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第3章 死者の都

遺されしものたち 5

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「亜夢のツインソウルだが……」藤川は、今し方、貴美子が中座して淹れてきたコーヒーを一口啜り、再び口を開く。「彼女の肉体と精神はこの二つの魂で支えられている。今のところ表層に現れるのはどちらかの魂一方のようだ……片側が活動している間、もう片側は無意識下で眠っているような状態になる……つまり、彼女が目覚めている間は、魂半分程度のエネルギーで活動しているような状態だ」「……というと?」東は、また困惑げに顔をしかめた。無理もない、亜夢の症状は、彼らにとっても初めての症例である。

「うむ……」藤川は、隣に座る貴美子と顔を見合わせる。

「亜夢の肉体と精神は、回復方向に向かっているのは確かよ。でも、現状ではここでの医療ケアでその足りないエネルギーを定期的に補ってあげる必要があるの」貴美子が、話を繋いだ。

藤川と貴美子の表情に陰りが見える。その治療は、長年、藤川夫妻の娘、実世に施されている治療とほぼ同じものであった。

「要するに、亜夢はここでしか生きることができない?」「ええ……」東の理解が正しい事を貴美子は認めた。

「だが希望はある」藤川の言葉に一同は顔を上げ、藤川の方へ顔を向けて次の言葉を求めた。

「彼女のインナーミッションの状況からすると、二つの魂は、元は一つであったと私は考えている」

「確かに……」カミラもコーヒーに口を付けながら、一月程前のミッションを思い返していた。

「分裂した原因が何であったのか……それは定かではない……だが、元々一つの魂なのだ。亜夢の心がこの対極ともいうべき『サラマンダー』と『メルジーネ』の気質を受け入れていくなら、再び分かれてしまった魂を一つに統合できるのではないだろうか?」


……分かれてしまった魂……もはや戻る事はあるまい……神取が膨らませた風船を嬉しそうに放り投げては、それを追いかけて遊んでいる。無邪気な子供のように走り回る少女。神取は目を細め、観察するように彼女を見守っていた。

……「神子」の魂は割れ、生み落とされた魂がこの子……この子が目覚めている時、「神子」の魂は半ば肉体から離れている……なれば……


ーーーー

……神子の魂を移し替える?……そ、そのようなことが?……

神取は神子の魂を持つと考えられる亜夢が、IN-PSIDの外では、長く生きられない事を見抜いていた。そこで、神取は神子の魂をIN-PSIDより"運び出す"為の一計を案じていた。

……『魂振り』の技を応用すれば可能だ……その方らとて、同じ技を用いて霊界より私の身体に間借りさせている……

……だ……旦那様のお身体に?……恥じらう様に問いかける彩女。一々、身悶えする彩女に溜息を漏らすと、神取は説明を続けた。

……そうだ……其方はちょうどこのあたりだ……左肩をさすって場所を示す。

……もっとも其方らは、意識することもなかろう……我ら使役人は、身をもって式神らの依代となっている……意図的に其方らを憑依させているわけだ……

……ほぇ~~……長年連れ添っている彩女も初めて聴く話であった。

……話を元に戻そう……この技を応用すれば、神子の魂をあの亜夢という少女から、其方の宿主、真世へと移し替える事も可能だ……

……神子の魂をあの小娘に!?……

……そうだ……神子の魂を運び出す、器となってもらう……

……な、何故?あの小娘を?……

……彼女の霊媒体質……ここ1か月近く其方を憑かせているが、心身の異常も見られない……おそらく霊的存在に対する受容性が高いのだろう……

……なぁるほど……霊体と共に形作られた扇子で、口元を覆い隠しながら彩女は頷く。

……神子の魂、受容出来るだけの器はそうそう無い……だが、真世はうってつけだ……どうやら、魂の肉体への定着が弱い家系なのだろう、院長にも似た気配を感じた……そして、あの母御の病の源もそこにある……だが……
神取は細めた横目で彩女を見やった。

……逆を云えば、この上ない良質な霊媒という事だ……

……なれど、あの小娘は信用できませぬ……いっそ妾達の様に、神子も旦那様の中に取り込めば事も楽に運ぶのではありませぬか?……

……それはできぬ……我々、陰陽師は、式神らに自らを乗っ取られぬよう、霊媒とは逆に、魂と肉体の繋がりを強化しているからな……神子の魂を容れられるほどの肉体と魂の隙は、私には無い……

神取は彩女を正面から見据える。

……よいか、彩女……其方の仕事は、真世の心の隙間を広げる事だ……神子を受け入れるには、ギリギリまで魂と肉体を引き離しておく必要がある……真世の心の闇を揺さぶれ……さすれば、おのずと良き器に化けようぞ……

……ほほほほ……これは面白き御役目……この彩女、しかと心得ました……

……器を壊しては元も子もない……決して事を急いてはならぬ……では参れ……

……承知……白檀のほのかな香りが暗闇へと溶け込んでいく。

ーーーー


「……っわ!?」視界が突然オレンジ色に包まれ、思わず神取は上擦った声を上げた。神取の鼻先を軽く叩いた風船は、バウンドしてそのままふわりと上へ舞い上がるも束の間、飛びあがった亜夢に捕獲される。

「くふっふっ!かんどり!へたくそ!」亜夢は、頰を膨らまして笑い転げている。「やりましたね……」鼻を軽く撫でながら、神取は亜夢のほうに向き直る。「さあ、もう一度」腕を広げて亜夢にもう一投を促す。「へへへ!いっくよぉ!それ!!」亜夢は意気揚々と両手を振りかぶり風船を放る。


……信頼?……

……そう、信頼だよ……


御所を出る前、師が口にした言葉が神取の脳裏を過ぎる。

……信頼か……なれば、こんな戯れもまた一興……

明後日の方に投げられた風船を、今度はなんなく捕らえる神取。「かんどり!すごい!!」神取のファインプレイに亜夢は目を輝かせる。

「では、今度はこちらから。いきますよ!」


「ともかく……亜夢が回復傾向にあるとは言え、今後どのような状況変化があるか……現段階では予測もできない。療養棟での生活も数年に渡る可能性もあるし、その間に再びインナーミッションの必要も出てくるやもしれん。皆、そのつもりでいてくれ」「はい」藤川の言葉に一同は短い返事で了承の意を示す。ミーティングはそのまま解散となり、カミラとアランは席を立つ。

「所長、ひとつよろしいでしょうか?」残ったコーヒーを手にとった藤川に、席に残った東がおもむろに声をかける。

「何かね?東くん」

東の顔が強張る。

「言いにくいのですが……亜夢をこの先、我々の元で預かるのは、やはりリスクが大きいのでは?」東の発言に振り返るカミラとアラン。

「んん?」「特に亜夢と直人のことです。リンクが確かなら起動試験のノイズもその後の亜夢の異常覚醒も説明がつきます。システムがリンクの影響を受けるとなれば、インナーミッションにもこれから先どんな支障が出るか……」

「……システムの問題であるならそれを適正化していけば良い」

「ですが!二十年前はそれであの水織川が……あの地震が起きたのでしょう!」

「それでは、東くん。君は亜夢をどうすべきと思うのかね?」「そ……それは……これから彼女を受け入れられそうな他の施設を探して……」貴美子、カミラ、アランは二人のやり取りをそっと見守る他なかった。

「君の言いたいことは理解できる……だが、我々には亜夢を保護する義務もある。それに……」藤川はおもむろに立ち上がると、部屋の隅のカウンターに置かれたコーヒーサーバーへ向かい、コーヒーを注ぎ足しす。

「20 年前の件、あれは事故だ。危機管理意識の欠落、技術の未熟、にも関わらず、PSI利用を急進させた……当時の我々と、社会全体の結果だ」藤川のカップはコーヒーで満たされていた。カップを手に取ると、藤川は向き直り席へと戻りながら言葉を続ける。

「その事で亜夢も直人も責められるべきでは無い……むしろ彼らとて被害者なのだ……」

東は椅子を跳ね除けながら、そのままの勢いで立ち上がる。

「……そ、それは私も理解しています!だから、だからこそ!」藤川は、何も言わずに東の震える肩をそっと叩く。温かく包み込むような手だ。肩に篭った力がスッと退いていくのを感じる。

「ありがとう……東くん。……だが、誰かを排除したり、犠牲にせずとも、きっと最良の道はある……私はそう信じている」「所長……」

「努力しよう……ただひたすらに。それが、我々のやるべき事だ。力を貸してくれ、東くん」

「……はい」俯いたまま、東は返事を返す。その口元には穏やかな笑みが戻っていた。

「皆も頼むぞ」「はい!」

昼下がりの日差しは、まだ高い。IN-PSID中央区画の六角塔は、真夏の日を浴び、白銀の煌めきを青空へと散りばめていた。



「では、またな。風間君」「お気をつけて」

仙堂と風間が短い挨拶を交わし終えると、車はパワーウィンドウを上げながら走り出す。

車が駐車場から消えるまで、風間は頭を下げて見送っていた。

「……やはり、あの男でしょう、警察とIN-PSIDを繋いだのは」車中、黒尽くめのボディーガードが静かに口を開く。

「だろうな……」仙堂は、流れゆく景色を眺めながら答えた。

「始末することもできますが……如何なさいますか?」

「ヤツにもまだ使い道がある……しばらくは泳がせておくがいい……ただ」「はっ……身辺をあたらせましょう」

仙堂が気怠そうに頷くと、黒尽くめの男もそれ以上口を開くことはなかった。

彼らを乗せた車は、大阪湾を背に南東の方へと走りゆく。
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