ハリネズミのジレンマ

篠原 皐月

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第68話 急転

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 夕食の後、部屋に籠って仕事をすると言っていた芳文に、頼まれた時間に珈琲を淹れて持って行った貴子は、ドアをノックしようとして中から響いて来た怒鳴り声に、思わず手を止めた。

「おい、話は分かったがちょっと待て! いきなりにも程があるぞ!? 大体……、は!? もう着いただぁ!? お前、運転中にかけてやがったのか? 通報するぞ! 道交法違反で捕まりやがれ!!」
 その後は無言になった為、話は終わったのだろうと見当を付けた貴子は、ノックして室内に入った。

「芳文? 怒鳴り声が部屋の外まで聞こえてたわよ? どうしたの?」
 芳文の手のスマホを見て誰かと電話していたとは思ったものの、貴子がカップを差し出しながら問いかけると、相手は溜め息を吐きながらカップを受け取り、忌々しげに告げた。

「どうもこうも……、今から隆也の奴が、ここに来る」
「え? ……どうして!?」
 一瞬当惑してから貴子が声を荒げると、芳文は疲れた様に付け加えた。

「理由は色々あるが……。さっき、『今からここのマンションの訪問者用駐車スペースに、車を入れる』と言っていた」
「そんなまさか」
 そこで開け放っていたドアの向こう、正確に言えば玄関の方から、微かな物音が伝わってくる。

「ああ、おいでなすったか?」
「嘘!?」
(なっ、何で!? どうして今の今まで音沙汰が無かったのに、急に現れるのよ?)
 どうやら以前の様に、持っていた合鍵で勝手に入って来たらしいと分かった貴子は、完全に狼狽した。そして咄嗟に近くに隠れる所はないかを探し、目に付いた場所に突進する。
 いきなり掃き出し窓に向かっていった貴子が、閉めていたカーテンを隅に寄せた為、ベランダに逃げ込むつもりかと思いきや、そんな芳文の予測に反して、彼女は纏めたカーテンの中に入ってきつく端を握り込んだ。その結果、目の前にできた不自然な円柱形の布の塊を眺めながら、芳文は呆れた返った声をかける。

「貴子。お前一体、何をやってるんだ?」
「わ、私、ここには居ないから!」
「お前……。動揺すると、とことん阿呆だな」
 心底呆れた口調で、芳文が感想を漏らすと同時に、ドアを開けて隆也がやって来た。

「芳文、邪魔するぞ」
「入ってから、断りを入れられてもな…」
 相変わらずの友人の傍若無人さに芳文が遠い目をしたが、隆也はすぐに不自然極まりないカーテンを認めて尋ねる。

「あれは何をやっている?」
「今現在この部屋には、俺とお前以外、誰も居ないらしい」
「ほう? 随分面白い事を言うじゃないか」
 いささかやけっぱちに芳文が告げると、隆也は如何にも面白そうに笑った。そして問題のカーテンに歩み寄って、横柄に言い放つ。

「おい、貴子。さっさと出て来い」
(そんな事言われても『はい、そうですか』なんて出ていけるわけ無いじゃない。第一、どんな顔をして出て行けば良いの!)
 とても進んで顔を見せる勇気は無く、貴子がカーテンを握り締めながら困惑しきっていると、何やら移動する気配が伝わってきた。 

「そうか。出てくる気は無いか。それなら仕方がないな」
 そして引き出しを開け閉めする音が何回か聞こえてから、すこぶる冷静な隆也と、狼狽気味の芳文の声が聞こえてきた。

「芳文、借りるぞ」
「おい隆也! 何をする気だ!」
 それと同時に自分を挟んで二人が立ち、頭の上の方でカーテンを掴まれている様に不自然に引っ張られ始めた事で、貴子の困惑は増幅した。
(え? 二人で何をしてるの?)
 しかし続く二人のやり取りで、おおよその事情が分かった。

「出る気がないなら、仕方がない。このまま簀巻きにして持って行く」
「馬鹿野郎! カーテンは全部オーダーメイドなんだぞ!? その鋏を離せ!」
「カーテンの一枚や二枚、どうって事無いだろう。ケチくさい奴」
「お前はもう少しこだわれ! 室内のカーテン全部、交換になるだろうが!」
(鋏って……。まさか私の頭の上から、このカーテンを切る気!? そんな乱暴な!)
 そこで貴子は慌ててカーテンから手を離し、その中から勢い良く外に飛び出した。

「ちょっと隆也、止めて! 何もカーテンを切る事は無いでしょう!?」
「ああ、出てきたな。芳文、カーテンは命拾いしたぞ」
「どうやらその様だな」
(う、思わず出ちゃったけど……)
 勢いに任せて出てしまったものの、満足そうな表情の隆也と、疲労感満載の芳文を前にして、貴子は顔を引き攣らせた。そして満足そうな表情から一転、貴子を見て眉根を寄せた隆也が、不機嫌そうに感想を述べる。

「やっぱり思った通りだな」
「……何が?」
「色々だ」
 何を言われるのかとビクビクしながら相手の出方を窺った貴子だったが、そこで隆也はいきなり彼女の手首を掴んで歩き出した。

「じゃあ、さっき言った様にこいつは連れて行く。今まで世話になったな、芳文。荷物は後で纏めて送ってくれ」
「え? 何言ってるのよ!?」
 玄関に向かってぐいぐい引っ張られていく貴子の後に付いて、芳文が笑いながら軽く手を振る。

「了解。じゃあ貴子、あまり暴れるなよ?」
「ちょっと芳文、何言ってるのよ! それに手を離して!」
 玄関で靴を履こうとしていた隆也の手を振り払おうとした貴子だったが、ここで隆也が一睨みした。

「おとなしく付いて来い。夜のドライブで事故ったりしたら、洒落にならない。暴れるならトランクに詰めるぞ?」
「……分かったわよ」
 本気以外の何物でも無い声音に、これ以上抵抗したら本当にトランクで運ばれると悟った貴子は、大人しく頷いて自分も靴を履いた。
 半ば強引に車に乗せられた貴子は、当初何を言われるのかと助手席でビクビクしていたが、予想に反して隆也が黙って運転を続けている為、些か拍子抜けした。しかしそれが首都高に乗ってから二十分以上も続くと、さすがに腹が立ってくる。
(気まずい……。何なのよ、人を連れ出しておいて無言って)
 しかし内心の怒りをそのままぶつける勇気は無く、恐る恐る声をかけてみた。

「あの……」
「何だ?」
 隆也が平然と応えてきた為、貴子は密かに安堵しながら、取り敢えずこの間気になっていた事を口にしてみた。、
「その……、以前まで送られてきていた小説なんだけど、続きはどうなってるの?」
 それに隆也が、如何にも忌々しそうに答える。

「俺も続きは知らない。あいつ『残りのデータを、ついうっかり間違って消してしまいました』とかほざきやがった」
「『あいつ』って……、東野薫の事よね。よりにもよって、あのタイミングで?」
「ああ。前々から思っていたが、本当にろくでもない奴だ」
(本当に、先輩後輩揃ってろくでもないわね!)
 吐き捨てる様に隆也は口にしたが、正直貴子は同類だと思った。それからまた車内に沈黙が満ちたが、貴子が再度声を絞り出す。

「その……」
「何だ」
「あのアザラシなんだけど、あれを購入したのって、ひょっとして……」
 かなり自信無さげに尻つぼみに口にしたが、それで十分隆也には伝わったらしく、運転しながら笑いを堪える様に言い返してくる。

「随分気に入ったみたいだな。あれも後から送る様に芳文に言っておいたから、心配するな」
「そう……」
(じゃなくて! そもそも、私をどこに連れて行こうとしてるのよ!)
 うっかり素直に頷いてからそもそもの疑問に思い至った貴子は、気合いを入れ直して問い質した。

「あのね、どうして私を強引に連れ出したわけ? それにあそこの出入りは監視されてる筈なのに、顔を見られて構わないの?」
 若干皮肉が籠もっていた台詞に、隆也はチラリと貴子の方に目を向けてから、淡々と説明した。

「芳文にさっき言ったんだが、聞いてなかったか?」
「何を?」
「あそこの監視は、今日の昼に解除された。お前のマンションと、高木さんの家もな」
「そうだったの。意外に早かったわね。もう少しかかるかと」
「だから高木さんの家に、向かっているところだ」
 自分の声を遮りながら淡々と告げられた内容を耳にした貴子は、驚きのあまり目を見開く。

「高木さんの家!? ちょっと止めて! どうして!」
 慌てて左腕を掴んで非難の声を上げた貴子に目を向けないまま、隆也は緩やかにハンドルを切り、走行車線を移動させつつ、苦々しい口調で続けた。

「お前が最近、まともに食って寝てないからだ」
「人を欠食児童みたいな言い方しないでよ。ちゃんと作って食べてるし、睡眠だって取ってるわ」
「回数や時間じゃなくて、質の問題だ。お前、以前話してただろう? 面倒をみてくれた家政婦に『美味しいご飯を食べて温かい布団で眠れたら、それほど不幸だとは思わないものだ』と言われたと」
「確かにそうだけど」
「今のお前を一人で放っておくと、どちらも無理そうだからな。本当に手の掛かる奴」
「…………」
 そこで呆れた様に溜め息を吐かれ、自分でも体調、特に精神面で些か問題があると自覚していた貴子は、弁解できずに黙り込んだ。
 それからまた数分沈黙が続いてから、隆也が思い出した様に口を開いた。

「そういえばこの前、お前の父親もどきに会った」
 しかしそれを聞いても、貴子は片眉をピクリと小さく動かしただけで、無言を保った。対する隆也も返事は期待していなかった為、構わずに話を続ける。

「春に出くわした弟もどき同様、お前とは似ても似つかない、貧相な奴だった」
「そうね」
 思わずクスッと笑いを零した貴子に向かって、ここで隆也が爆弾を投下する。

「だが、髪質だけは同じで、艶のある黒髪でまっすぐだな」
「…………っ!」
 指摘された瞬間、貴子は憤怒の形相になって運転席の隆也を睨み付けた。その鋭い視線を顔の左側に受けている事を認識しながら、隆也は前方から視線を外す事無く、冷静に話を続ける。

「だからお前、カラーリングと軽いパーマをかけていたんだな。母親の髪が明るめの色調で、軽い天然パーマだから」
「それとこれとは関係ないわよ。第一、どうして私の本来の髪質が分かるわけ?」
「根元を見れば分かるだろうが。芳文も言ってたが……。やっぱりお前、頭は悪くないのに、相当な馬鹿だな」
 したり顔でそんな事を断言され、さすがに貴子の堪忍袋の緒が切れた。

「何であんたに、そこまで言われなくちゃならないのよ!!」
「あの底抜けに人の良い一家が、見た目に自分達と全然共通する所が無いって位で、お前を邪険にする筈無いだろうが」
「だって……」
 真顔で断言され、貴子は何か言い返そうとしたものの、口ごもって結局黙り込んだ。すると隆也が唐突に、ぼそりと呟く。

「それに俺は、黒くてまっすぐの方が好みだ」
 その台詞に貴子が反射的に隆也に顔を向け、若干躊躇ってから胡散臭そうに問いかける。

「……ここでどうして、あんたの好みが関係してくるのよ?」
「別に? ただ口にしてみただけだ」
 完全にいつもの口調で端的に言い返されてしまった貴子は、次にどういった言葉を続けば良いか分からなくなり、途方に暮れた。
 それからは再び無言になり、車内は静かなエンジン音のみが響いていたが、大して時間を要さずに高速道から一般道に降り、記憶にある通り夜の道を走り抜けて、高木家に無事到着した。
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