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第4章 燔祭

呪いと、祈り 5

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水平線と今日一日を生きた太陽が、今重なろうとしている。陽を虫食う、まばらに浮かぶ雲は、赤黒く焼かれ風に流される。

雄大な自然の織りなす絵画の前に、直人はしばらく立ち尽くす。

…………死ぬために……生まれてくる命など無いと……貴方は教えてくれた……

吹き付ける風に乗って、声が聞こえたような気がした。

「……そう……だったね……アムネリア……」

バイオリンケースの重みを手に感じる。

「父さん……」



「……それじゃあ……あの子は……咲磨は……」

幸乃の顔に明かりがさす。

「はい。ご覧のとおり……」

カプセル内モニターカメラの撮影画像をミーティングルームのモニターに表示しながら、医師は説明する。

「薄っすらと影は見えますが、痣もひいてますね。異質なPSIパルス反応が消えたとまでは言えませんが。緩和傾向ではありますよ。特に急性の場合、悪化するかは心身の状態や特徴にも左右されるので」

医師は、採取した咲磨の身体検査結果を示しながら続けた。

「見たところ身体の健康状態は良いし、問診からするとメンタルも非常に安定してますからね。我々のところでしばらく療養すれば、じき良くなると思います。ただ……」

「これは一時的な回復だ。郷に戻れば元に戻るでしょう」

医師の言葉を先回りした神取が見解を示す。

「えっ?」幸乃の顔が俄に曇る。

「どういう事?神取先生?」貴美子が説明を求めた。

「簡単な事です。あの郷から引き離したので、症状が緩和されたのです。現象化するPSIシンドロームは、この現象界の時空の制約を受ける。この子は、諏訪の一帯やあの郷の、地震によるPSI現象化の影響に過度に反応していると私は見ています」

「……そうなのかね?」藤川は、医師に向かって確認する。

「え、ええ……私も同じ見解です」目を丸めた医師は、まじまじと神取を見やる。

「……ああ、前に、似たような症例を見たことがありましてね」口元を和らげて神取は言う。

確かに彼には馴染みのある症例だった。もっとも彼の「本業」での話ではあったが……

「なるほど。それで、長期療養棟へ移したいと。あそこなら隔離にはもってこいだな」「ええ。あいにく<イワクラ>(ここ)も埋まりそうですし……」

藤川は、貴美子の意見を伺う。

「療養棟の部屋なら確保できるわ。私からもしばらくの入所をお勧めします。もちろん、この近くの施設の手配もできますが……如何かしら?須賀さん?」

「えっ!?ええ……と……でも……」幸乃は俯き言葉を探しているようだ。

藤川と貴美子は、幸乃の様子を怪訝に窺う。

「何を躊躇うことがあります?咲磨くんを守るには、これ以上の場所はありませんよ」

「守る?」神取の言葉が気にかかる藤川は、押し黙ったままの幸乃を見据える。

「……何か事情がおありのようだ。お話頂けますかな?」

「……は、はい」藤川の包み込むような声に、幸乃は重い口を開き始めた。


全身に夕日の温かみを感じながら、直人はゆっくりとバイオリンの弓を弦に走らせる。

ある古いアイルランド民謡とよく似た、温かくも物哀しい旋律を、バイオリンが紡ぎ出してゆく。

父が好んだこの名曲は、時代を超え、多くのアーティストによって歌い継がれ、バイオリンの初等教材にも取り上げられている。

直人は、幼い頃、記録ビデオで生前の父が、母のピアノ伴奏で下手くそながらもこの曲を熱っぽく演奏していたのを何度も見返していた。(母は父の下手さに、可哀想だからあまり見ないであげて、と嘆いていたが)

幼い頃からバイオリンを手にしてきた直人には、弾くのに苦労する曲ではない。だが、あの時の母と共に、音を紡ぐ悦びを精一杯表現しようとした父のように、自分は弾けるのだろうか?

……苦しみにある時、その苦しみを分かち合い、支えてくれる人がいる……

バイオリンの曲だとばかり思っていたが、後になって、そんな歌詞がある事を知った。

……そんな存在がいたなら……

旋律は、コーラス部を歌い始める。バイオリンの音色に乗せて、直人の胸中には、仲間達の姿が浮かび上がり、手を差し伸べていた。

……皆……オレは……

俯く真世、拳を握り締めた東。

……でも……

<アマテラス>に救いの手を求める死霊達が、仲間の手を取ろうとした直人を阻む。

……オレは……まだ……

続く高音に輝く間奏を、直人は高らかに歌い上げる事はできなかった。

どこまでも繊細な、細く咽ぶバイオリンの声が、黄昏の光の中へと吸い込まれていった。


時が止まった<イワクラ>のミーティングルーム。赤く差し込む西陽が、ジリジリとそこに集う皆の胸を焦がしていた。

事の顛末を一通り話し終えた幸乃は俯いたまま、身を固くして縮こまる。

皆言葉も出ない。震える幸乃の肩に、貴美子はそっと手を置いていた。


直人の奏でる旋律は、二度目のコーラスを歌い上げる。

……わかってる……皆が、力を分けてくれたこと……

……一人じゃ……とても生きてはいられない……


開け放たれたままの玄関から、森部と彼の部下が屋内へと足を踏み入れるのは、造作もなかった。

勝手知ったる我が家のように、奥の間へと足を踏み入れる森部ら三人。四畳半の和室の書斎のドアも開いたままだった。

灯りの落ちた部屋の中で、煌々と光を放ついくつもの静止画、動画が中空にフォログラム投影されている。

『とぉ様!』

動画の中で、今より少し幼い咲磨が語りかけてきた。

出産に立ち合い、産まれたての我が子を壊物のように抱きしめる、新米の父親。

運動会の親子競技で慌てふためく母と、喜びいっぱいの笑顔でボールを運ぶ幼い咲磨。

入学式……教団への入信式……御子神として、『お手当て』を施す姿。

構わず押入った三人は、撒き散らされた「写真展」を暫く呆然と眺めていた。

そこへ、ふらりと肩を落とした慎吾が帰宅する。森部の姿を目にするや否や、慎吾は、森部に縋りつき、膝を折って泣き崩れる。

森部は、冷徹なまでに表情ひとつ変える事なく、慎吾を見下ろしていた。


三度目のコーラスは、転調して半音上がり、一層高揚する。

夕食を終え、ベッドに横になる母、実世にそっとタオルケットを掛ける真世。微笑んで見せる娘の顔は、沈んでいる。夕食の時も、どこか上の空だった。

実世は、何を問うでもなく、ただ腕を広げ、静かに微笑みかけた。娘は少し戸惑いをみせたが、張り詰めた糸が切れるように、母の腕の中へと倒れ込む。母は口を閉ざしたまま、ただ娘の頭をゆっくりと撫でてやる。

真世は、母の胸の温かみの全てを余すことなく、自分の身体に刻み込んでいた。


落日の最後の煌めきが水平線を赤く染め上げる頃、旋律は、最高潮に達する。

白く燃え上がる大木。古代の翡翠の姫に導かれ、数多の魂が、大いなる光へと包まれていく。

……皆……孤独の苦しみの中で求めていた……

……オレにできることは……せめて……

……ナギワ姫……貴女のように……


水平線の彼方に夕日が消え入る。

今日の生命を名残り惜しむ赤やけた空を残して。

個室のベランダに佇み、空を見詰める亜夢の瞳は、茜色に染まった空の色を映しとっていた。

耳に聴こえるはずのない、どこからともなく響く音楽。

コーラスを懐かしむかのような短いコーダが、ゆっくりと静かに、亜夢の胸に染み込んでゆく。

「……だから……」無意識が唇を震わせていた。

「……一緒に生きるの……」

「……なおと……」

口からついて出た言葉が誰のものなのか、亜夢にはまだ、わからなかった。
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