甘いのどっち?

宇井

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親友がいた【番外・前世】

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前世のワンシーンのため本編とはまったく絡みません。
高校生、夏、別れ、友情



 家から徒歩十分。寺の本堂の脇には大きな更地がある。そこは幼い頃に通っていた保育所が建っていたのだが、閉所になってから十年してようやく取り壊しがされた所だった。
 ガラス窓から中をのぞき、背の低いロッカーや取り残された小さな椅子を見るのが習慣だったのに、外にあった手洗い場も跡形なく消えてしまい、無邪気に遊ぶだけだったあの頃を思い出す為の材料はなくなってしまった。
 雑草さえもまだ生えない場所を抜けて、山の斜面にはりついているコンクリートの階段を十段ものぼればそこは墓地になる。季利の家の墓もそこにあるのだが、参るような殊勝なことはしない。
 墓を横目に素通りすれば、また同じ階段が今度はさっきの倍の長さで目の前でそびえる。
 そこを軽快に抜ければ、四方を木々に囲まれた神社に入る。

 寺の裏山に神社があるのを不思議に思いつつ、季利《きり》は最近そこに通うのが日課になっていた。
 家は息苦しい。だったら暑くとも外で時間を潰した方が気楽だった。
 人の立ち入った気配が感じられず、いつもここは綺麗だ。石でできた手水場は空になっているが、すぐそばにはプラスチックの立水栓があり、蛇口をひねれば水が出る。
 手を洗い顔を流して、犬のように頭を振って水を飛ばす。制服のシャツは濡れてしまっているが、これもじきに乾くだろう。
 セミがブワンブワンと緑の作った天井でうるさく鳴いているのに、抜ける風はここちよい。体の表面に残った水分が熱気を取り去り、気分はさっぱりした。

 図々しくも拝殿の正面にバッグを投げ座り込み、重心を後ろに移動させて寝転ぶ。足も蒸れたと靴を勢いつけて飛ばすことに挑戦しているのだが、紐がしっかり括ってあるスニーカーは踵から浮きもしなかった。
 それでもなお足を振っていると、自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。

「季利《きり》ー! いるんだろ!」

 返事をしても聞こえないだろうと、それには答えず足をぶんぶんと動かしていると、声の主が敷地内に入って来るのがわかった。
 彼は季利と違い、一旦家に帰って荷物を置いてきている。
 直感も霊感も何もない季利だが、ここはやはり神聖な場所なのか、結界を破るように入って来る存在が踏みこんでくると、空気がビィンと張りつめる気がした。

「さっき家の婆さんが言ってた。お前、引っ越すって本当かよ?」
「もう婆ちゃんにまで伝わったんだ。うん、実は引っ越しする」

 どかりと隣に座って見下ろしてくる幼なじみは、困惑した表情だ。大事な話はお前の口から聞きたかったとでも言い出したら笑ってしまうだろうが、彼はこちらが心配になるほど痛々しく顔を歪めている。季利が一番見たくない顔だ。

「もう三年生だぞ。来年は卒業なのに、お前どうすんだよ、このまま高校通えるんだよな?」
「ごめん。転校する。もうあっちの高校は決まったよ。公立の募集を母さんが見つけてきてさ……」

 試験も面接も一人で出向き合格をもらっている。一人で初めて出た都会。電車の乗り換えは思たより難しくて、早くもあちらでの新たな生活に不安になったものだ。
 それを友人には説明しないでおくのは、彼がその不幸を何でも自分のことのように受け取り、自分の身に置き換えて苦しんでしまうからだった。

「そんな……」

 やはり友人は理解したくないようだった。
 どれだけ力を入れようともスニーカーは飛ばず、季利は諦めて体を起こし、流れて来た汗を手で拭った。

「引っ越し先の方が弟の進路にも合うんだ。僕だけこっちに残るって抵抗したけど、体面が悪いって。母さんはここは民度が低いとか平気で口にするし、ずっと田舎を出たかったんだろうね。ようやく実家の近近くに戻れるって喜んでる。本当、わかりやすい人だよ」

 母方の実家はサラリーマン家庭だが、先祖代々の土地を持つそこそこの資産家だ。若かった頃の両親がどういった顛末で結婚し、親戚すらいないこの田舎で暮らし始めたのかを季利は知らない。そしてなぜ今頃になって引っ越すことになったのかも聞かされていなかった。
 長く母親の実家と疎遠だったことと母親の性格を考えると、揉め事、それに近いことがあったのは何となく想像できる。
 転校にはもう何の感慨もわかない。その決定事項を聞かされて一人荒れた時期は終わった。荒れたと言っても、ふて腐れてここへ来て時間を潰すことしかできなかったが、すさんだ心を涙で浄化するにはいい場所だった。
 学校が終わった後、家に帰っていないことに気付いた友人まで付き合ってくれるようになった。

「季利はさめ過ぎ。でもどうして、自分に似た子供に辛く当たれるんだ。俺にはわからない」
「それは同じ顔だからだよ。母さんは自分の顔が嫌いだし、その顔がもう一つあるのも、似てるって言われるのも嫌なんだ」
「おかしいだろそれ。綺麗な顔のどこが不満なんだ?」
「中途半端だからだよ。モデル、アナウンサー、女優、どれになるにも何かが足りなかった……そんな所だったんじゃない」

 母親を褒める言葉も嬉しくなかった。雰囲気だけはそうであるように作っているのは認めるが、綺麗と表現するには違和感が強い。
 父親からちらりと聞いた話を総合するとそうなる。母親は無駄に意識が高く、目指したどの世界にも入ることができなかったのだ。
 だから自分に似た面差しの長男より、父親似の次男に愛情は傾いた。次男が学業に秀でていることがわかってからはなおさらだ。
 会話をしない、顔を見ない、参観には来ない。体調が悪いと短くいい訳をして懇談にも卒業式にも来なかった。ただ父親に説得され高校の入学式には出席していた。
 金を出すのは構わない、しかし少しの時間も長男に対して割きたくないのだ。

「俺はお前の母ちゃんが嫌いだ」
「ありがと。いつも僕の代わりにそう言ってくれて」
「お互い苦労するな」

 友人はシングルファザーの家庭だ。友人と父親と祖母との三人暮らし、母親が友人を産んですぐにこの田舎を捨てた事実は誰もが知っている。愛情がある家庭ではあるが、友人がそれで苦しんできたことはよくわかっていた。暴力と借金はないものの、稼ぎをパチンコに使ってしまう父親は友人の悩みの種だ。
 ずっと一番近い友人をやってきた。明るく豪快なその性格でカバーしてしまっているが、中と外とは噛み合っておらず、その内側は柔らかく繊細だ。
 顔も体もよく焼けている友人と目を合わせるには、少し顔を上げる必要がある。
 彫の深い顔は彼のルーツである母親の存在を思わせるのだが、永遠に口にはできない禁句だった。よくよく見れば瞳も黒の縁取りの中にあるのはグレ―に近い。けれどそれを綺麗だとも、好きだとも言ってはいけないのだ。
 でもこの色を堂々と正面から見ることができるのは、今のところ友人家族と季利だけ。それがちょっとした優越感だった。

「高校球児みたい」
「これのせいかよ。失敗したな」

 友人は短くし過ぎてしまったという髪の後頭部を撫でる。
 高校に入学してからはぐんと背ものび、男ばかりでつるんでいた中学時代とは違い、女子の友達も多くなった。
 バカだったのにな……
 季利の顔ばかり見て夢中でお喋りしていて、どぶに落ちたことがあった。のどが渇いたと言って道路にできた水たまりの水を飲飲んでいた。風邪で寝込んでいる季利への見舞いは、ちんちんを丸出しにした踊りだった。いつも笑わされてばかりだった。
 それが中学に上がるとゆっくりとなりを潜めて行ってしまったのだ。そして高校ではとうとう周りも納得のイケメンへと成長してしまった。
 それに比べて自分ときたら。
 季利は自分の変わらなさが嫌だった。身長は伸びたが線は細い。以前友達に、キュウリみたいだと言われたことはショックだった。鏡に映る顔は相変わらず母親似で複雑になる。成長すれば父親の血が表面に出てくるかもしれないと期待していたが、それも望めなさそうだ。
 外見だけで言えば正反対。自分とはまったく違う友人が眩しすぎ、季利は大きく瞬きをすると、また板の上に体を横にして目を閉じる。
 そこから二人はしばらく黙った。

「家に帰ったら、また婆さんが煮物作ってたんだ。暑いのによくやるよ」
「いっつも何か煮てるな、お前の婆ちゃん。でも僕あれ好きだよ、大きなシイタケが丸のまま煮込んであるの」
「毎日食べてりゃ飽きるっての」

 友人宅でいただく煮物は子供の頃から馴染んだ味だ。野菜の炊いたのは具材がどれも大きく、ゴロゴロした薄皮つきの人参が昔は苦手だった。
 庭の畑で育てた野菜。浜で拾った天草で作る寒天。岩場から取ってきたガンガラ貝の塩ゆで。友人のもっている物はどれも羨ましかった。
 経済的な苦労が絶えない友人の家。暮らしは充分でも愛情が極端に偏った季利の家。どちらも何かが欠けた家庭で育ってきた仲間だった。

「あのさ……もし生まれ変わったら、僕はお前の子供になりたいよ」

 季利の言葉に友人はきょとんとする。男くさい男のきょとん顔はかわいかった。

「何で子供なわけ」
「家族になるんだ。お前は優しいから、僕を幸せにしてくれそう、だろ?」
「どうだろうな。ギャンブルは死んでもしないけど、でもやっぱり金には苦労させるかもな。この田舎じゃ高給なんて無理だし」
「違うよ。今じゃなくて、来世での話」
「あっ、そっか。子供か。間違えた。おい、そんなに笑うか?」

 真剣な顔でギャンブルだの金とかぶつぶつ言う友人がおかしくて、クスクスが止まらなくなった。
 子供ではなく、恋人になりたいと言えば、友人は驚かせてしまうと本音は絶対に言わない。
 告白しても好きという気持ちくらいは否定しないでくれるかもしれないが、キスしたい抱き合いたいセックスしたいんだと告白すれば、友人を追い詰めることになるだろう。
 いっそのこと気持ち悪い、絶好だと嫌ってくれれば楽だが、それができない男だ。
 お前のデカイ物で貫かれたい。僕の一番奥で爆ぜて欲しい。全身の穴という穴を粘液で埋められたい。
 そんな変態的なことを日々考えているのだと知ったら、どう思うのだろう。ぶちまけてしまいたい気持ちもあるが、この友人の中で自分は汚れた存在でいたくない思いが勝る。
 案外この引っ越しは区切りをつけるいい機会なのかもしれない。
 いくらメールや電話で繋がっていても、高校生にとって直線距離で百キロの隔たりは関係の断絶に等しい。

「……っていうかやっぱ今のなし、人間はもういいや。僕は次の生でセミになってひと夏ジリジリ鳴いて終わるんだ。生殖はしない……んで、干からびて道路に転がって、雨に打たれ……食われてお終い……」

 そんな生き方も潔くていい。喜怒哀楽なんて感情、もう欲しくないと思う。

「おい、悲しいすぎるからせめて動物にしろよ。鳥でも犬でもいいだろ」
「んじゃ、鳥にしとく。カラスは嫌。ハトも嫌。ウミネコがいい。手のりになるスズメみたくちっこくて可愛いのがいいな。季節によってあちこち渡ってさ、でも群れるのはごめんだ。それに虫は食べたくないな。やっぱり和食が一番だし……食後のスイーツとか、女の物だけじゃないし……何か、あついし……ハチに生まれ変わるのもいいかも。目玉とか、針とか、かっこいいし……」
「季利、お前眠いんだろ」
「うん……ねむい、かも」

 友人の低い声がもっと眠りを誘い、返事はとろとろに崩れる。

「夜眠れてないのか? 家が嫌ならうちに来い。それから寝ろ」
「うん、でも五分だけ、ほっといて……それから行く……煮物食べたいし……」

 眠くなるとダラダラと喋り続ける癖を知っている友人は、身を乗り出し季利を覗きこんできた。
 目を閉じていても、顔にかかる影を空気の動きですぐそこに友人の顔があることが何となくわかる。でも眠気に襲われているし、そちらに引き戻されるつもりもなかった。
 目にかかる位置にある髪を友人の指先が払う。

「お前、顔色悪くない?」
「ん……気のせい……夏バテ」
「季利って細くてもそんな質じゃないだろ。病院行けよ、面倒とか言わずに。そんで、もっと食って太れ」
「……ん」

 夏休みが終わる前にはここを離れる。それまでは準備で落ち着かない日々が続く。
 きっと自分は病院には行かないだろうと思いながら、季利は眠りに落ちた。

「季利……」

 だから唇の上を撫でる人肌に気付かない。
 戸惑いさまよっていた指も、見た目より柔らかな唇も、愛しい名前を呼ぶ甘い声も、永遠に知らないまま。
 別れとなる時は、二人の上に浮かぶ厚い雲の向こうにもう控えていた。
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