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ある春の日の一コマ
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大学生になった息子がかつて使っていた机で一仕事を終えた瑞希は、目の前の書類を精査して満足げに頷いた。
「うん、完璧。これで今日のノルマは終了!」
「ただいま」
「あ、お帰りなさい、直」
瑞希が書類をクリアファイルに纏めて立ち上がったタイミングで、春休みに突入して帰省した息子の直が顔を出し、机に乗っている書類を認めて呆れ気味に声をかけてきた。
「何だ……、またバイト中? 大学受験の願書提出が終わったばかりなのに」
それに瑞希が、苦笑いで応じる。
「確かにかき入れ時は過ぎたけど、一年中入れ替わり立ち替わり資格試験はあるから、願書提出期間も通年なのよ」
「インターネットで願書提出できる場合もあるけど、まだまだ手書きの需要は無くならないか……。それにしても、世の中、そんなに悪筆が多いのか? それに願書の字が綺麗だからと言って、それが合否に係わるわけじゃ無いだろうに」
荷物を起きながら遠慮の無い事を言い出した息子を、彼女は軽く嗜めた。
「失礼な事を言わないの。そんなに酷い人は滅多にいないし、入試に受かったから験担ぎと言って、願書代筆を依頼してくる人が多いのよ。それに履歴書とかもね」
「それにしてもな……。そこまで他力本願って、どうなんだ?」
どうにも納得しかねた直だったが、そんな息子を瑞希は笑顔で宥めた。
「良いじゃない。誰かに頼って貰えて必要とされるのは、私は純粋に嬉しいわ。誰かの幸せの為に力を尽くすっていう、やり甲斐があるもの」
「そうか。頑張って」
「あ、せっかく帰って来たけど、これから瀬野尾さんと約束があるのよ。お受験の願書代筆を頼みたい知り合いがいるんですって。お茶しながら、話を聞いてくるわ」
「分かった。俺は勝手にしてるから、出掛けて構わないよ。飯くらいは炊いておくし」
「そう? じゃあ夕方までには帰るから」
「行ってらっしゃい」
そして機嫌良く出掛けて行った母親を見送った直は、しみじみと以前の生活を振り返った。
「本当に、明るくなったよなぁ……」
かつて自分が小学生の頃、社交的でママ友グループでも中心的な存在だった瑞希だが、とあるグループ内のSNSのやり取りでトラブルが勃発し、それがきっかけでグループ内から孤立した上、その時のSNSでの凄まじい炎上ぶりにすっかり精神的に参ってしまった彼女は、引きこもりに近い状態に陥ってしまった。
その頃には直も学校に通えなくなり、転校の為に転居する羽目になったが、幸い直自身は転校先で馴染めて問題なく登校できたものの、瑞希は一度も学校に出向く事無く過ごし、以前と変わらず外出もしないまま過ごしていた。
「『とにかく、少しでも世間と係わっていた方が良いから』と、和実さんが声をかけてくれたくれたのはいつだったかな?」
そんな瑞希の状況を心配し、昔からの数少ない友人の一人が紹介してきたのが、各種代筆の仕事だった。
現金収入としては実に微々たるものではあったが、賞状技法士の資格保持者で結婚前は筆耕士として働いていた彼女の経歴を活かしつつ、SNSはおろか電話での通話まで拒否していた彼女に、外部との最小限のやり取りをさせてリハビリにしようとの目論みだった。
無理に外に出なくともできるそれが見事に奏功し、依頼者から感謝の言葉をかけられる事で徐々に自信を取り戻していった瑞希は、五年以上かけて少しずつ外部と接触するようになっていった。その結果、通年に渡って口コミで依頼が舞い込むようになった今では、引きこもる前よりも交友関係が広がっているありさまだった。
「それにしても……。紙とペンとスキルだけで生き甲斐を感じて幸せになれるんだから、本当に母さんはお手軽だよな」
そんな憎まれ口を叩いた直だったが、それは、未だに生き甲斐とはどんな物かを掴みきれていない彼が、それを得られた母を羨ましく思っている事への、裏返しに過ぎない台詞だった。
「うん、完璧。これで今日のノルマは終了!」
「ただいま」
「あ、お帰りなさい、直」
瑞希が書類をクリアファイルに纏めて立ち上がったタイミングで、春休みに突入して帰省した息子の直が顔を出し、机に乗っている書類を認めて呆れ気味に声をかけてきた。
「何だ……、またバイト中? 大学受験の願書提出が終わったばかりなのに」
それに瑞希が、苦笑いで応じる。
「確かにかき入れ時は過ぎたけど、一年中入れ替わり立ち替わり資格試験はあるから、願書提出期間も通年なのよ」
「インターネットで願書提出できる場合もあるけど、まだまだ手書きの需要は無くならないか……。それにしても、世の中、そんなに悪筆が多いのか? それに願書の字が綺麗だからと言って、それが合否に係わるわけじゃ無いだろうに」
荷物を起きながら遠慮の無い事を言い出した息子を、彼女は軽く嗜めた。
「失礼な事を言わないの。そんなに酷い人は滅多にいないし、入試に受かったから験担ぎと言って、願書代筆を依頼してくる人が多いのよ。それに履歴書とかもね」
「それにしてもな……。そこまで他力本願って、どうなんだ?」
どうにも納得しかねた直だったが、そんな息子を瑞希は笑顔で宥めた。
「良いじゃない。誰かに頼って貰えて必要とされるのは、私は純粋に嬉しいわ。誰かの幸せの為に力を尽くすっていう、やり甲斐があるもの」
「そうか。頑張って」
「あ、せっかく帰って来たけど、これから瀬野尾さんと約束があるのよ。お受験の願書代筆を頼みたい知り合いがいるんですって。お茶しながら、話を聞いてくるわ」
「分かった。俺は勝手にしてるから、出掛けて構わないよ。飯くらいは炊いておくし」
「そう? じゃあ夕方までには帰るから」
「行ってらっしゃい」
そして機嫌良く出掛けて行った母親を見送った直は、しみじみと以前の生活を振り返った。
「本当に、明るくなったよなぁ……」
かつて自分が小学生の頃、社交的でママ友グループでも中心的な存在だった瑞希だが、とあるグループ内のSNSのやり取りでトラブルが勃発し、それがきっかけでグループ内から孤立した上、その時のSNSでの凄まじい炎上ぶりにすっかり精神的に参ってしまった彼女は、引きこもりに近い状態に陥ってしまった。
その頃には直も学校に通えなくなり、転校の為に転居する羽目になったが、幸い直自身は転校先で馴染めて問題なく登校できたものの、瑞希は一度も学校に出向く事無く過ごし、以前と変わらず外出もしないまま過ごしていた。
「『とにかく、少しでも世間と係わっていた方が良いから』と、和実さんが声をかけてくれたくれたのはいつだったかな?」
そんな瑞希の状況を心配し、昔からの数少ない友人の一人が紹介してきたのが、各種代筆の仕事だった。
現金収入としては実に微々たるものではあったが、賞状技法士の資格保持者で結婚前は筆耕士として働いていた彼女の経歴を活かしつつ、SNSはおろか電話での通話まで拒否していた彼女に、外部との最小限のやり取りをさせてリハビリにしようとの目論みだった。
無理に外に出なくともできるそれが見事に奏功し、依頼者から感謝の言葉をかけられる事で徐々に自信を取り戻していった瑞希は、五年以上かけて少しずつ外部と接触するようになっていった。その結果、通年に渡って口コミで依頼が舞い込むようになった今では、引きこもる前よりも交友関係が広がっているありさまだった。
「それにしても……。紙とペンとスキルだけで生き甲斐を感じて幸せになれるんだから、本当に母さんはお手軽だよな」
そんな憎まれ口を叩いた直だったが、それは、未だに生き甲斐とはどんな物かを掴みきれていない彼が、それを得られた母を羨ましく思っている事への、裏返しに過ぎない台詞だった。
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