82 / 293
第2章 魔界幻想
混濁の柩 2
しおりを挟む
藤川は再度、コーヒーカップを手に取り、茶褐色の液体をゆっくりと流し込んだ。
「そ……その事を、直人は……?」カミラの問いに、藤川は静かに首を横に振る。
「表層意識に記憶は、無い。だが……」藤川はコーヒーカップを戻し、顔を上げる。
「直人の潜在意識には、その時の出来事が残っている」
藤川は立ち上がると、一同に背を向けた。視線の先には、バルコニー越しに、穏やかな夏の青空が広がる。
「あの時、直人の心の中で、直哉に何があったのか……あのミッションに立ち会った我々にも、よくわかっていない」
「生体記憶データの解析を何度も試みたが、データの最後の方で、アクセスを拒まれてしまうのだ。……風間先輩が、ロックをかけていたようでな……」東が補足する。
「データサーバーに転送されていた、生体記憶データに気付いたのは、直人が意識を回復して、しばらくの事だった。それには、直哉のメッセージも添えられていた」藤川は振り向いて、一同の方へと向き直った。
「……時が来たら、全てを直人に……それまでは、あの地震で直人と、直哉に起こった事の全てを、直人には明かさないで欲しい……と」
「ふん……」勇人の鼻先で笑う声が、静けさを打ち破る。
「それでか……。それでお前は、直人を手元に呼び寄せた?」「……そういう意図も、確かにあった」
「で、お前はその"トラウマ"を知りながら、直人をインナーノーツに加えた。にも関わらず、直人の心のケアは、何もしてこなかっただと?」勇人は、言葉の端々を尖らせ、藤川に迫る。
「止めろ! コーゾーは、直哉の意志を尊重してきたまでだ!」アルベルトは、身を乗り出して、今にも飛びかかりそうな勇人を制止した。
「何が⁉︎ そうやって直人の心と向き合う事を……いや、お前自身が、あの地震の記憶から、逃げて来たんじゃないのか⁉︎」制止するアルベルトの腕と押し問答しながら、勇人は叫ぶ。
「風間さん! そうじゃない! ……コウは何度も直人の潜在意識にアプローチしようとしたのよ……。でも、彼の心理的負荷も考えて……」「いい、貴美子」藤川は、穏やかに貴美子の弁護を止めると、勇人をじっと見詰める。
「お前の言うとおりかもしれん。あの二十年前の記憶……私も今になって掘り起こしたい過去ではなくなっていた……だが……」
「インナーノーツのミッションを重ねる度、直人の潜在意識に押し込められていたものが、噴き出そうとしている」
「それが、先日のあのテストでの……」カミラとアランは大きく頷きを見せる。
「うむ……。直人の心にとって、今がまさに全てを知る、いや"思い出す"べき時なのだ」
————
「……とんだ荒療治だな、コウ。お前はいつもそうだ……」
もう一口、紅茶を啜る。甘ったるいミルクが、舌の上にまとわりつく。ミルクと砂糖で閉ざされた紅茶の香りは、もはや無いに等しい。勇人は顔をしかめて、カップを口から離した。
「……直人……」
手にしたカップの中で、ミルクで白濁した紅茶の渦が、細やかに揺れ動く。指輪型通信端末の着信を告げる振動が、カップを皿に戻させる。勇人は、左手の掌を拡げ、通信端末を起動させた。
指輪型投影機が、瞬時に形成したモニターを、勇人は一瞥する。モニター上には、一通のメールが展開された。
『IN-PSIDより、例の信号解析結果が届きました。捜査機密にあたるので、詳細はお知らせできませんが、事件解決の糸口になりそうです。
ご協力、ありがとうございました。 上杉』
「ふんっ……こちらの思惑も、お見通しか」
勇人は、苦笑しながら掌を軽く閉じる。IN-PSIDへと協力要請を取り付けたとはいえ、そのような事で、捜査情報を簡単に漏らすような上杉ではないことは、重々承知していた。
国策でもある、インナースペースのヴァーチャルネット推進事業において、人気サービス『想いは永遠に(オモトワ)』は、善し悪しはともかく、その経済効果、及び社会への影響力の大きさから、非常に着目されていた。海外版の開発も進められており、その利権を巡って経産業界だけでなく、国政に携わるような人物やグループも、深く関わっている噂を、勇人は前々から聴いている。
だが、その『オモトワ』が、何らかの事件に関与したという事実が明るみになれば……政経界の勢力地図も大きく変わる事だろう。今回の事件で、関わった連中の、弱みの一つ二つでも捕まえる事が出来れば、彼のビジネスにも利を得る事は間違いない。上杉は、そんな勇人の強かな思惑を見通して、捜査協力を引き出したのだ。
「人の扱い方を、よくわかっている」
利用されたとわかっても、不思議と上杉に対しての嫌悪は感じない。いや、むしろ上杉には、強いシンパシーすら、勇人は感じていた。
「だがな……」勇人は眼前に広がる、水平線の彼方へと、視線を送る。
勇人にとっても事件の解決は、何より望ましいものであった。
インナースペースを利用したヴァーチャルネットの開発は、文明と人の可能性の拡大であると、勇人も認識はしている。だが、ヴァーチャルネットの世界は、人の魂を現世から引き離す、いわば一つの『あの世』でもある。
『オモトワ』は、まさに『あの世』を作り出し、人の魂を喰らう魔界。
今回の件で、『オモトワ』を閉鎖に追い込む事が出来れば、無法地帯化するヴァーチャルネットの健全化に、一石を投じる事となろう。ヴァーチャルネットであろうと、PSIであろうと、『現世』の拡充の為に、あらねばならないのだ。
「なぁ……そうだろう? ……恵(けい)」
勇人は、白々と輝く、日本海の水面を遠く眺めながら、再度、紅茶カップを手にとると、静かに口を付けた。
「そ……その事を、直人は……?」カミラの問いに、藤川は静かに首を横に振る。
「表層意識に記憶は、無い。だが……」藤川はコーヒーカップを戻し、顔を上げる。
「直人の潜在意識には、その時の出来事が残っている」
藤川は立ち上がると、一同に背を向けた。視線の先には、バルコニー越しに、穏やかな夏の青空が広がる。
「あの時、直人の心の中で、直哉に何があったのか……あのミッションに立ち会った我々にも、よくわかっていない」
「生体記憶データの解析を何度も試みたが、データの最後の方で、アクセスを拒まれてしまうのだ。……風間先輩が、ロックをかけていたようでな……」東が補足する。
「データサーバーに転送されていた、生体記憶データに気付いたのは、直人が意識を回復して、しばらくの事だった。それには、直哉のメッセージも添えられていた」藤川は振り向いて、一同の方へと向き直った。
「……時が来たら、全てを直人に……それまでは、あの地震で直人と、直哉に起こった事の全てを、直人には明かさないで欲しい……と」
「ふん……」勇人の鼻先で笑う声が、静けさを打ち破る。
「それでか……。それでお前は、直人を手元に呼び寄せた?」「……そういう意図も、確かにあった」
「で、お前はその"トラウマ"を知りながら、直人をインナーノーツに加えた。にも関わらず、直人の心のケアは、何もしてこなかっただと?」勇人は、言葉の端々を尖らせ、藤川に迫る。
「止めろ! コーゾーは、直哉の意志を尊重してきたまでだ!」アルベルトは、身を乗り出して、今にも飛びかかりそうな勇人を制止した。
「何が⁉︎ そうやって直人の心と向き合う事を……いや、お前自身が、あの地震の記憶から、逃げて来たんじゃないのか⁉︎」制止するアルベルトの腕と押し問答しながら、勇人は叫ぶ。
「風間さん! そうじゃない! ……コウは何度も直人の潜在意識にアプローチしようとしたのよ……。でも、彼の心理的負荷も考えて……」「いい、貴美子」藤川は、穏やかに貴美子の弁護を止めると、勇人をじっと見詰める。
「お前の言うとおりかもしれん。あの二十年前の記憶……私も今になって掘り起こしたい過去ではなくなっていた……だが……」
「インナーノーツのミッションを重ねる度、直人の潜在意識に押し込められていたものが、噴き出そうとしている」
「それが、先日のあのテストでの……」カミラとアランは大きく頷きを見せる。
「うむ……。直人の心にとって、今がまさに全てを知る、いや"思い出す"べき時なのだ」
————
「……とんだ荒療治だな、コウ。お前はいつもそうだ……」
もう一口、紅茶を啜る。甘ったるいミルクが、舌の上にまとわりつく。ミルクと砂糖で閉ざされた紅茶の香りは、もはや無いに等しい。勇人は顔をしかめて、カップを口から離した。
「……直人……」
手にしたカップの中で、ミルクで白濁した紅茶の渦が、細やかに揺れ動く。指輪型通信端末の着信を告げる振動が、カップを皿に戻させる。勇人は、左手の掌を拡げ、通信端末を起動させた。
指輪型投影機が、瞬時に形成したモニターを、勇人は一瞥する。モニター上には、一通のメールが展開された。
『IN-PSIDより、例の信号解析結果が届きました。捜査機密にあたるので、詳細はお知らせできませんが、事件解決の糸口になりそうです。
ご協力、ありがとうございました。 上杉』
「ふんっ……こちらの思惑も、お見通しか」
勇人は、苦笑しながら掌を軽く閉じる。IN-PSIDへと協力要請を取り付けたとはいえ、そのような事で、捜査情報を簡単に漏らすような上杉ではないことは、重々承知していた。
国策でもある、インナースペースのヴァーチャルネット推進事業において、人気サービス『想いは永遠に(オモトワ)』は、善し悪しはともかく、その経済効果、及び社会への影響力の大きさから、非常に着目されていた。海外版の開発も進められており、その利権を巡って経産業界だけでなく、国政に携わるような人物やグループも、深く関わっている噂を、勇人は前々から聴いている。
だが、その『オモトワ』が、何らかの事件に関与したという事実が明るみになれば……政経界の勢力地図も大きく変わる事だろう。今回の事件で、関わった連中の、弱みの一つ二つでも捕まえる事が出来れば、彼のビジネスにも利を得る事は間違いない。上杉は、そんな勇人の強かな思惑を見通して、捜査協力を引き出したのだ。
「人の扱い方を、よくわかっている」
利用されたとわかっても、不思議と上杉に対しての嫌悪は感じない。いや、むしろ上杉には、強いシンパシーすら、勇人は感じていた。
「だがな……」勇人は眼前に広がる、水平線の彼方へと、視線を送る。
勇人にとっても事件の解決は、何より望ましいものであった。
インナースペースを利用したヴァーチャルネットの開発は、文明と人の可能性の拡大であると、勇人も認識はしている。だが、ヴァーチャルネットの世界は、人の魂を現世から引き離す、いわば一つの『あの世』でもある。
『オモトワ』は、まさに『あの世』を作り出し、人の魂を喰らう魔界。
今回の件で、『オモトワ』を閉鎖に追い込む事が出来れば、無法地帯化するヴァーチャルネットの健全化に、一石を投じる事となろう。ヴァーチャルネットであろうと、PSIであろうと、『現世』の拡充の為に、あらねばならないのだ。
「なぁ……そうだろう? ……恵(けい)」
勇人は、白々と輝く、日本海の水面を遠く眺めながら、再度、紅茶カップを手にとると、静かに口を付けた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる