんね」
その声は、どこまでも静かだった。
だが、その奥には、小さな痛みがあった。
***
その夜、図書館の灯りは早めに落とされた。
ふたりは裏庭のベンチに腰かけていた。
風が草を揺らし、遠くからフクロウの声が聞こえる。
「……私、昔、一度だけ“待った”ことがあります」
唐突に、澪が語りはじめた。
「彼が、戻ると言っていたから。私も、“ここで待っている”と伝えました。でも、彼は戻ってこなかった」
智也はその言葉を、黙って受け止めた。
「それ以来、“待つ”ことが、私にはとても怖くなったんです」
「……だから、いまも?」
「はい。あなたがいなくなっても、私はこの図書館に残ります。でも……“また来ます”とあなたが言っても、それを信じていいのか、怖いのです」
それは、澪の心の奥の奥にある、“扉のさらに奥”だった。
智也は息をのんだ。
そして、自分の中にある気持ちに、はじめて向き合った。
それはもう、はっきりと“恋”だった。
彼女に触れたい。ともにありたい。
けれど、だからこそ、彼女の傷をもう二度とえぐりたくはなかった。
「澪さん」
「……はい」
「僕は……あなたのために残りたいと思っています」
その一言に、澪の瞳が揺れた。
「けれど、それは“逃げ”なのか、“選んだ道”なのか……自分でも、まだ迷っているんです。だからすぐに“残る”とは言えない。無責任なこともしたくない」
「……正直な方ですね」
「でも、ひとつだけ……“行く”にしても、“戻る”にしても――“あなたのもとへ”という想いは、変わりません」
その言葉に、澪は小さく息を吸った。
そして、そっと視線を空に向けた。
「……この風がめくるページの先に、何があるのか……見てみたいと思ったのは、久しぶりです」
月が、ゆっくりと昇っていた。
(第13話 完)
町中に梅の花が咲き、風が吹くたびにその香りがふわりと運ばれてくる。
桜にはまだ早いが、季節は確実に次の章をめくろうとしていた。
その日、智也は町役場の人事課に呼ばれた。
「高野くん、次の辞令、出たよ。四月から本庁に戻ることになった」
そう言われたとき、智也は「はい」と即答することができなかった。
もともとこの町への赴任は“期間限定”のものだった。
文化振興担当として一年、地方自治体との連携と現場経験を積むための異動だったのだ。
だが――
この町での日々が、予想以上に自分の心に根を張っていたことを、智也ははっきりと自覚していた。
特に、あの図書館。
そして、綾瀬澪という人。
いまや彼女の存在は、季節のように当たり前で、
けれど唯一無二のものだった。
***
その日、いつものように図書館を訪れると、澪はすでに窓際で本を読んでいた。
彼女の横顔には、春の日差しが淡く差し込んでいる。
とても静かで、穏やかな風景。
だけど智也には、それがなぜか“遠くなる”予感を含んで見えた。
「こんにちは」
「こんにちは、高野さん。今日は、少し風がありますね」
「はい。……春の風って、なんでこんなに切ないんでしょうね」
「冬の名残を連れているからでしょうか。あるいは、何かを終わらせる前触れ……」
彼女はそう言って、そっとページをめくった。
「……実は、異動の話が出ました」
しばらくの沈黙のあと、智也は口を開いた。
「四月から、東京の本庁に戻ることになりました。正式には来週発表です」
澪は、本を閉じて、智也の顔を静かに見つめた。
驚きは見せなかった。ただ、その視線に、言葉にできない“揺らぎ”があった。
「……そうですか」
「最初から、決まっていたことなんです。でも……」
「でも?」
「こんなふうになるなんて、思ってなかったんです」
そう言った瞬間、智也は自分の感情が溢れそうになるのを感じた。
「この町で過ごした日々が、自分にとってどれほど大切になっていたか……気づくのが、遅かったのかもしれません」
澪は、ゆっくりと視線を下ろした。
「それでも……時間は戻せませんね」
その声は、どこまでも静かだった。
だが、その奥には、小さな痛みがあった。
***
その夜、図書館の灯りは早めに落とされた。
ふたりは裏庭のベンチに腰かけていた。
風が草を揺らし、遠くからフクロウの声が聞こえる。
「……私、昔、一度だけ“待った”ことがあります」
唐突に、澪が語りはじめた。
「彼が、戻ると言っていたから。私も、“ここで待っている”と伝えました。でも、彼は戻ってこなかった」
智也はその言葉を、黙って受け止めた。
「それ以来、“待つ”ことが、私にはとても怖くなったんです」
「……だから、いまも?」
「はい。あなたがいなくなっても、私はこの図書館に残ります。でも……“また来ます”とあなたが言っても、それを信じていいのか、怖いのです」
それは、澪の心の奥の奥にある、“扉のさらに奥”だった。
智也は息をのんだ。
そして、自分の中にある気持ちに、はじめて向き合った。
それはもう、はっきりと“恋”だった。
彼女に触れたい。ともにありたい。
けれど、だからこそ、彼女の傷をもう二度とえぐりたくはなかった。
「澪さん」
「……はい」
「僕は……あなたのために残りたいと思っています」
その一言に、澪の瞳が揺れた。
「けれど、それは“逃げ”なのか、“選んだ道”なのか……自分でも、まだ迷っているんです。だからすぐに“残る”とは言えない。無責任なこともしたくない」
「……正直な方ですね」
「でも、ひとつだけ……“行く”にしても、“戻る”にしても――“あなたのもとへ”という想いは、変わりません」
その言葉に、澪は小さく息を吸った。
そして、そっと視線を空に向けた。
「……この風がめくるページの先に、何があるのか……見てみたいと思ったのは、久しぶりです」
月が、ゆっくりと昇っていた。
(第13話 完)
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