落ちた月

はいすい

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落ちた月

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静かに徳利が置かれる。男は縁側で酒を飲んでいた。男にとっての目標は酒を飲む事ではなく、酔う事であることは当の本人すら知らない事だった。前面の池を見る。数年前までは何匹かの鯉がいた池である。東には月があった。男は月を見ていると漠然とした感情が胸にこみ上げてきた。月を見、酒を飲む、そんな事を繰り返しているうちに昔あった数々の出来事を思い出した。親と出会い、親友と出会い、子と出会い、親が死に、子が巣立ち、妻と別れ、親友が死に、今に至る。他人から見れば何の面白みもない人生であった、しかし男にとっては喜びもあれば、悲しみもあった慌ただしい人生であった。若い頃は何でも出来るという根拠のない自信が体全体を包んでいた、しかし今はどうか、筋力も衰え、人に自慢できるものは何もない。他人から笑われて当然の状態であった。冷たい風が吹く。まるで男の感情を表しているようではないか。酒がどんどんなくなっていく。だが男はまったく酔えなかった。昇る月、なくなる酒が男をどんどん追い詰めた、男は追い詰められるほど月が綺麗になり、酔えるような気がした。いつしか別れたはずの妻が横に座り取り留めもない話をしている気がした、もちろんそんなものは男の幻想である。だが男は幻想をより鮮明に見えるように祈った、しかしすぐに霧散する。なくなったものはもどらない、そんな事男は十分すぎるほどわかっていた。だが求めずにはいられなかった。昔ならそんな事夢にも思わなかったであろう。胃の中には酒が入り込む空間がまだある。いつしか空の中心に月が昇っていた。その月が池に写り、男の目に入った。それを見ているうちに男の中にある考えが浮かんだ
「私も落ちたな」
月は見事な満月であった。
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