甘いのどっち?

宇井

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お粥は心の傷

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 僕は部屋についた途端、体調を崩してしまった。
 自分の場所に戻った事に体が安心してしまったのか、ベッドを見たら力が抜けて倒れ込んでしまたのだ。そこにきてようやく、体も重く、頬も熱い事を自覚したのだった。

 自分でもうなされているのが分かってヒューゴさんに揺り起こされた時、僕は一度目を開けただけで意識を沈めてしまっていた。
 薬を飲ませたがっていたようだけど、ヒューゴさんは揺れる薄い膜の外にいるみたいに遠く感じた。
 ようやく目覚めたのは窓の外も真っ暗な夜。額には濡れ布巾があって、視界に入る布団はかさが高く、二枚もかけられているのがわかった。
 なんで僕みたいな魔を持つものが風邪なんてひいてんだ。
 ちょっと情けなかったのは、自分の心が起こした不調だとわかったからだ。

 このところの僕はやっぱり無理をしていたんだろう。寿命の事。マイカの結婚話。一気にバランスが崩れたんだ。
 鳥型に戻ろうって集中したけれど、上手くはいかなかった。魔力が枯渇でもしているんだろうか、もう、どうでも、何でもよかった。
 また、沈んだ。


 ノアさ…………

 僕を呼ぶ声が聞こえた気がして、応えるように手を伸ばす。
 それがマイカなのか、ヒューゴさんか、夢の中の誰かなのかもわからないけれど、僕をここに捕えていて欲しくて、必死に手を伸ばした。
 握り返された手は細くしっとりと柔らかく、僕と同じ位の小さな手のようだった。女性的な柔らかな二つの手で包まれると、そこから生気が伝わって守られている気がした。
 なぜか唐突に、母という単語が浮かんで、また沈む。

 はっとして目が覚めた。
 部屋は暗く、ベッド脇の照明だけが一つ黄色い光を揺らしている。
 それよりも、僕は枕元にいる彼の姿に驚いた。
 そこにいたのは、僕の部屋を担当するエリスさんだったのだ。あちらも僕が突然目覚めた事に驚いている様子で、目を見開いている。
 額に乗った布巾が冷たくて気持ちいい。きっと彼が絞ってかえてくれたばかりだから、僕はそれで覚醒したのだろう。

「エリスさん、ありがとう……とは言っても、仕事だからやっているんだよね。でも、やっぱり、ありがとうだ……」

 ぼそりと話す僕に、彼は硬い顔のままだ。少しだけ青ざめて見えるのが、この闇のせいなのか、彼の心の表れなかのかわからない。

「あの、今しかないだろうから言っちゃうけど、マイカはさ、絶対に僕の物にはならないよ……」

 だから安心して、では違うかと言葉を止める。僕の物にもならなければ、エリスさんの物にもならない。正解がそれだからだ。
 熱でのぼせた事に力を借りた。

「エリスさんは、マイカの事が好きなんだよね」

 その答えに僕は確信があった。けれど、よほど僕と喋りたくないのか、返事はない。
 どれだけ彼と見つめ合っただろう。それでもずっと目は逸れなかった。そして、彼の唇がゆっくりと開いた。

「マイカ様が好きでした。お話をさせていただく事は一度もありませんでしたが、ずっとお慕いしていました。僕は部屋付きだし、ヒューゴさんの次にマイカ様に近いのは僕だと思っていました」

 彼の声は徐々に震え始めた。

「マイカ様が閨の指南役の女性を平手で打って、裸のまま引きずるように追い出したという噂が落ち着いた頃、僕にマイカ様のお相手ができないものかと打診がありました。城内の医術専門職の方にです」

 女性がだめなら男性で。普段近くにいる見知った人間ならなおいい。
 そう言われたエリスさんは閨の心得を一冊渡され、その場を辞する事になる。その時からエリスはマイカをさらに意識するようになる。経験はないがそれでも精一杯努めようと決心したが、それ以降の具体的な話はなく、有耶無耶のまま今に至るという。
 宙ぶらりんて酷い。他人事ながら僕は怒りで一瞬沸騰した。

「不相応にも夢を見続けていました。マイカ様に愛される夢を、隣にいる夢を。だから、僕には、ノア様に罰を与える権利があると、そう思い込んでしまった。でもようやく思い出したんです。僕を煽った人達だって、マイカ様を持ち上げるようになったメイドだって、それまでは愛想の悪いマイカ様を疎んでいた事に。ようやく自分のしている事に気付いたのは最近で、ノア様は既に僕を諦めておいでで、謝る機会を失っていました。手の付けられていないワゴンを見ては、泣く事しかできなくなっていた」

 エリスさんの顔が耐えきれずにぐじゃっと崩壊した。
 そうか。ずっと謝る機会を伺っていたのに、僕は日中バイトで留守、鳥型でいる事も多かったから、どうにもならなかったのだろう。

「エリスさんはきちんと仕事をしてくれていたんだね。気付けなくてごめんなさい。エリスさんに見切りをつけたつもりはなくて、僕も色んな事で混乱していたんだ」
「ノア様はずっと、誰にも言わずにいてくれたんですね」
「でも、ヒューゴさんに今日話してしまったから……」
「ノア様が気に病む事はありません。僕は私怨で仕事を怠った。正当な解雇の理由になります」

 触れたら崩れ落ちそうなほど心細い顔。それでも必死に自分を支えているのがわかった。

「解雇って、もうそれが決まったって事?」
「いいえ処分はまだ決まっていません。まだ話はヒューゴさんの所で止まっていて、でもきっとそうなるでしょう。このままノア様に謝りもせずに去るのは嫌で、苦しくて、だからヒューゴさんにお願いしました。罪滅ぼしにノア様のお世話をさせて欲しいと」

 エリスさんは正直だ。一度僕に謝って自分自身が解放されたいと、そう飾りなく言っている。
 思ったままに行動して、楽になりたいから謝りたい。
 何だかなぁと脱力しそうになる。でも、ぐずぐずと泣き始めたこんな分かりやすい人を、僕はあまり嫌いになれないみたいだ。

「えっと、僕がどれだけ力になれるかわからないけど、解雇にはならないように口添えできるかもしれない。そうしたい。あと……僕、もう少し眠りたいから、エリスさんはもう休んで下さい。もう朝まで目覚めないと思うから。だから無理はしないで」

 話はこれで終わりだと、僕は布団を引き寄せ目を閉じた。
 エリスさんが去ろうとする気配がわかり、薄目を開け扉が閉まるまで見届けた。彼の背中は酷く細く頼りなく見えた。
 エリスさんと話してわかった事があった。
 噴水で出会った初対面からこれまでずっと、僕はマイカが笑顔の王子様だと思っていたけど、それは違った。貧弱な上に愛想の悪い第三王子なんて、その位の事は言われていたのかもしれない。
 そしておそらく、まだ閨の教育は受けていない。
 だったら何てあんなに上手いんだろう。童貞……独学……のわりにはアグレッシブっていうか。性の探究者なのか、たんなるエロか……
 そんな事ばかりをとろとろと考えていたら、いつしか僕は眠っていた。

 だけど、僕は夢の中でまた優しい手を感じていた。彼の指は細くてさっきの夢の中で手を握ってくれた手と印象がだぶる。
 エリスさん……休んでって言ったのに。
 たとえそれが彼とは違っていたとしても、僕がそう思える事のできる心持が肝心なのだと、そう思った。


 次に目が覚めたのは朝だった。いつもより少し早い朝で、まだ鳥のさえずりが聞こえない。
 そのままぼうっと窓に引かれたカーテンをみて、布越しでも空が白み始めたのがわかったころ、マイカがやってきた。

 ノックがなかったのは僕がまだ眠っていると思ったからだろう。
 僕が少しだけ肘を支えに身を起こして、第一声で挨拶より先にお腹が減ったと笑ってみせれば、ちょっと待っていろと言って飛び出して行ってしまった。
 きちんと開き切らない目ではマイカの表情を見る事が出来なかった。
 食事なんかよりもマイカが近くに居てくれる方がよっぽど嬉しいんだけど、とは伝える間もなかった。

 十分ほどすると、マイカ自ら盆を片手にやってきて、微笑みとともに僕のベッドに腰掛けた。
 マイカからはほっとする匂い、お盆からも食欲をくすぐる香りが漂ってくる。
 僕は上半身を起こして、腰とベッドヘッドの間に枕を挟み込んで、楽な姿勢をとった。それくらいは難なくできるまで回復していた。

 お盆にしては大きいと思っていた通り、それは折りたたまれている脚を開くと、ベッドの上で食事ができるベッドテーブルに変身した。
 凄く優雅で王族っぽい洒落た造りで、ベッドで朝食って女の子が喜びそうなシュチュエーションだなって思った。
 マイカの手でカーテンが引かれ、新しい日が始まる。
 僕の髪をマイカは手櫛で整え、湯気を立てるタオルを広げて僕の首と顔を拭う。されるがままになるのは気持ちよくて、マイカに拭きにくいと言われても笑っていた。

 熱いおしぼりか。
 それは病院で毎朝出されていて、顔用と体用の二色があった。
 体を動かす気力はないし付き添いもいない僕がそれを使うのは、回収に来た人に迫られるから。だから決まって恐ろしく冷えていたのを思い出す。親しみとは違うけれど、確かにそれは懐かしい。
 この温もりとそれとは全然違う。けど、記憶に線が繋がる。

 前世の一端が引きずり出されたせいか、僕は目の前にした食事を前にして、徐々に凍り付いていった。
 顔の筋肉は固まって、そばにマイカがいるっていうのに、どうあっても動かなかった。

 四角いテーブルに乗るのは、グラスに入った牛乳とオレンジジュース。ジャムののったヨーグルト。野菜のリゾット。病気の僕には優しいメニューで、料理してくれた方に感謝したい位だ。
 だけど、それは見事にオーバーラップしたんだ。病院と。

 レースの天蓋は大部屋を仕切るためのカテーンに、目の前の食事は普通食からお粥になってしまった病院食に。
 あの無機質さとは全然違うっていうのに、どうして、今朝はどうして、辛い事ばかり思い出してしまうんだろう。
 倒れて一晩しかたっていないから、まだ僕が不安定、だから? でももう、これ以上は思い出したくない。
 いつもみたいに、変態じみたた僕の性癖出てこい……出てこい……お願いだから、出て来て……

 そう願うのに、僕の見える世界はもう取り返しがつかないほどに歪んでしまっていた。
 視界で重なるのは白い箱の部屋、独特の臭い。点滴。
 あの時の僕と今の僕とは違う。それなのに、気持が引きずられる。

「嫌だ。あんなのは、もう嫌なんだ……」
 
 発作的に身震いしていた。

 病院が着替えや物品を持ってくるように催促しないと、母親は来なくなっていた。
 弟の受験が迫っているから、ここで病原菌を拾いたくないってさ。病院に来て病人を見ていると気が滅入るなんて、普通は言わない。いっそ潔くていい母親だ。

 テレビは飽きた。何度も読み返した漫画は相部屋の隣の人にあげた。でも追加や代わりを持って来てくれる人はいない。
 天井にある染みが誰かの歪んだ顔に見える。白いシーツも毎日パジャマでいる事も、ベッドでの食事も嫌。お粥なんて見たくもなかった。
 病状が重くなり個室に移り、僕は本当に一人になった。

 これほどの目に合う自分が、これまでにどんな悪を働いたのかと考え続けたけど、辿りつくのは母親自身によく似たこの顔だけだった。
 意識のない時間の方が多くなって、窓から見える空ばかりみていた。
 水彩が滲んだ水っぽい空もあったし、薄めずに塗り込めただけのような原色の青もあった。空を飛びたいと思った事はなかったけれど、こうして今いる僕が鳥だというのは、偶然でもない気がする。

 もう、あんな思いはごめんなんだ。
 
 大人しいはずの僕の心は、忘れていた物が浮き上がる度に荒れる。
 誰に何を言われてもされても、黒目と蔑まされても、僕の心はそれほど波打たなかったはずだ。自制できていた。
 なのに、今だけはどうにもならなかった。

 どうしてこうも、噴き上げてしまうんだ……たかが前世のくせに……

 首を振り追い払っても、新たな記憶は追いかけてくる。

 またあの薬を出しましょうか?
 体が痛む僕に、大人は選択を迫った。
 楽になる薬を飲むと眠ってしまう。意識が混濁してそれが辛いんだ。でも飲んだ方がいいのかなって、僕は泣きごとを零す相手もいなかった。
 あの時の僕はきっと薬を飲んだのだろう。訪ねて来る人がいないのなら、意識を保つ事にしがみつく必要はないからだ。
 可哀想なもう一人の自分が、無機質なベッドで横たわっている。
 生きているから痛い、まだ愛を諦めきれないから辛い。
 僕は渇望しながら、一人きりで逝ったんだ。
 溢れた涙が一つ落ちた。

 もう何も思い出すな、記憶消えろ。
 害でしかない記憶など潰してしまえ。振り上げた手を、思いきり膝に打ち付けた。

 僕はどうしたら悔いなく逝けるんだ……どうして誰も来ないんだ……
 どうして誰も、僕を愛してくれないんだ……
 
 そう呟くのは、いったいどっちの僕だろう。
 今を生きるノアである僕から出ているのか、早逝した僕が叫んでいるのか、判断がつかなかった。
 今の僕と、過去の僕が、小さな内側でせめぎ合って、齟齬を起こしている。
 
 興奮して何かを喋っているのがわかる。そして体は、勝手に暴れ出そうとする。
 でも、僕を抱きしめるマイカの力は強くて、自由にならない。胸は潰れて数秒目の前が真っ暗になる。呼吸ができない。
 ぐわっと顔を上げ、酸素を求めて口が荒い呼吸をして、取り込んだ空気で肺が大きく膨らんだ。
 でもそこで、ようやく、今が覚醒した。

 ……戻って来た。

 ここは僕の嫌いな場所じゃない。
 ここは、今を生きる僕の場所だ……マイカのいる、今の世界だ……

「大丈夫だノア。私がいる。ノアには私がいるだろう」

 力強い声は僕の髪の中に落ちる。

「人はね、苦しんだ分と同じ時間をかけて天上で癒される。そうして癒された魂はまた地上に降りるんだ。だけどノアは人より早く遣わされてしまった。だから消えない前世がある。それに苦しんでしまう。私と出会うために降りて来てくれた魂に、深く感謝しているよ。ノアはたった一つの私の望みとして、こうして現れてくれた……」
「マイカ……」

 僕のために泣いてるの?

「私の魂の半身……ノアが身に受けてきた因縁は、強く求めすぎた欲深い私の業でもある。だからそれを、少しずつ受け入れていこう。一緒に背負っていこう」

 マイカが言ってくれている事の意味がわかって、僕は大声で泣いた。
 彼がこれまで囁いてくれていた言葉は本物で、ずっと一緒にいようって、覚悟を持っていてくれたんだ。
 僕がこの世に生まれたのは、マイカよりずっと前だ。だからマイカに罪はない。そう言いたいのに、僕は自分から出る嗚咽を止められなかった。

 卓に乗った食事で大昔のトラウマを発動させてしまった僕。だったら、マイカには記憶に新しい毒の事件なんて、どれほど辛かった事だろう。
 小さなお菓子の欠片を歯の先で砕いて口内で溶かしたり、無理矢理お茶で流し込んで丸のみしていたマイカ。まだ細かったあの頃のマイカ。
 命の危険があるってわかっていても、心は正直で、受け入れたくても受け入れられなかったに違いない。
 今の僕にはそれが理解できる。本当の意味での理解にならないだろうけど、少しだけ、僕もマイカの苦しみに近付けたのかもしれない。

「マイカ。マイカも辛かったんだね。こんなに大きくなれて、本当によかったね。頑張ったんだね。お願いだから、もう少しだけ、少しだけでいいから、僕だけのマイカでいて……隣にいさせて」
「ずっと一緒だと、何度も言っているだろう」
「うん。マイカは……僕のものだ」

 少しだけ独占できたら、その後は抵抗せずに、マイカを諦めよう。
 ずっと一緒にいたい。だけど、マイカが結婚して人生を添う女性ができたのなら、それが政略婚であろうと、僕は冷静でいられない。僕がエリスさんの様になってしまうかもしれない可能性もゼロではないんだ。
 相手の女性に悲しい思いをさせないように、その時はそっとマイカの前から姿を消すよ。

 僕の目は昨日からずっと腫れていて、病み上がりで顔色も悪いはずだ。その上、バカみたいに感情のままにまた泣いて、鼻を垂らして、とても見られたものじゃない。
 なのにマイカはそれを手で拭ってくれて、ちゅってキスまでしてくれた。
 マイカだって泣いているのに、綺麗な顔は崩れてなくて、こんな時でも僕の胸をきゅんきゅんさせる。

 こんな綺麗で心優しい人が僕の事を愛してくれるって、夢みたいだ。
 この絶頂で死ねたら本望だ。
 そうしたらきっと、僕は天国から休む間もなく地上へ追い返されるのだろう。
 幸せの有り余った魂だから、すぐに地上で修行してこいって神様に放り出されるんだ。
 きっと、それほど、今の僕は幸せだ。
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