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十月

4.問題発生

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「おはようござい」
「藤宮、今日はお昼、付き合いなさいよ」
「……どうしてですか?」
 以前の諍いの記憶を封印し、最近では何とか同僚として違和感なく理彩に接する事ができる様になっていた美幸だったが、朝の挨拶を遮られた挙げ句、一方的に告げられた為に思わず顔を顰めた。しかし理彩はそれに構わずに話を続ける。

「あんたの訳が分からないお姉さんについて、あんたと心行くまでディスカッションしたいからよ」
 その声に、周囲の机から二人に向けて幾つかの視線が投げかけられたが、美幸はそれに気がつかないまま確認を入れてみた。

「一応、姉は四人程居ますが……」
「上から四番目」
「……分かりました。お付き合いします」
 城崎との見合い話を聞いた後でもあり、恐らく美野だろうと見当を付けていたものの、はっきりと肯定されて美幸は頭痛を覚えた。そして(文句を言われるなら係長からと思うんだけど、どうして仲原さんから?)と納得しかねる思いを抱きながらも、素直に了承の返事をしたのだった。

 朝にそんな事を考えたものの、美幸は午前中普通に仕事をこなし、十二時半位に区切りの良い所で理彩に目を向けた。すると美幸の終わるのを待っていたらしい理彩が小さく頷き、パソコンの電源を落として立ち上がる。そして残っている者達に休憩に入る事を告げながら、二人揃って廊下に出て歩き出した。
「仲原さん、美野姉さんがどうしたんですか?」
 早速並んで歩きながら美幸が尋ねると、理彩が困った様に尋ね返した。

「何も知らないわけ?」
「姉との見合いが係長に持ち上がって、それを係長が断ったと言うのは聞いていますが」
「その後の事は?」
「その後?」
 本気で首を捻った美幸に、理彩が疲れた様に溜め息を吐き出す。

「お姉さんから、聞いて無いわけか……。社内だと誰に何を聞かれるか分からないから、店に入ったら説明するわ」
「分かりました」
 そして本社ビルに程近い定食屋に移動した二人が、首尾よくテーブルに落ち着いて注文を済ませて早々に、理彩が単刀直入に切り出した。

「あんたのすぐ上のお姉さんなんだけどね、彼女ストーカー並みに係長の仕事帰りを待ち伏せて食事に誘ってるのよ。十月に入ってから週一・二回のペースで」
「何ですかそれはっ!?」
「しぃっ! 声が大きいっ!」
 思わず湯呑をテーブルに叩き付ける様に置いて叫んだ美幸を叱ってから、理彩は周囲を見回してから話を続けた。

「係長、最近は帰宅時間を不規則にしたり、裏口や非常口を使って当初より遭遇率を低くしているそうなんだけど……。それにしても、彼女の行動が変なのよね」
「待ち伏せしてる段階で、もう十分変だと思うんですが?」
 物凄く胡乱気な視線を向けた美幸に、理彩は困惑気味に手を振りながら説明を加える。

「そうじゃなくて、係長狙いなのかと思えば実際は係長を半ば放置して、一緒に行った人間に職場やあんたの話を、事細かく聞きまくっているのよ。勿論その中にはあんたと係長が、仕事中どんな様子かって事も含まれるけど」
「何ですかそれは? 益々意味が分かりません」
 思わず美幸は渋面になったが、理彩はそれ以上の仏頂面になった。

「私に言わないでよ。因みに昨日は課長と瀬上さんと高須さんと一緒に居た所に現れたから、私ががっちり嫌味に加えて説教して追い払おうとしたら、私だけ拉致されて係長達は放置して、食事に連れて行かれたのよ? ……っていうか、女を人身御供にするなんて、男のくせに何やってんだかあいつら」
「……お疲れさまでした」
 何やらそのままブツブツと呟いている理彩を刺激しては拙いと悟った美幸が、殊勝に頭を下げる。すると理彩が微妙に口調を変えてきた。

「それで……、まあ、確かに多少変わってはいるけど、妹思いの優しいお姉さんじゃない。食事しながら色々話をしたんだけど、あんたの悪口とかあんたに対する愚痴とかを一言も漏らしたりしないで、私の話を終始ニコニコして聞いてくれたわよ? それに『男性が多い職場と聞いてますので、仲原さんの様な先輩が居ると分かって安心しました。宜しくお願いします』と言って、頭を下げていたし」
 そこで美幸は、どこか探る様な視線を理彩に向けた。

「どこで食事したんですか?」
「どこって……、下目黒の《Le mieux》だけど?」
 不思議そうに(それがどうかしたのか?)とでも問う様な視線を向けた理彩に、美幸は幾分腹を立てながら怒鳴りつける。

「たかだか二万やそこらのフレンチフルコースで、買収されないで下さい!!」
「一人前三万のコースだったわよ!」
「威張って言う事ですか!?」
 揃って声を荒げてから、店内の視線を浴びた事に気付いた二人は慌てて口を押さえ、小声で囁き合った。

「とにかく、美野さんの真の目的がいまいち分からないんだけど、あんたとの絡みで皆、あの人を粗略に扱えずに困ってるのよ。あんたが何とかしなさいよ?」
「言われなくてもそうします! 全く……、どうして皆、もっと早く教えてくれないんですか。それに馬鹿正直に、そんなのに一々付き合わなくても良いでしょう!?」
「話してみたら、そんなに悪い人じゃ無いみたいだし、多少強引だけど全然悪意が感じられないんだもの。ただでさえあんた達の姉妹仲が微妙みたいなのに、余計に変な確執を生じさせたら悪いと思ったんでしょうが。大人の気配りよ。それ位察しなさい」
 呆れ気味に言い聞かされて、美幸は色々言いたい事は有ったものの、無用な反論は避けて頷いた。

「……分かりました」
「最初から喧嘩腰で、話を進めるんじゃ無いわよ?」
「はい、努力します。今夜にでも直接聞いてみますので」
 そこで一安心したらしく理彩は表情を緩め、それから二人で他愛のない世間話をしながら昼食を食べ終えた。そして比較的気分良く二課に帰ってきた二人だったが、室内の異様な雰囲気に入口で思わず足を止める。

「あら? 林さんも瀬上さんも、まだ休憩時間の筈じゃ……」
「それともまだ、お昼休憩に入っていないんでしょうか?」
 二人が休憩に入る前は、林と瀬上だけが残って静かなものだったのだが、それに休憩から戻ったらしい村上、枝野、川北が加わり、何故か机を行ったり来たりしながら、血相を変えて怒鳴り合っていた。

「おい! まだ土岐田に連絡は付かないのか!?」
「駄目です! 予定では久保製紙との商談中の時間ですし、携帯の電源を切っています!」
「それなら営業代表番号にかけて、至急だと言って呼び出して貰え!」
「分かりました!」
「係長は今日は市川まで行っているし、帰って来るまでもう少し時間がかかるぞ」
「事情説明はしたか?」
「ああ、課長から直接お詫びの電話を入れると言っていたが、先方が外出したらしくて、捕まらないとか」
「課長のメモのファイルは確認取ったか?」
「今、探してます!」
「くっそ、こんな時に係長まで外回りとは……」
「俺が係長と渋谷で合流して書類を受け取って、今日の愛宕パーソンとの商談を交代して、帰社して貰います。じゃあ、今から出ますので」
「よし、川北頼んだ」
 同じ部屋の一課や三課の残っている者達と同様、一体何事かと顔を見合わせた理彩と美幸に気付いた林が、焦った口調で矢継ぎ早に指示を出した。

「仲原さん、俺と村上さんの今日これ以降のスケジュールを空けて、その予定を二日以内に入れられそうな所を調節してみて、できたら俺に教えて。藤宮さんは川北が今日作成していたファイルB-7の文書の続きを宜しく。他にも頼みたい事があるから、できるだけ急いで」
「はい?」
「えぇ?」
「呆けてないで、さっさと取り掛かる!」
「はいっ!」
 怖い位真剣に言われた二人は、訳が分からないまま慌てて自分の席にパソコンを取り上げ、指示された内容に取り組み始めた。この降って湧いた騒動が、もうじき柏木産業内を震撼させる事になる『氷姫ご乱心事件』の序章だった。

 そしてその日の終業時刻間際、時折書類を捲ったりキーボードを叩く音すら変に響く、静まり返った室内で、瀬上と高須が珈琲を飲みに立ち上がった。それを見た美幸と理彩は無言のまま目を見合わせ、さり気なく立ち上がって自分達も壁際に移動する。
 そしてそれぞれ自分の分の珈琲を使い捨てのコップに注いでから、さり気なく男二人に小声で問いを発した。

「あの……、何がどうなったんですか? 単純な連絡ミスが重なって、今日課長と土岐田さんが商談先に出向かなかったのは分かりましたが」
「それに、そもそもそれだけでどうしてこんな騒ぎに? 確かにこちらの落ち度だけど、お詫びして解決する問題じゃ無いの?」
 美幸達が戻って少しして慌てて真澄と城崎が出先から戻って来た後、すぐにどこかへ呼び出されて姿を消し、取り敢えずの対応を終えたらしい面々も慌ただしく本来の商談先へ出向いたりして、美幸達が詳しく問い質せる相手と機会が無かった為である。この二人も三時過ぎに遅い昼休みに入り、異常を察知した一課と三課も無駄口を叩かずに仕事をこなしていた為、企画推進部内はいたたまれない空気に包まれていた。
 そんな中で問われた瀬上は、高須と顔を見合わせて幾分迷う素振りを見せてから、溜め息を吐いてまず注意事項を述べる。

「……二人とも、何を聞いても最後まで黙って聞けるか?」
「取り敢えず」
「努力します」
 真顔でかなり心許ない保証を得た瀬上は、再度溜め息を吐いてから話し出した。
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