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第四部 三章 「無色の花」

「汚れた華(前編」

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 ――無明華むめいかの花畑。
 その場を知ってから、ニーズヘッグはその地にへとよく行くようになった。
 一人の時もある。時には、クリアを待っていたかのように、彼女と過ごすことも。
 クリアの傍らには以前助けた妖精が傷を癒やし、自由に飛び交う姿があった。
 言葉はわからずとも、心が通じ合っているのか楽しげだ。
 本当は、この透明な花が化けたのではと、今でも思っている。
 一ではなく、彼女もまた魔族に近い存在なのだと。
 それなら、まだ彼女の近くにいることに納得ができた。
 
「ニーズヘッグくんも、此処が好き?」

「……べつに。ちょっと珍しいって感じか」

 花などにこれまでの数百年の間で、気にかけたことなどなかった。
 ただその変にある植物という認識。どれも変わらない。ただの植物だと。
 
「そういえば、返事まだ聞いてないけど……どうかな?」

「……ああ、え~っと」

「まだ決まってない? 私はいつでも待つからね」

「つーか、その妖精はどうなんだよ?」

「ん? この子とも、もうお友達だよ。ね~」

 問いかけに、妖精はクリアの肩に腰を下ろして応答。
 人間にここまで接触する光景もまた珍しい。
 それだけ心を許しているということだ。
 
「マジかよ……。お前それでいいのか?」

 妖精はニーズヘッグの問いに、リラックスとして首を縦に振る。
 それはこの状況を受け入れているという意味。
 本人がそれでいいなら、ニーズヘッグはそれ以上とやかくは言わない。
 
「ニーズヘッグくんって、そういえば友達いるの? ……あ。ひょっとして私と一緒で一人とか?」

「若干哀れんだ目を向けんなっ。いますー! 誰がぼっちだ!? お前と一緒にすんな!」

「へぇ~、そうなんだぁ。ニーズヘッグくんの友達、私見てみたいなぁ」

 これは逆効果だ。いらぬ好奇心をクリアに与えてしまい、ニーズヘッグは目を手で覆う。
 そんな期待満々と瞳を輝かせるな、と。今の言葉を撤回させたい。
 かといって、いないという嘘などもう言えない。

「どんな人? ……じゃなくて、どんな悪魔なのかな?」

「聞くな聞くなっ。俺の逃げ道がなくなる……!」

「ちょっとだけ。ね? ちょこっとだけだから~」

「そんな先っちょだけみたいなこと言うな!! ……勝手に言うと怒られるんだよ」

「そっかー。じゃあ、仕方ないね」

「……わかってくれればそれで――」

「じゃあさっ、他の友達教えてくれないかな?」

「だから言わねーっつってんだよ!!」

 疲れる会話。だが、悪くはもう思っていない。
 むしろ、慣れたというべきか。
 この珍妙な人間との会話に……。
 
「よかったら、今度友達にも会わせてほしいな。ニーズヘッグくんの友達なら、すっごく素敵な悪魔さんだと思うの」

 確かに。友人Aこと自慢のフレズベルグは、七の王の属なだけあって見た目に不満は一切ない。
 ただ、他者に対する毒舌が基本なことが課題だ。
 対等なニーズヘッグにも平気で「愚か者」の連発。
 クリアを見ればなんと言い出すか……。
 そのクリアの期待に応えることは、早々できる事ではなかろう。
 もっとちゃんと考えてから……、フレズベルグにも事情を話せるようになってからでないと。
 それが何時になるのか。
 人と魔族の時間の流れは違う。
 人間の一生も、魔族にとってはほんの少しのできごとの様に通り過ぎてしまう。
 今、こうしている時間は、不思議と長く感じるものだ。
 人間と同じ時間。同じ世界に炎蛇はいる。
 時折思った。
 こんな日常の時間が……まだ続けばいいのに……と。
 一瞬の瞬きで過ぎてしまうようなものではなく。
 人と同じ、一秒一分を体感することを……不思議と望んでしまう。
 
 ――どうかこの華のように。見えなくなるくらい、天高く舞い、消えないでくれ。

   ◆

 その日での外の活動を終えたクリアは、上機嫌で家にへと帰る。
 軽食を済ませ、また実験の準備。
 ある程度できれば、クリアは机の片隅にあった分厚い本にへと手を伸ばす。
 開いて白紙に記されていたのは、自分で書いた日記だ。
 数年前。村を追い出されてから始めた日課。
 最初の方は日付と、少しの文章。
 書くことがなく、ひと月ほどはそのような調子。
 徐々に書くことを増やし、自分の思い出を記していった。
 家にまで付いてきた妖精は、その日記を見下ろし小首を傾ける。
 人間の文字が読めないのか、察したクリアは日記のページを順番に読み聞かせていった。

「この頃ね、家の中にネズミが入り込んでね。ご飯を少しわけてあげたの。美味しそうに食べる姿が可愛くてね。いつまでも見てられたの」

 誰かに自分の日記を読み聞かせるなど初めてだが、クリアにとってそれは新鮮で楽しくある。
 妖精も飽きることなく、クリアに付き合った。
 実験の事など忘れ、丁寧にページをめくることで時間はすぐに過ぎてしまう。
 早めに切り上げて帰ってきたため、まだ日が傾き始めて間もない。
 時間が無限にすら感じられた。

「あ。此処からね、ニーズヘッグくんのことが書いてあるんだよ」

 これまで、一日一ページであった日記。
 この日を境に、一日のできごとは数ページにへと増え、長く記されていた。
 
「ニーズヘッグくんの羽衣、最初は全然触らせてくれなかったの。……それにね、「嫌い」って言われちゃったんだよねぇ」

 そんな事すらもちゃんと記されている。
 ニーズヘッグがクリアの事を「大嫌い」と言ったことも。数日後に偶然再会して、謝ったことも。
 どれもがクリアにとって輝かしい思い出なのだ。
 それから触れ合う悪魔との日常。それがどれだけクリアにとって幸せな時間だったか。
 時間は有限。いつか寿命が尽きて、その別れもある。
 クリアは不思議と、こう思ってしまった。

「……ニーズヘッグくんとの時間が、ずっと続けばいいのにね」

 その言葉の直後。
 クリアの中で違和感が生まれた。
 一滴の雫が、自分の心に落ちた様な感覚。
 じわりと染みついて……、胸の奥が一瞬ぞわりとした。
 
「…………あ、れ?」

 それがなんなのか、クリアにはわからない。
 日記のページをそれからは無言で進めてしまった。
 ニーズヘッグとの日々。幸せなひととき。
 それを振り返る度に、一滴、また一滴と滴り落ちてくる。
 
「なん、だろう……」

 初めて得た感覚に、クリアは戸惑う。 
 ページをめくらなければ、止まるかもしれない。
 だが、クリアは幸せな時間をもっと見たい。
 ニーズヘッグのこと。ニーズヘッグとの時間を……。
 それなのに……、手はいつの間にか日記を閉じてしまっていた。

「……おか、しいな。……風邪、かな?」

 体調が悪い。
 そんなことも今までなかった。
 ずっと健康で、ただ短命と言われて…………。

「………………あれ」




 ――誰が。そんな自分の命の短さを……語ったのだろうか。

 


 今まで受け止めてきた事が。当たり前の事がわからなくなる。
 言ったのは……誰?
 両親? 医者?
 誰かがそう言った記憶が……探せば探すほど謎に包まれていく。
 覚えている村の住人の顔を出すも、どれも違う。
 だが、確実に誰かが言ったことは覚えている。
 ただ、その言った者の姿が……記憶の何処にもない。
 
「でも……言ったよね……? 私に……は……」

 クリアは呆然と前を向く。
 誰に対して言っているのか、訳もわからず何もない虚空に向け問いかけた。
 その時、クリアは妙な感覚を得た。
 何もないはずの目の前で、見えない誰かが自身を指差す。
 そして、……こう呟いた。




 ――だって、お前のは壊れているから……。もう、直らないから……。

   ◆

 次の日。炎蛇は待ち合わせでもするように、無明華の花畑で空を見上げる。
 そよぐ柔らかな風。火山とは全く違う空気を静かに吸い込む。
 
「……アイツ、今日はこねぇのか?」

 毎日この場に来るわけではない。
 だが、その日は妙に気になってしまった。
 いつも現れる先を見ると、小さな影が目に入る。
 クリアと最近一緒にいる妖精だ。
 元気なく、思い悩んだ表情でこの場に訪れた。

「……? 今日はお前一人か?」

 首を傾け声をかけると、妖精は瞳をパッと開いてニーズヘッグに飛び寄る。
 そして、髪を引っ張った。

「な、何だよ!?」

「――っ! ――っ!!」

「わかったわかった! ……行けばいいのか?」

 通じれば、妖精は強く頷く。
 先に飛び去って、ニーズヘッグは妖精の後を追った。
 何故か、妙な胸騒ぎがする。
 クリアのことで、こんな風に感じるなど今までになかった。
 案内されたのは、クリアの家だ。
 妖精は一早く隙間の開いた窓にへと入り込む。
 続いて、ニーズヘッグも恐る恐る家の扉を開けた。
 ゆっくりと開き、中を確認。
 中途半端な実験器具の配置。いつもならちゃんと片付けているはずだ。
 途中でやめたのか。そう思いつつ中に入ると、クリアの姿を今日初めて目にする。
 彼女はベッドにいた。そして、遠い目で外を眺めている。
 炎蛇が近くに行くまで、気付くことができないほど。ずっと遠くを眺めて。

「……どうしたんだよ? コイツが呼ぶもんだから、なんかあったと思ったが」

 声をかければ、クリアは静かにニーズヘッグを見上げる。
 体調不良なのか、彼女の表情はいつもの明るさがない。
 
「…………ニーズヘッグくん」

「なんだよ、人間らしく熱でもあんのか? 悪魔からしたら無縁でしかないが」

 遠回しに脆弱な人間とあしらう。
 馬鹿は風邪をひかぬとかなんとか。そういうものを聞いたことはあるが、クリアにそれは不似合いとすら思える。
 少し寝ぼけているだけなのだと思っていれば、それは完全に覆してくる。
 
「……そう、なのかな。ちょっと、変な感じ……かも」

 本人は、何かを思い詰めた顔でうつむき、力なく呟く。
 思わず、ニーズヘッグは肝が冷える感覚を与えられてしまう。
 
「なんかね、最近変な声が聞こえちゃうっていうか……。よく、わかんないの」

「……変な声?」

「たぶんね、ずっと前から聞こえていたの。お前は壊れているから……って。壊れたものは……直せない……って」

 よくわからないと言うわりには、言われたことを覚えている。
 それはただの錯覚とは思えない。
 
「私……なんか変なのかな? 私って、なんなのかな?」

「……」

「なんかね、胸の奥が変なの……っ。変なのが混ざっていくっていうか……周りが、黒ずんでいくのっ」

「落ち着けっ。何言ってんだよお前っ」

「私が知りたいのっ。今まで綺麗だったのに、それが汚れちゃうのっ。こんなのおかしいよっ。今でも時々部屋の中がおかしいのっ。外も……。おかしいよ……、こんなの……変だよ」

 クリアの目は、正常だ。妙な症状が起きているとはとても思えない。
 ただ、妙な幻聴と幻覚が見えてしまっているのか、それにずっと怯えてしまっている。
 あの恐れを知らないクリアが、……酷く混乱していた。

「……ちょっと、来いっ」






 混乱するクリアをニーズヘッグは両腕で抱える。
 家から飛び出し、森を抜けて……、行き着いた先は無明華の花畑だ。
 中心まで進むと、クリアをその場に下ろした。
 
「……」

「……落ち着かないなら、俺が一緒に此処にいてやるから。家よりは、マシなんじゃねぇか?」

 クリアにとって一番のお気に入りの場所。
 澄んだ空と柔らかな香りを出す花。
 クリアは風で舞う透明な花びらを見上げ、心を澄ました。
 透明な花は空に溶けていく。どんな汚れも洗い流して行くように、綺麗に……。

「……すごく、気持ちいい」

「だったらよかったな。……嫌になったら此処に来ればいい。俺も、此処は嫌いじゃないからな……」

「…………うん」

 確信もなにもなかった。
 ただ、この花ならとニーズヘッグは頼って来た。
 落ち着いたクリアは花畑で横になり、ろくに眠れてなかったのかそのまま眠りにつく。
 穏やかに眠るクリアを見て、ニーズヘッグは少し嫌な事を考えてしまう。
 短命なクリアはもう限界ではないのでは……と。
 もしそうなら。このまま目覚めないかもしれない。
 それなら、いっそ一番の場所で静かに息を引き取った方が、最も苦しまずに死を迎えられるのではないだろうか。
 自分からクリアに触れる。
 柔らかな頬を撫で、ちゃんと生きているかを確認してしまう。
 人間の一生など短いものだ。それなのに、それを認めるのはこんなにも辛いという感情が出てくるものなのか。
 当然のことが残酷であると実感する。
 
「お前は……壊れてなんかいねぇよ……。他の奴とズレていても、お前はちゃんと……此処にいる」
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