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十一月

8.課長、御乱心

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「……おい、目標達成したのに課長、何かテンション低くないか?」
「変ですよね? もっと喜ぶかと思ったのに」
 そんな事をコソコソと囁き合いながら二人は真澄に付き従い、エレベーターに乗り込む。そして真澄が迷わず押した目的階に到着し、ドアが左右に開いた瞬間、廊下とエレベーターの中で二種類の異なる声が上がった。

「げっ……」
「……あら、清川部長」
 呻き声を上げて一歩後ずさった清川とは逆に、真澄は愛想笑いを浮かべながら廊下へと優雅に足を踏み出す。

「まだ終業時間までは、十分程あるかと思いますが、帰り支度をしてどちらへ?」
「い、いやっ! ちょっと野暮用で……、失礼する!」
「ちょっと待て、うすらハゲ」
「うぎゃぁっ!」
 階段から逃走しようと思ったか踵を返した清川だったが、真澄がすかさず駆け寄ったかと思ったら、その膝裏に思い切り蹴りをかまし、清川を廊下に俯せに転がした。そしてその背中を容赦なく踏みつけながら、鋭い指示が飛ぶ。

「高須! 藤宮! こいつの腕を一本ずつ押さえなさい。良いって言うまで、離すんじゃないわよ!?」
「はっ、はいぃぃっ!!」
「分かりましたっ!!」
「こ、こらっ! 君達何をする!」
 清川に非難されたものの、真澄に鬼の形相で叫ばれた高須と美幸は、一も二もなくそれに従った。そして必死に首を捻って背後を見上げようとしている清川を足蹴にしたまま、真澄が冷酷そうに微笑む。

「さて、と。清川部長。実は首尾良く、今日までに二課で新規契約を三千万取れまして」
「そっ、それは何よりだな! さっ、さすがは柏木産業のホープと名高い柏木課長」
「それで清川部長に、ご褒美を頂きに参りました」
「な、何の話かね?」
 白々しい追従の言葉の後に惚けようとした清川だったが、真澄がポケットから取り出したICレコーダーが『「……何かご褒美が頂きたいところですね」「はっ! 何でもくれてやろうじゃないか。その代わり、達成できなかったら……」』と放言した清川の台詞を再生し、一気に顔を青ざめさせる。

「い、いや、柏木課長、それは言葉の綾と言うもので……。お互い社会人なわけだし、そこはそれ」
「安心して下さい。住宅ローンと子供の進学費用にひぃひぃ言ってる小市民から小金を巻き上げるつもりはありません。と言うか、むしり取るだけの金も無いでしょう」
「くっ……、それでは君は、何が欲しいと言うんだね!?」
(うわ、本当の事とは言え、容赦ねぇぇっ!!)
(課長……、冷静に言ってる分、怖さ倍増です)
 流石に清川が屈辱で顔を赤くし、美幸達が益々顔色を無くす中、その衝撃的な会話は続いた。

「その未練たらしく頭皮にまとわりついている、薄汚い髪を」
「は?」
 思わず間抜けな声を上げた清川に、真澄は優しげな口調で、噛んで含める様に説明した。

「大して数量もコシも無さそうだけど、来春まで取っておいて燕が来た時に、巣材として正面玄関にバラ撒いておくのよ。それが気に入って燕がこのビルで巣を作ってくれたら、柏木産業が儲かる験担ぎになるでしょう?」
「あの、課長……、ちょっと待って下さい」
「課長? マジですか?」
 呆然としている清川の代わりに美幸と高須が思わず突っ込みを入れたが、真澄はにっこりと愛想良く笑いかけながら、楽しげに話を続けた。

「部長はなけなしのお金を払わずに済む、柏木産業は儲かる、燕は巣作りが助かって喜ぶ。一石二鳥どころか、一石三鳥でしょう? 自分の考えに惚れ惚れするわ」
「いや、ちょっと待て、柏木課」
「うるせぇんだよ! 動くなよ? このごますり野郎がっ!!」
 清川が慌てて何か言おうとした瞬間、真澄は般若の形相で勢い良く清川の背中に馬乗りになり、その頭に手を伸ばして力一杯髪の毛を鷲掴みにし、鈍い音を立てながらその髪の毛を毟り始めた。

「ひっ、ひぎゃあぁぁぁーっ!!」
「ひっ……」
「かちょ……」
 まさしく断末魔の悲鳴を上げた清川を押さえつけながら高須と美幸が固まり、そのフロアの全てのドアから、その声を耳にした社員達が現れる。

「ちっ、安いヘアトニック使いやがって」
「いだだだだっ!!」
「下品な匂いが手に染み付いたら、どうしてくれるんだ、あぁ?」
「ぎゃあぁぁぁーっ!」
「大して量もないし、巣材にするのも燕が嫌がるかもしれないけどな」
「たっ、助けてくれぇぇっ!!」
「物好きな燕も偶には居るだろうし」
「柏木課長! 一体何をしてるんですか!?」
 そこは総務部が入っているフロアの廊下であり、この騒動を遠巻きにしている社員達から連絡が行ったのか、清川の部下の赤石が血相を変えて真澄の元にやって来たが、真澄は彼を見上げて平然と言い放った。

「何って……、清川部長から目標達成のご褒美を貰っているところですが?」
「部長に馬乗りになって、何をやってるんですか! 大体ここをどこだと」
「あら、じゃあ清川部長の代わりに、赤石課長が髪をくださいます?」
「は?」
「確かに部長より量もコシもたっぷりで、引き抜き甲斐がありそう」
「あ、赤石……、助けてくれ……」
「…………」
 ニコニコと真澄が旧知の赤石に代替案を出したが、清川の弱々しい懇願口調を耳にした赤石は、顔を強張らせて一歩後退した。

「あら、どうされました? 部長の身替わりになる気は無いんですの? …………だそうだぞ、清川。薄情な部下ばかりで、結構な事だなあぁぁっ!!」
「ぎゃあぁぁぁっ!!」
 蒼白な顔の赤石に悠然と微笑んだ真澄は、一転して清川の後頭部を親の敵の如く睨み付けつつ、再び勢い良く頭髪を毟り取った。しかし少し距離をおいて周りを囲んでいる人間は誰一人、真澄の剣幕に恐れをなして近寄ろうともしない。

(か、課長、絶対壊れてる! だっ、誰か助けてぇぇっ!!)
 未だ清川の腕を押さえつつ、涙目で美幸が心の中で悲鳴を上げた時、いきなり斜め上から水しぶきがかかった。

「きゃあっ!」
「うわっ!」
「……何?」
 どうやら至近距離から水をかけられたと分かった美幸が顔を上げると、同様に真澄も前髪からポタポタと水滴を滴らせながら、不機嫌極まりない顔を上げていた。そしていつの間にか人垣の最前列に出ていた女性が、バケツ片手に呆れた口調で真澄を窘めてくる。

「職場復帰前に書類提出に久し振りに出社してみれば、この騒ぎは何事よ。少しは頭を冷やしなさい」
「……翠、あんた私の邪魔をする気?」
「邪魔をする気は毛頭無いけど、他人の迷惑を考えろって言ってるの。わざわざ勤務中に騒ぎを起こさなくても、帰宅途中で強盗に遭遇したり、帰宅した所に自宅にダンプが突っ込んだりとか、世の中危険が一杯なのよ? お金と人脈は腐る程有るくせに。有る物は有効に使いなさいよね」
 凄んだ真澄に一歩も譲らず、平然と言い返した女性の発言内容を聞いて、美幸と高須は僅かに顔色を変えて囁き合った。

「え、えっと……、あのおんぶ紐してる人、誰ですか?」
「確か課長と同期の、秘書課の鹿角さんだ。だけど子供背負いながら、なんつう物騒な事を唆してんだよ」
「や、やっぱり『そういう話』ですよねぇ」
 頭上で交わされているそんな話を聞いて、清川の顔は真っ青になった。しかし更に清川の心臓を凍らせる様な会話が続く。

「それに……、偶々、うっかり成分多目の人事部担当者が、個人情報が書かれた紙をうっかり落とすかもしれないわね。それを利用すれば事は簡単でしょう」
「あぁっ! やだぁ~、私ったら~、うっかり某部長の住所、電話番号、通勤経路、家族構成、学校名、就職先、その他諸々の個人情報が書かれた大事な紙を、どこかで落としちゃった気がするわぁ~。どうしよう~」
 そこでいつの間にか最前列に出てきた真澄と同年輩の女性が、わざとらしく声を張り上げながら抱えたファイルの上の方から、A6程度の大きさの紙を取り落とした。そしてヒラヒラと舞い落ちたそれを、両手に纏わり付いた髪の毛を払い落とした真澄が、手を伸ばして掴み取る。そして清川の背中から立ち上がってずぶ濡れのまま携帯を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。

「もしもし? 私だけど、大至急人数を揃えて欲しいの。ええ、今夜よ……」
「あの人って……、確か人事部の……」
「課長と同期の夏木係長だな……」
 呆然と呟きつつ、真澄が離れた為高須と美幸も清川の腕を離すと、慌てて体を起こして座り込んだ体勢になった清川の左右に、真澄の同期二人がしゃがみ込んで囁いた。

「あ~ぁ、清川部長、真澄を本気で怒らせましたよね? 真澄、ムキになって三千万取っちゃいましたし」
「それで怒りがMax状態だと、分からないなんて言わないですよね? それにまさか髪を多少毟られた位で済むとは、思っていませんよね?」
「なっ、何をするとっ……」
「うっかり家に帰ったら、ご家族も巻き込まれるのは確実ですね。お気の毒に」
「私達、大学時代から真澄と付き合ってるから、彼女を本気で怒らせた連中の末路なんて知り抜いてますもの」
「「ねぇ」」
 そう言って清川の身体越しに、微笑み合いながら声を合わせた二人を交互に見つつ、清川は狼狽した声を上げた。

「どどどどうすればっ!!」
「これはやっぱり、真澄の怒りが鎮まるまで」
「身を隠しておいた方が良いですよね~」
「カードでありったけお金を引き出して、このまま逃亡するんですよ」
「家族や会社の人間に電話したりも駄目ですよ? 逆探知されますからね」
「彼女の縁戚に警察関係者がいて、裏から手を回されますから」
「部長が家を離れていれば、ご家族は無事ですよ?」
「そうよね~、幾ら真澄だって本人以外に怒りをぶつけるほど、節操無しじゃないし」
「一ヶ月もすれば真澄も落ち着きますよ。その間家族が巻き添えを食ったり、家が破壊されない様に、頑張って逃げ切るんですよ?」
「分かりましたか?」
「わ、分かっ」
 絶妙のコンビネーションで左右から言い含められた清川が頷きかけた瞬間、通話を終えたらしい真澄が冷酷非情な眼差しで清川を見下ろす。それを真正面から見てしまった清川は、盛大な悲鳴を上げて床に転がっていた鞄を手に立ち上がった。

「……うっ、うわあぁぁぁーっ!」
 そうして清川は錯乱したかの如く、周りを囲んでいた社員を突き飛ばし、まっすぐ階段へと向かうと脱兎の勢いで駆け下りて行った。

「清川部長!」
「待って下さい!」
「夏木係長! あなた、部長への襲撃に荷担するなんて、何を考えているんですか?」
 慌てて後を追った総務部の人間の中で、赤石はその場に留まって裕子を非難したが、裕子は鼻で笑い飛ばした。

「あぁら、人聞きが悪い。誰が誰の襲撃に荷担したっていうのよ」
「たった今、柏木課長の目の前で、清川課長の個人情報が書かれた紙をわざと落としたじゃないですか!」
「その紙ってこれの事?」
「ええ、そうで……、は?」
 ここで会話に割って入った真澄に差し出された紙を見て、赤石は頷きかけて怪訝な顔になった。それに裕子の茶化す様な声が重なる。
「あぁ~、さっき個人情報を落としたかもって言ったのは、間違いだったわ~、良かった~」
「私は単に廊下に落ちた紙を拾っただけよ。白紙だからメモにするつもりだけど、何か文句でも?」
 真澄に睨み付けられた赤石だったが、気力を振り絞って抵抗を試みた。

「で、ですが、何やら人を集める様な電話を」
「大きなヤマが片付いたので、仲間で飲んで騒ごうと招集かけただけよ。悪い?」
「清川部長、お疲れ気味なんじゃない? 使えない薄情な部下ばかりじゃ、神経が擦り切れてるわね」
「そうよね~、変な誤解とか妄想とかしてそうだし~。お気の毒~」
「…………っ!」
 明らかに馬鹿にした笑いを向けてくる女三人に、赤石は顔を真っ赤にして怒鳴りつけるのを堪えたが、相手はそんな事には構わずにさっさと移動し始めた。

「さて、大仕事も終わった様だし、久し振りに一緒に食事に行かない? 何食べる?」
「酒」
「真澄、酒は飲むものであって、食べるものじゃないわよ?」
「あ、そうだ。このバケツ、この階の女子トイレの物なの。ちゃんと返しておいて。それじゃあね!」
 翠が赤石に向かってバケツを放り投げ、真澄を促した裕子と共にエレベーターの中に消えて行くと、入れ替わりに騒ぎを伝え聞いた二課の面々が、血相を変えて人垣を掻き分けてやって来た。

「高須、藤宮さん、大丈夫か!?」
「課長が暴れてるって聞いたんだが!」
「あれ? 清川部長は?」
「それ以前に課長は?」
「うわっ! 二人とも何でずぶ濡れなんだ、こんな所で!」
 ショックのあまり廊下にへたり込んで茫然自失状態の二人を見て、皆口々に驚いたり不思議そうに声をかけると、それで緊張の糸が切れた様に二人が口を開く。

「……皆さん、遅いです」
「うっ、裏切り者ぉぉぉーっ!!」
 高須が小さく呟いて項垂れ、美幸が叫び声を発して廊下にうずくまり、「うわあぁぁぁん!!」と盛大に泣き始める。そんな二人を何とか宥めつつ二課の面々は部屋に引き上げ、後に残された無数の毛髪を気味悪そうに見やってから、見物していた者達も三々五々に散って行った。
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