私が離婚した理由

naomikoryo

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泣いてる私を、あなたは見なかった

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 カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
 キッチンの奥、シンクに置かれた皿の上に、水のしずくが溜まっていた。

 私はそのしずくをぼんやりと眺めながら、思った。

 この家の中で、私の涙を見た人は、誰もいない。

 夫――裕介とは、職場結婚だった。
 交際期間は2年。結婚して、もうすぐ5年が経とうとしていた。

 穏やかで、真面目で、几帳面で、優しい人。

 そう、誰から見ても「良い人」と評される、そういう人だった。

 でもその「良さ」は、たぶん、“外”の人に向けられたものだった。

 私は、いつからか、彼の「日常」になっていた。
 見なくても、気にしなくても、そこにあって当たり前の存在。

 まるで、家具みたいに。

 最初のころ、私はよく泣いた。

 「今日は上司に厳しく言われて、ちょっとしんどくて……」
 そう話すと、彼は「そうなんだ」と頷いて、すぐにテレビのリモコンに手を伸ばした。

 何か返してほしかったわけじゃない。
 ただ、気持ちを聞いてほしかっただけ。

 でも、裕介は私が泣いても、怒っても、黙ってしまっても、目をそらすだけだった。

 「そういうの、どうしていいか分からないから」

 そう言われたことがある。

 私は黙って頷いた。
 でも、本当は叫びたかった。

 「分からなくても、そばにいてくれればいいの」って。

 ある冬の夜、熱を出して倒れた。

 職場で急に寒気がして、立っていられなくなり、同僚にタクシーで帰宅させてもらった。
 体温計は39度を超えていた。

 毛布を被って震えていた私のそばで、裕介はスマホを見ながら言った。

 「明日、病院行った方がいいね。インフルだったら困るし」

 困る、のは彼。
 看病をすることになるかもしれない自分のスケジュール。

 私は唇を噛んだ。

 「今、お願いだから、そばにいてくれるだけでいいのに」

 そう言ったら、彼はわずかに眉をひそめた。

 「今、俺ができることってある? 何か買ってくる?」

 私は首を横に振って、ただ、背中を向けた。

 欲しかったのは、ものじゃなかった。
  ただ、気持ちに寄り添ってほしかっただけ。

 裕介には、感情を扱うのが苦手なところがあった。
 でも私は、それを「不器用な優しさ」だと最初は思っていた。

 だからこそ、言葉を選び、感情を抑え、彼が困らないように心を配った。
 泣くときは、彼のいない場所で泣いた。
 疲れても、弱音を吐くのは友人にだけ。
 いつしか私は、「手のかからない妻」になっていた。

 それが、彼にとっての理想だったのかもしれない。

 ある日、久しぶりに仕事でミスをして、大きなトラブルになった。
 心身ともに限界で、帰宅してから玄関にしゃがみこんで、声を押し殺して泣いた。

 その時、裕介はリビングで映画を観ていた。
 部屋の奥から、セリフと笑い声が漏れていた。

 私は、少し期待していた。
 「どうしたの?」と声をかけてくれるかもしれない、と。

 でも、彼は来なかった。

 私は泣き止んで、顔を拭き、リビングに入り、
 「ただいま」と言った。

 彼は一度チラリとこちらを見て、「おかえり」と言った。
 それだけだった。

 その夜、私は眠れず、ひとりでベランダに出た。

 空には雲がかかっていた。
 寒い風が頬を撫でたとき、私は小さく声を出した。

 「……私、このまま、ここにいていいのかな」

 風の音だけが答えた。

 ある日、とうとう私は言った。

 「私、あなたの前では、泣けないの。
  悲しくても、苦しくても、そっぽ向かれる気がして」

 裕介は黙っていた。
 しばらくして、静かに言った。

 「俺は……どうしてあげればいいか分からないだけなんだ」

 「分からなくていいの。ただ、見ていてほしいの。
  泣いてる私に、“どうしたの?”って言ってほしかっただけ」

 私の声が震えた。

 「でも、あなたは、いつも見ないふりをする。
  私が泣いても、苦しくても、見ようとしない」

 「それって、優しさじゃない。ただの無関心だよ」

 彼は、何も言わなかった。

 私はその沈黙に、答えを見た。

 数日後、離婚の話を切り出したときも、彼は驚かなかった。
 ただ、「そこまで思いつめてたんだな」と言った。

 私はうなずいた。

 「きっと、あなたは悪い人じゃない。
  でも、私は、あなたの隣で、ずっとひとりだったの」

 「泣いても、笑っても、私のことを“感情”として見てくれない。
  それが、一番、寂しかった」

 離婚届を提出したその夜、私は一人になった部屋で小さな声で泣いた。

 でもその涙は、どこか温かかった。

 やっと、自分の感情に素直になれた気がした。
 「泣いてもいい」場所が、今ここにある。
 それだけで、心がふっと軽くなった。

 今、私は週末になると小さな公園のベンチで本を読む。
 周りには、笑い声もあれば、泣き声もある。
 それが、いいと思う。

 感情があってこそ、人は生きてる。

 私はこれから、見られることを恐れずに、ちゃんと感じながら生きていく。

 誰かが隣にいてくれるなら、その人にはちゃんと見ていてほしい。

 泣く私も、笑う私も、全部。
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