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(7)豆腐メンタル数学オタク

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 店番をしているうちに常連客も覚えてしまった千尋は、ある日、いつもの少年三人組が一回り小柄な少年と連れ立って来たのを見て、思わず尋ねた。

「あら、今日は珍しく、チビッコ連れなのね。弟なの?」
「ううん、同じマンションの子。今日はおばさんが急に夕方に用事ができたから、面倒見てるんだ。学童クラブとかは、急に参加するのは難しいし」
「へえ? 結構良いところあるじゃない。感心感心。そっちの子には、何か飲み物をおまけしてあげるわ」
「サンキュ、お姉さん」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 初顔の小さな子にはジュースを奢ると、少年達はいつものように隣のガレージに移動した。その後、立て続けに何人か来店し、その対応を済ませてから、千尋は隣の様子を見に行ってみる。

「あんた達がちゃんと面倒を見ているか、心配して来てみれば……。やっぱりゲームをさせているだけじゃないのよ」
 今日ぐらいは何か飲み食いしてから子供らしく公園にでも遊びに行ったかと思いきや、弟分にゲームをさせつつ、「今だ、押せ!」とか「そこは連打!」とか横で指示している彼らを見て、千尋は呆れ返った。しかし少年達は、全く悪びれない笑顔を見せる。

「そう言うなって」
「お姉さん、頭固いな~」
「もう、おばさんって呼んでもいいんじゃね?」
「こら、あんた達。聞こえてるわよ!」
 そんな苦笑まじりの会話をしていると、突然ガレージの隅の方でクロが鳴き声を上げた。

「なぉ~ん、にゃう、なぅにゃ~っ!」
「え? なんだ?」
「クロ?」
「あ、クロ! あんた、ランドセルを引っかいちゃ駄目じゃない! 傷がつく……、って、付いてない?」
 前脚で、誰かのランドセルを引っ掻く動作をしていたクロに、千尋は思わず焦った声を出したが、問題のランドセルに全く傷がついていない事に遅れて気が付き、戸惑った表情になった。同様にそれを認めた少年達も、怪訝な顔になる。

「爪、引っ込めてるみたいだな」
「クロ、どうした?」
「にゃっ! うにゃあっ! ふぎゃっ!」
「何だ?」
「取り敢えず、あのランドセルは誰のなの?」
「裕貴のだけど……」
 相変わらずランドセルの蓋の部分を撫でる動作をしながら、何やらクロが訴えていように見えた為、千尋が確認を入れた。そして新顔の少年の物だと分かった彼女は、なるべく優しく声をかけてみる。

「ねえ、君。ひょっとして食べられなかった給食を、こっそり持って帰って来たの?」
「ちゃんと食べたよ!」
「なうっ! にゃうぁ~! にゅあ~!」
「何か、人に見られたら拙い物でも、そこに入ってる?」
「……しゅくだい」
「宿題? 別に人に見られて、拙い物では無いわよね?」
 勢い良く反論したかと思ったら、次の瞬間俯いて消え入りそうな声で白状した裕貴を見て、クロは漸く鳴くのを止め、千尋は本気で首を傾げた。すると少年達が、妙に分かったような表情で言い出す。

「お姉さん、分かってないな~。宿題に出された物が、採点されて返ってきたんだろ?」
「その点数が、ちょっと悪かっただけだよな?」
「そんなの気にするなよ」
「……ちがうの」
「え?」
「何がどう違うんだ?」
「宿題ができなくて、先生に『宿題のプリントを無くした』って嘘を言ったの。そうしたら『もう一枚あげるから、明日までに書いてきなさい』って……」
「あら、それなら尚更遊ぶ前に、宿題を終わらせないといけないんじゃない?」
「だって……、だってぇぇっ、できないよぅっ……、うぇえぇぇっ!」
 思わず口を挟んだ千尋の台詞が契機になって、裕貴が盛大に泣き出した。その為千尋は勿論、少年達も動揺する。

「あ、お姉さん! 小さな子を泣かせるなよ!」
「私のせい!? 違うわよね!?」
「裕貴、どんな宿題なんだ?」
「……さんすう」
「算数か……」
「うん、お前の気持ちは、よ~っく分かるぞ」
 深く同意した少年達だったが、千尋は驚いたように目を見張って主張した。

「はぁあ? 何で算数が嫌いなの!? 一番素敵な教科じゃない!?」
「はぁ? 何言ってんだよ」
「信じらんね~」
「裕貴、気にすんな。このお姉さんは変態だ」
「何ですって!? あんた達、どうして算数の魅力に気が付かないのよ!?」
「算数の魅力ぅ~?」
「何だよ、それは」
「意味分かんね~」
 揃って胡散臭げな表情になった少年達を半ば無視しながら、千尋は裕貴の前に膝を付き、両手で軽く彼の肩を掴みながら、真顔で言い聞かせ始めた。

「裕貴君って言ったわよね?」
「うん」
「あのね、良く聞いて頂戴。大人になって社会に出たら、決まった正解が無かったり、人によって答えが違う事とかが、物凄くたくさんあるの。それはなんとなく分かる?」
「え、えっと……。な、なんとなくなら……」
 恐る恐る頷いた裕貴に、千尋は話を続ける。

「それにね? 学校で教わる事の中には、算数以外の教科だと明確な答えが無かったり、内容が覆ったりする事がたくさんあるのよ?」
「え?」
「例えば国語とかだと、単に漢字の書き取りとかふりがなをふるみたいな問題だと、確かに答えは一つに決まっているけど、『これが示す情景を書け』とか言われたら、それは回答者の個性とか知識量に左右されるでしょう?」
「えっと……、そう、なのかな?」
「お姉さん。二年生相手に、そういう難しい事を説教するなよ」
 首を傾げた裕貴を見て周りから窘める声が上がったが、千尋の耳には入らなかった。

「現に、大学入試で『この文章での作者の主張を選択せよ』とかの問題を、その文章を書いた当の作者に解いて貰ったら、『私はこんな内容を考えていない』と即答されて、問題を作った人が赤っ恥をかいた話だってあるんだから」
「そうなの?」
「……うわ、人の話、聞いてないぞ」
「暫く放っておけ」
「社会だって、昔の資料が間違っていて後から訂正される事があるし、国ごとの立場で歴史的事実の捉え方が百八十度違う事なんてゴロゴロあるし、理科だって今でも新しい発見が一杯あって、訂正される事がたくさんあるのよ? メートルだってキログラムだって、昔は基準となる原器があったけど、今は長さは光の波長で決められているし、重さに関してはプランク定数を元にした測定に移行するかどうか、国際学会で協議されている段階だもの」
「え、ええと……」
 立て板に水の如く続けられる説明に、殆どついていけなかった裕貴は本気で困った顔になったが、千尋はその口調を益々ヒートアップさせた。

「それらと比べたら! 先人が確立した公式に数字を当てはめて解けば、あらまあ不思議! 間違えなければ、たった一つの答えが導き出せちゃうのよ!? なんて素敵なの!!」
「間違えなければな」
「そう! だから難問を攻略した時の達成感は、ハンパないわよねっ!」
「………」
「だから、今のあの人に、何を言っても無駄だって」
「黙ってろよ。気が済むまで喋らせとけ」
 思わず皮肉げに口を挟んだものの、満面の笑みで返された友人を、他の二人が諦め顔で宥める。

「あぁぁぁっ! 何て美しくて、世界が広がるオイラーの等式!! 整然と分割された図形の、整えられた線長非と面積比を美しく示すチェバの定理!! 単なる微積分に留まらない、化学や生物分野でのニューラルネットワークにまで用いられるシグモイド関数!! 画期的な人類の文明の進歩は、全て数学の進歩から始まっているのよっ!!」
 そんな歓喜の叫びを上げた千尋に、これまで黙って話を聞いていた裕貴が、控え目に尋ねた。

「あの……。お姉さんは、たくさん算数を勉強したの?」
「そうよ! 数学が大好きだったから、大学でもそれを専攻したしね! あ、専攻したって言うのは、それを専門に勉強したって事よ。分かる?」
「うん、分かる。凄いね、お姉さん、頭いいんだね。僕、全然算数ができないのに」
「それほどでも無いけど」
 素直に感心した表情で言われた千尋は、照れくさそうに笑った。しかし次に裕貴が口にした疑問で、その表情が一変する。

「でも、そんなに頭がいいお姉さんが、どうしてここで駄菓子屋さんをやってるの?」
「…………っ!」
 裕貴が何気なく些細な疑問を口にした瞬間、千尋の表情が一瞬にして凍り付き、勢い良くその場に崩れ落ちた。そして床に座り込んだまま、ブツブツとなにやら独り言を漏らし始める。

「え? お、お姉さん!? どうしたの? 大丈夫!?」
 いきなり目の前で座り込まれた裕貴は激しく動揺したが、そんな彼の肩を少年達が軽く叩きながら、宥めるように囁いた。

「裕貴……、お前はたった今、触れてはいけない闇に触れた……」
「えぇ!?」
「いや、小二に空気読めっていう方が無理だろ」
「そうそう、これは不可抗力だ。裕貴、気にするな」
「で、でも……」
 おろおろしながら彼が視線を向ける先で、千尋は相変わらずへたりこんだまま、乾いた笑いを漏らしていた。

「ふっ、ふふふふふっ……、そうよ、そうなのよ……。いくら数学ができるからって、そんな物、全く就活の足しになんかならないのよ……」
「って言うか、お姉さん。面接の時に『大学での専攻は?』とか聞かれて、ついさっきのノリでやらかして、面接官にドン引きされたりして」
「…………」
 茶化すように言われた千尋は、床に両手をついて項垂れた。それを見た少年達が、揃って顔を引き攣らせる。

「え? まさかマジ? 冗談のつもりだったんだけど……」
「お前な……。俺達、小五なんだから、もう少し空気読もうぜ?」
「裕貴。これが頭が良くても、残念な大人の見本だ。できるだけ、こうならないようにしろよ?」
「あ、あの、でも……」
 周囲を見回しながらまだ狼狽している裕貴だったが、ここでクロがさり気なく歩み寄って来た。

「うにゃあ~ん!」
「え? クロ?」
「どうした?」
「にゃうっ!」
 そして座り込んでいる千尋の前に座ったクロは、鋭く一声鳴いた。それを耳にした千尋は、胡乱な目をクロに向ける。

「……何よ。今はあんたに構っていられる、心境じゃないんだけど」
「なぅぉ~ん、なぅぉ~ん」
 するとクロは千尋を宥めるように鳴きながら、爪を引っ込めたまま伸ばした右前脚で、床に付いている千尋の手の甲を繰り返し撫でた。

「ひょっとして……、慰めてくれてるの?」
「うにゃっ」
「ねっ、猫に憐れまれるなんて、私はどうしようもない、猫以下の屑人間なんだわぁぁ――っ!」
「なにゃっ!?」
 千尋がいきなり床にうずくまって泣き叫んだ為、クロは驚いた声を出しながら後方に50cm程飛び退いた。それを目の当たりにした少年達から、疲労感満載の溜め息が漏れる。

「あ~、クロ。お前が空気を読むのは、流石に無理だよな」
「はぁ……。このお姉さん、豆腐メンタルな数学オタクだったのかよ……」
「本当に、面倒くさいなぁ」
「どうしよう……」
「裕貴、このお姉さんが泣き出した事とお前は、直接関係ないからな?」
「そうそう、気にするな」
「でも……」
 ここまでひたすら狼狽えていた裕貴だったが、何やら決意したようにまだむせび泣いている千尋の前でしゃがみ込み、真剣な顔で話しかけた。

「お姉さん、泣かないで。お姉さんが算数が素敵だって言うなら、僕も好きになれるように頑張ってみるから」
 慰めるつもりでそう言ってみた途端、千尋は泣くのを止めて勢い良く顔を上げ、裕貴の肩を掴む。
「本当!?」
「……う、うん」
「よし! お姉さんに任せなさい! 絶対裕貴君を、算数が好きで好きでたまらなくしてあげるわっ! 取り敢えず宿題の攻略よ! ランドセルを持って、お店の方に来て! 先に行ってスペースを空けておくから!」
「……うん、分かった」
 力強く宣言したかと思ったら、千尋は勢い良く服の袖で涙を拭い、そのままの勢いで店に駆け戻って行った。それを呆然と見送ってから、戸惑い気味に裕貴が周囲の者達を見回す。

「えっと、お兄ちゃん……」
「頑張れ。健闘を祈る」
「にゅなぁ~」
「……うん」
 真顔で激励された彼は少々不安な表情で、自分のランドセルを持って店内へと向かった。
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