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6月

二兎を追うなら……

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「お先に失礼します」
「お疲れ様」
 終業時間を若干過ぎてから、腰を上げた由香を見送った美幸は、訝しげな表情で隣の高須に囁いた。

「渋谷さん、今日は随分早く上がりましたね。ここ暫くは、残業続きだったのに」
「お前だって、他人の事は言えないだろう? 通常業務を終わらせてから、例のコンペの資料作りをしてるじゃないか」
 あっさりと言い返された美幸だったが、なんとなく釈然としない物を感じて食い下がる。

「それは確かにそうですが……。でも彼女、今日は何だか、朝から様子が変じゃありませんでした?」
「変ってどこが」
「いえ、何となくですが……」
「仕事が溜まって疲れてるんだろう? お前も偶には、早く帰った方が良いぞ」
「はぁ……」
 確かにここ暫くコンペの準備で残業続きだった美幸は、曖昧に頷いたが、(でも、仲原さんの言葉じゃないけど、何か妙に引っかかるのよね……)と疑問に思いながら、由香が出て行ったドアをぼんやりと眺めた。

 一方、美幸から不審がられていた由香は、職場を出てから真っ直ぐ帰宅はせず、自社ビルから程近くのカフェに向かった。予め打ち合わせしていた時間から二分程が経過しており、相手が既に来店していたのを認めて、頭を下げる。

「お待たせしました」
「お疲れ様。大して待ってはいないから、気にしないで。きちんと定時に上がれる方が少ない事は分かっているわ」
 待ち構えていた彼女の名目上の上司である真澄は、嫣然と微笑みながら手振りで自分の向かい側の椅子を勧めた。由香は当然の如くそこに座り、やってきた店員に注文を伝えてから、真澄に向き直って尋ねる。

「それで、今日私を呼び出した理由を、お伺いしたいのですが」
「そうね。私も子供達を母に預けてきているから、そんなにのんびりできないし、さっさと話を進めましょう。これよ」
 そこで傍らに置いてあったビジネスバッグの中から、真澄はA4サイズの封筒を取り出して、由香に向かって差し出した。微妙に厚さがあるそれを、一応受け取った由香が、訝し気に問いを重ねる。
「何ですか?」
「中を確認してくれる?」
 相変わらずにこやかに笑っている真澄を見て、由香は微妙に嫌そうな顔つきになったものの、黙ってその指示に従った。そして封筒を引き寄せて中から書類の束を半分程引き出し、パラパラと内容を確認し始めた由香だったが、すぐに驚愕の表情になる。

「……これは!? どういう事ですか? まさか、中に入っているUSBメモリーも!?」
「あら。まさか見ても分からないなんて、面白い事を言わないわよね?」
「分かったから、聞いているんです。一体、何のつもりですか?」
 血相を変えて問い質した由香だったが、真澄は笑みを消さないまま、事も無げに話を進めた。

「『何のつもり』って……、あなたに好きに使って貰おうと思って、持って来たのよ。お気に召さなかったかしら?」
「ふざけているんですか? それとも、夫婦揃って私をからかう気ですか?」
「別に、私には部下をからかって楽しむ趣味は無いわ。巷にはそういう人間が、いるのかもしれないけどね」
「…………」
 皮肉っぽく応じた真澄に、何やら思い当たる筋があるのか、由香は黙り込んだ。ここで漸く笑みを消した真澄が、淡々と事務的に伝える。

「因みに、この事は清人も承知の上だし、二課の他の人達には漏らさない事は確認済みよ」
「意味が分かりません。こんな事をして、あなたと課長代理にどんなメリットがあるって言うんですか」
 封筒の中に元通り書類をしまい込みながら、本気で困惑している由香に、真澄はわざとらしく首を傾げてみせた。
「メリット? 十分有るけど、分からない? それならおまけに教えてあげましょうか? 渋谷さんは二課に移ってまだ日が浅いから、色々分からない事も多いでしょうし」
「結構です!」
 反射的に声を荒げて断った由香に、真澄が素っ気なく答える。

「あら、そう。私としては、あなたがそれを使っても使わなくても、どちらでも構わないのよ。どちらにしても、それぞれ違ったメリットが生じますからね。私のモットーは『二兎を追うなら、三兎を穫る』なの」
「何なんですか、それは……」
「とにかく、そういう事だから。話は終わったから、失礼させて貰うわ」
「え? ちょっと待って下さい、これはどうするんですか!?」
 ここで真澄がビジネスバッグを手に提げて立ち上がった為、半ば茫然としていた由香は慌てて引き止めようとした。しかし真澄はそんな相手の様子など全く気にせずに、さっさと歩き出す。

「だから好きにしなさい。有効利用するも良し、ゴミ箱に直行させるも良し。私がそれをあなたに渡した事は清人以外に誰も知らないし、漏らすつもりも無いわ。私の分は、これで払って頂戴。それじゃあ、頑張ってね」
「柏木課長!」
「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」
 テーブルに千円札を一枚置きながら歩き出した彼女と入れ違いに、店員が由香の注文品を運んで来て伝票を置いていった為、由香はその場を動く事が出来ずに、真澄をそのまま見送ってしまった。

「何なの? 一体私に、どうしろって言うのよ……。夫婦揃って、全然意味が分からないわ……」
 取り敢えず椅子に座って、先程渡された封筒を暫く凝視しながら、暫く困惑していた由香は、結果として冷め切った珈琲を飲む羽目になった。


「どうだ? 例のコンペの準備の方は進んでいるか?」
 世間話もそこそこに、電話越しに城崎から心配そうに問われた美幸は、明るい口調で答えた。
「はい、それなりに。分からない所は土岐田さんや清瀬さんにも聞いています。やっぱり場慣れしている方じゃないと、気がつかない点も多いですから」
「そうか。今回は競合する相手が相手だからな。どう転ぶか、却って予測が付かないし」
「ええ。今回、初めて蜂谷に対して恐怖を覚えました。追われる立場って、なかなかプレッシャーがありますね」
「蜂谷がどうかしたのか?」
 忽ち怪訝な口調で尋ねてきた城崎に、美幸はついからかうつもりで口にした内容と、結果について語った。それを聞き終えた城崎から、呆れとも感嘆とも判別できない声が返ってくる。

「……確かにあいつは、頭より体で覚えるタイプかもな」
「それを自覚させてしまっただなんて……、何か悔しい……」
 美幸が思わず愚痴っぽく呟くと、城崎が苦笑交じりに宥めてきた。

「後輩が伸びるのは、良い事だと思うぞ? それにさっき言っていたプレッシャー云々に関して言えば、渋谷さんの方が確実に大きいだろうし」
「え? どうしてですか?」
「今回課長代理に指名された四人の中では一番年長だが、これまでにそれほど実績を上げていないだろうし、二課に移ってきたばかりだし。ここで下手なコンペはできないだろう?」
 そう指摘されて、美幸は納得しながら頷いた。

「そう言われてみれば……。最近仕事中、結構険しい顔をしてるかも」
「そうだろうな。因みに彼女は、二課の他の人達に意見を聞いているかどうか分かるか?」
「それは……、残業時間を含めて、例のコンペに関して誰かに助言を求めている気配は、分かる範囲では皆無なんですが……」
 念の為思い返してみた美幸だったが、そんな姿は見てはいないし、他の人間もそんな事は言ってなかった事を再確認していると、電話越しに城崎が溜め息を吐いた気配が伝わってきた。

「そうか。ひょっとしたら課長代理は、彼女と他のベテランの課員達との間で、自然に交流を増やす為に、今回の事を計画したのかとも考えていたんだが……」
 少々残念そうに言われた為、美幸は素直に頷いてから、全面的に否定した。

「なるほど。そういう考え方もあったんですね。でも、あの中途半端にプライドを持っている人が、素直に他人に頭を下げて教えを請うとは思えませんが。特に内心で馬鹿にしている、二課の人間に向かって」
「それができたら、少しは成長できると思うんだが。美幸から見て、それは難しいか」
「難しいと言うか、ありえません!」
「そこまで断言するな」
 きっぱりと言い切った彼女に、城崎が苦笑する。ここで美幸は、以前に頼まれていた事を思い出した。

「あ、そう言えば六月に入りましたし、暑くなる前にそろそろ夏物をそっちに送りますか?」
「ああ、そうしてくれたらありがたいな。じゃあ送って欲しい物と、それがどこにしまってあるかを詳細に書いて鍵と一緒に送るから、時間のある時に送ってくれないか?」
「分かりました、任せて下さい」
 それから幾つかの話をして、終始楽しく会話を終わらせた美幸は、不敵に笑いながら決意を新たにした。

「よし! 絶対に今度の課内コンペと社内コンペを勝ち残って、オプレフトの国内独占販売権をゲットしてやるわ!」
 そう叫んでから気分良く寝る支度を始めた美幸だったが、事態は予想外の方向に進んでいった。
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