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「自分らしさ」とは
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この世界は誰かが定めた概念によって形成されている。例えば、釣具が魚を釣るための道具であることを自ら発見したものはほとんどいないだろう。他人が魚を釣るための道具であると定めた情報に触れたことで知ったのだろう。
我々は、誰かが定めた概念の上を歩いている。
ならば、「自分らしさ」とは何なのか?
この世界は確かに、多くの既存の概念や定義によって形作られている。しかし、「自分らしさ」とは、そういった既存の枠組みの中で、自分自身がどのように存在し、どのように反応するかを決める内なる指針のようなものかもしれない。
「自分らしさ」は、与えられた概念や情報をただ受け入れるのではなく、それらに対して自分なりの解釈や価値判断を加えることから生まれるのかもしれない。例えば、釣具が魚を釣るための道具だと知った後、その情報をどう受け止め、どう活用するかは個人によって異なりるだろう。ある人は釣りに熱中し、別の人は環境保護の観点から釣りに疑問を感じるかもしれない。
また、「自分らしさ」は、様々な経験や出会いを通じて形成される独自の視点でもある。同じ情報や環境に触れても、個人の背景や価値観によって、その受け取り方や反応は異なるはずだ。この独自の視点こそが、「自分らしさ」となるのではないではないだろうか。
さらに、「自分らしさ」は固定的なものではなく、時間とともに変化し成長するものでもある。新しい経験や学びを通じて、自己の認識や価値観は常に更新されていくだろう。
つまり、「自分らしさ」とは、既存の概念や定義の海の中で、自分なりの航路を見出し、進んでいく力であり、そのプロセス自体とも言える。それは、与えられた世界の中で、自分自身の意味や価値を探求し続ける旅なのかもしれない。
しかし、日常生活の中で形成される「自分らしさ」は、往々にして社会的な期待や役割、あるいは単なる習慣の集積に過ぎない可能性があり、表面的なものなのかもしれない。その「自分らしさ」は本当に自分のものなのか?他人の概念や思想に触れたことで生じた産物ではないのか?
昔の人間と今の人間は同じもの、例えばコロッセオでの試合を見た場合、古代ローマ人は面白いものだと感じるだろう。しかし、現代人は野蛮なもの、悲惨なものだと感じるのではないか?これは教育や思想の差が影響しているのかもしれない。
記憶を消して1年前にタイムスリップしたとしても、1年後には全く同じ経験を得て、同じ状況を迎え、同じ思想に辿り着いているのではないだろうか?
つまり、「自分らしさ」とは教育、思想、社会、環境などの外的要因によって形成された産物に過ぎず、「自分らしさ」とは言えないのではないか?
個人による思考、感想の違いも、環境や経験、状況の違いによって生じるものであり、我々が「自分らしさ」と考えている個人の感想や行動も、すべて過去の経験や遺伝、環境によって決定づけられているのではないだろうか?この世界の結果も過程もすでに決められたもので、我々はそれに従って生きているだけなのではないか?
ここでハイデガーの考えを引用したいと思う。彼は死を直視してこそ、本来性を獲得できると主張した。死を直視する行為は、ただ死を認識するだけでなく、自分の存在の有限性を理解し、受け入れることを意味する。例えば、一ヶ月以内に死ぬと知れば、ほとんどの人間は今とは違う行動をするだろう。我々は、死を自分自身に訪れるものではなく、未来の自分に訪れるものとして捉えて死の不安から逃れているのである。
ハイデガーが指摘するように、死を直視して自分の存在の有限性と向き合うことで、日常の慣れや社会的制約を離れ、初めて、我々は本来の「自分らしさ」を獲得することができるのかもしれない。今までに経験した状況や思想から切り離され、より本能的な欲求に従順になるのではないだろうか。そのプロセスを通じて、我々は日常の些事や社会的な制約から解放され、真に自分にとって重要なものは何かを見出す機会を得ることができるのだ。
しかし、ここで一つ言っておきたいのだが、私は決して「自分らしく」生きていないことを批判しているわけではない。むしろ問題なのは、過度に「自分らしさ」や「本来性」に囚われ、社会に埋没出来ないことだと考えている。「自分らしさ」を抑え、「des man(ひと)」として社会に埋没する行為。これは、人間特有の理性、つまりは「人間らしさ」なのではないだろうか?
ソクラテスは、人間を社会的動物であると述べた。理性、道徳、倫理、論理は人間を人間たらしめる重要な概念であり、尊厳でもある。これらの概念に基づいて行動することで、我々は社会的動物となり、他人、そして社会と向き合い続けることが出来るのである。
カントの哲学において、自由と道徳法則は密接に結びついている。カントは「自由」を単なる欲望の追求や外的制約からの解放としてではなく、道徳法則に従う能力として定義した。この視点から見ると、真の「人間らしさ」とは、自らの理性を用いて普遍的な道徳法則を認識し、それに従って行動する能力にあると言えるだろう。
カントの義務論は、行為の結果ではなく、その動機や意図に焦点を当てている。彼の有名な定言命法、「あなたの行為の格率が普遍的法則となることを欲することができるように行為せよ」は、個人の行動が普遍的な道徳基準に合致すべきだという考えを表している。この観点から、「人間らしさ」とは、個人的な欲求や感情を超えて、普遍的な道徳原則に基づいて行動する能力だと解釈できるのではないか。
ここで重要なのは、カントの言う「自由」が、単なる気まぐれや恣意的な選択ではなく、理性的な判断に基づく自己決定を意味することだ。つまり、「人間らしさ」の核心は、理性を用いて自らの行動を道徳法則に従わせる能力にあるのだ。
この観点から見ると、先ほど議論した「社会に埋没する」ことの意味も、新たな解釈が可能となる。社会に埋没することは、単に個性を失うことではなく、より高次の道徳的判断に基づいて、社会全体の利益のために自己を律する能力を示しているのかもしれない。これこそが、カントの言う「義務」の本質であり、真の「人間らしさ」の表れと言えるのではないだろうか。
さらに、カントの思想を通じて「自分らしさ」と「人間らしさ」の関係を考えると、興味深い結論に達した。「自分らしさ」の追求が、時として自己中心的な行動につながる可能性があるのに対し、「人間らしさ」の追求は、普遍的な道徳法則に基づく行動を促す。つまり、真の「人間らしさ」を追求することで、より高次の「自分らしさ」を獲得できるのではないだろうか。
しかし、ニーチェはこの「人間らしさ」を獲得するための行動をただの道徳の奴隷であると批判するだろう。道徳は弱者が強者を縛り付けるために創り出したものであり、人間の本来性や創造性を抑圧するものであるため、それに従ったところで「人間らしさ」は得られない、彼はそう反論するだろう。
だが、私はそうは思わない。なぜなら私にとって「人間らしさ」を獲得するための道徳への従事は、人間にしか出来ない行為であり、人間としての義務であり、尊厳であると考えているからだ。社会規範に従うことは単なる「道徳奴隷」ではなく、我々の「被投性(現存者が存在者として「現」の中に投げ込まれること)」を認識し、その中で自らの「企投(被投という形で生を受けた人間は、常に自己の可能性に向かって存在していること)」を行う過程であると、見ることができるのではないだろうか。
結論として、「人間らしさ」の重要性は、それが単なる個人の特性や好みを超えた、普遍的な道徳的価値を体現する点にある。それは、理性を用いて自らの行動を律し、社会全体の利益を考慮に入れた判断を下す能力を意味する。この「人間らしさ」を追求することで、我々は単なる生物学的な存在を超えて、道徳的な主体として成長し、真の意味で「自由」を獲得することができるのだ。
私は今までも、そしてこれからも「des man(人)」として、社会に埋没していくのだろう。しかしそれは決して悲観的なものではなく、それこそが人間の存在や義務、そして尊厳そのものであり、社会を形成するための「人間らしさ」だろう。ツァラトゥストラもそうだそうだと言っています。
もちろん、私が執筆するなろう小説も、変に「自分らしさ」を押し出すことなく、読者に寄り添って執筆していくのだろう。
我々は、誰かが定めた概念の上を歩いている。
ならば、「自分らしさ」とは何なのか?
この世界は確かに、多くの既存の概念や定義によって形作られている。しかし、「自分らしさ」とは、そういった既存の枠組みの中で、自分自身がどのように存在し、どのように反応するかを決める内なる指針のようなものかもしれない。
「自分らしさ」は、与えられた概念や情報をただ受け入れるのではなく、それらに対して自分なりの解釈や価値判断を加えることから生まれるのかもしれない。例えば、釣具が魚を釣るための道具だと知った後、その情報をどう受け止め、どう活用するかは個人によって異なりるだろう。ある人は釣りに熱中し、別の人は環境保護の観点から釣りに疑問を感じるかもしれない。
また、「自分らしさ」は、様々な経験や出会いを通じて形成される独自の視点でもある。同じ情報や環境に触れても、個人の背景や価値観によって、その受け取り方や反応は異なるはずだ。この独自の視点こそが、「自分らしさ」となるのではないではないだろうか。
さらに、「自分らしさ」は固定的なものではなく、時間とともに変化し成長するものでもある。新しい経験や学びを通じて、自己の認識や価値観は常に更新されていくだろう。
つまり、「自分らしさ」とは、既存の概念や定義の海の中で、自分なりの航路を見出し、進んでいく力であり、そのプロセス自体とも言える。それは、与えられた世界の中で、自分自身の意味や価値を探求し続ける旅なのかもしれない。
しかし、日常生活の中で形成される「自分らしさ」は、往々にして社会的な期待や役割、あるいは単なる習慣の集積に過ぎない可能性があり、表面的なものなのかもしれない。その「自分らしさ」は本当に自分のものなのか?他人の概念や思想に触れたことで生じた産物ではないのか?
昔の人間と今の人間は同じもの、例えばコロッセオでの試合を見た場合、古代ローマ人は面白いものだと感じるだろう。しかし、現代人は野蛮なもの、悲惨なものだと感じるのではないか?これは教育や思想の差が影響しているのかもしれない。
記憶を消して1年前にタイムスリップしたとしても、1年後には全く同じ経験を得て、同じ状況を迎え、同じ思想に辿り着いているのではないだろうか?
つまり、「自分らしさ」とは教育、思想、社会、環境などの外的要因によって形成された産物に過ぎず、「自分らしさ」とは言えないのではないか?
個人による思考、感想の違いも、環境や経験、状況の違いによって生じるものであり、我々が「自分らしさ」と考えている個人の感想や行動も、すべて過去の経験や遺伝、環境によって決定づけられているのではないだろうか?この世界の結果も過程もすでに決められたもので、我々はそれに従って生きているだけなのではないか?
ここでハイデガーの考えを引用したいと思う。彼は死を直視してこそ、本来性を獲得できると主張した。死を直視する行為は、ただ死を認識するだけでなく、自分の存在の有限性を理解し、受け入れることを意味する。例えば、一ヶ月以内に死ぬと知れば、ほとんどの人間は今とは違う行動をするだろう。我々は、死を自分自身に訪れるものではなく、未来の自分に訪れるものとして捉えて死の不安から逃れているのである。
ハイデガーが指摘するように、死を直視して自分の存在の有限性と向き合うことで、日常の慣れや社会的制約を離れ、初めて、我々は本来の「自分らしさ」を獲得することができるのかもしれない。今までに経験した状況や思想から切り離され、より本能的な欲求に従順になるのではないだろうか。そのプロセスを通じて、我々は日常の些事や社会的な制約から解放され、真に自分にとって重要なものは何かを見出す機会を得ることができるのだ。
しかし、ここで一つ言っておきたいのだが、私は決して「自分らしく」生きていないことを批判しているわけではない。むしろ問題なのは、過度に「自分らしさ」や「本来性」に囚われ、社会に埋没出来ないことだと考えている。「自分らしさ」を抑え、「des man(ひと)」として社会に埋没する行為。これは、人間特有の理性、つまりは「人間らしさ」なのではないだろうか?
ソクラテスは、人間を社会的動物であると述べた。理性、道徳、倫理、論理は人間を人間たらしめる重要な概念であり、尊厳でもある。これらの概念に基づいて行動することで、我々は社会的動物となり、他人、そして社会と向き合い続けることが出来るのである。
カントの哲学において、自由と道徳法則は密接に結びついている。カントは「自由」を単なる欲望の追求や外的制約からの解放としてではなく、道徳法則に従う能力として定義した。この視点から見ると、真の「人間らしさ」とは、自らの理性を用いて普遍的な道徳法則を認識し、それに従って行動する能力にあると言えるだろう。
カントの義務論は、行為の結果ではなく、その動機や意図に焦点を当てている。彼の有名な定言命法、「あなたの行為の格率が普遍的法則となることを欲することができるように行為せよ」は、個人の行動が普遍的な道徳基準に合致すべきだという考えを表している。この観点から、「人間らしさ」とは、個人的な欲求や感情を超えて、普遍的な道徳原則に基づいて行動する能力だと解釈できるのではないか。
ここで重要なのは、カントの言う「自由」が、単なる気まぐれや恣意的な選択ではなく、理性的な判断に基づく自己決定を意味することだ。つまり、「人間らしさ」の核心は、理性を用いて自らの行動を道徳法則に従わせる能力にあるのだ。
この観点から見ると、先ほど議論した「社会に埋没する」ことの意味も、新たな解釈が可能となる。社会に埋没することは、単に個性を失うことではなく、より高次の道徳的判断に基づいて、社会全体の利益のために自己を律する能力を示しているのかもしれない。これこそが、カントの言う「義務」の本質であり、真の「人間らしさ」の表れと言えるのではないだろうか。
さらに、カントの思想を通じて「自分らしさ」と「人間らしさ」の関係を考えると、興味深い結論に達した。「自分らしさ」の追求が、時として自己中心的な行動につながる可能性があるのに対し、「人間らしさ」の追求は、普遍的な道徳法則に基づく行動を促す。つまり、真の「人間らしさ」を追求することで、より高次の「自分らしさ」を獲得できるのではないだろうか。
しかし、ニーチェはこの「人間らしさ」を獲得するための行動をただの道徳の奴隷であると批判するだろう。道徳は弱者が強者を縛り付けるために創り出したものであり、人間の本来性や創造性を抑圧するものであるため、それに従ったところで「人間らしさ」は得られない、彼はそう反論するだろう。
だが、私はそうは思わない。なぜなら私にとって「人間らしさ」を獲得するための道徳への従事は、人間にしか出来ない行為であり、人間としての義務であり、尊厳であると考えているからだ。社会規範に従うことは単なる「道徳奴隷」ではなく、我々の「被投性(現存者が存在者として「現」の中に投げ込まれること)」を認識し、その中で自らの「企投(被投という形で生を受けた人間は、常に自己の可能性に向かって存在していること)」を行う過程であると、見ることができるのではないだろうか。
結論として、「人間らしさ」の重要性は、それが単なる個人の特性や好みを超えた、普遍的な道徳的価値を体現する点にある。それは、理性を用いて自らの行動を律し、社会全体の利益を考慮に入れた判断を下す能力を意味する。この「人間らしさ」を追求することで、我々は単なる生物学的な存在を超えて、道徳的な主体として成長し、真の意味で「自由」を獲得することができるのだ。
私は今までも、そしてこれからも「des man(人)」として、社会に埋没していくのだろう。しかしそれは決して悲観的なものではなく、それこそが人間の存在や義務、そして尊厳そのものであり、社会を形成するための「人間らしさ」だろう。ツァラトゥストラもそうだそうだと言っています。
もちろん、私が執筆するなろう小説も、変に「自分らしさ」を押し出すことなく、読者に寄り添って執筆していくのだろう。
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