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1 ストレンジャー(1)
しおりを挟む当たり前の夜。
当たり前のざわめき……。
───新宿二丁目。
人通りが絶えず賑やかでありながら、どこか一触即発の緊張感も拭えない不夜城に、『彼』は足を踏み入れた。
───もっともそのこと自体に特別な感慨はない。
夜の繁華街に怯える子ども時代はとっくの昔に過ぎ去っていたし、逆に粋がって歩きたがる年頃でも───すでになかった。
その若い時分───遊び盛りの青年の頃と変わらず都内に住んでいても、自分も周囲の人間も仕事を持ち、忙しくなってしまった今となってはこんな場所に足を向ける機会もめっきりなくなっていた。
そんな風にずいぶん久しぶりに足を踏み入れた街の一隅で、彼は主に内向きの理由から───それでなくとも真面目そうな、整った顔立ちを曇らせ、いかにも何かに気を奪われているような態度で足早に歩いていた。
やがて彼は、電信柱に打ち付けられた見にくい番地表示の前で足を止めると、周囲をおもむろに見回した。
辺りはすでに繁華街の中でも、一種異様な…、と感じさせる一角に移っていた。
彼───葛城祐介は、電信柱から数メートルと離れていない平屋の店の前に歩み寄ると、飾り気一つない木調のドアに手をかけた。
ガチャガチャ、とノブを回してもドアは開かなかい。
代わりに、
「すいませんね、ウチは会員制なんですよ」
と、ドアの中央の目の高さにある小窓から慣れた風な若い男の声がした。
「……会員を知ってる」
彼はぶっきらぼうに言ったが、それは若々しくよく通る声だった。
もっとも彼───祐介は、自分が今どんな声を出しているのか、想像もしていなかったが。
「───失礼しました。会員様のお名前を言っていただけますか?」
「藤沢……」
「申し訳ありませんが、下のお名前も」
「───ワタル」
「少々お待ちください。……どうぞ」
「───」
ドアは呆気なく開いた。
基本は単なるクラブだ。
会員制を謳っているとはいえ、それほど厳しく入店制限を行っているわけではないのだろう。
要するにここがどんな店かわかっていれば……。───冷やかしでなければ。
彼が一歩店の中に足を踏み入れた途端、潮騒のように、今時のハウス・ミュージックが押し寄せてきた。
目の前の地下へと続く短い階段を下りると、ブルーを基調にした深海のような───実際の深海は暗闇だろうが───典型的なナイト・クラブの様相が目の前に拓けた。
クルクルと動く青と赤の照明の下、体を寄せ合うように踊る人々の姿が蠢いている。
BGMはもう潮騒どころではない。耳をつんざく───まではいかないが、それでもかなり近くで喋らないと人の声が聞こえないようなボリュームだった。
そこには男しかいない。
階段を下りきったところで足を止めた彼を、通り過ぎる男たちがじろじろと眺めていく。
彼は右手にカウンターがあるのに気づくと、そちらへ歩み寄った。
「いらっしゃいませ。なんにします?」
彼がスツールに腰を収めるより先に、目の前に来ていたバーテンダーが尋ねた。
「……ビールを」
「どれになさいます?」
メニューを広げる。
「……ギネス」
「かしこまりました」
若いようにも見える、白いシャツに黒いベストを身につけた、いかにも水商売風のバーテンダーは、少し離れたところで手早くグラスを黄金色に満たすと再び彼の前にやって来た。
「ありがとう」
「ごゆっくり」
「きみ……」
彼は踵を返そうとする相手を呼び止めた。
「はい?」
「その……人を探してるんだけど」
「………」
その瞬間、バーテンダーは無表情を装って、素早く祐介に視線を巡らせた。
無造作に羽織った焦げ茶のジャケットの下は、黒いTシャツ、黒いズボン。
目立つほど長身ではないが、それでも日本人男性の平均は超えていて、決して派手な雰囲気ではないが、どこか垢抜けているのは確かだった。
それよりもなによりも、一目でその手の人間でないことが分かる、三十歳前後の、一見好青年───。
その『彼』が、硬い声音で口を開いた。
「ここの会員で、藤沢航って子を……」
「申し訳ありませんが」
バーテンダーは柔らかい語調で───しかし断固と───遮った。
「そういったことにはお答えできないことになっております」
隙のない口調だった。
咄嗟に言葉を飲み込んだ祐介は、ここでは自分が異邦人であることを意識せざるを得なかった。
このクラブがどういう類の店かを知っていて、それでもここに来ることを決めた時から、それは覚悟の上だったが……。
バーテンダーは礼儀正しく離れていった。
さすが客商売だ。とりつく島もない。
あとは客かウェイターに当たるしかないが、店の人間は皆こんな感じに統制が取れているのだろう。
すると、ここにいる客に片っ端から聞いていくしかないのか…、と、彼は、その無謀さにフーッと思わず溜め息を吐いた。
当たり前だが素人に『人捜し』は難しい。
あるいは、ここがもう少し彼にとって近い世界であれば……。
───と、その時。
彼は視界の端になにかが引っかかったような気がして、改めてそれに焦点を合わせると、二つスツールを隔てた隣、彼を見つめる瞳にぶつかった。
少年……───のようだった。
大きな黒々とした瞳と───天然パーマなのか、くるくると額やこめかみに踊る───これもまた漆黒の髪が印象的だった。
美少年と言い切るには、少し個性的すぎる容貌ではあったが。
なにより、グレイのTシャツの上にえんじ色のチェックのシャツを羽織ったその風体は、そこら辺にいる若者たちとなにひとつ変わらない。
色褪せたジーンズが細く長い足にぴたりと張りついていた。
「きみ……」
祐介が体をそちらに向けて話しかけると、相手は、自分?といった顔をした。
意味ありげな視線を寄越していたくせに。
「藤沢航って子、知らない?」
祐介は自分に躊躇する間を与えず、直截に尋ねた。
BGMは今は気怠げなバラードに変わっていたが、やはり少し声を張り上げる必要があった。
それでも相手の耳に届いたかどうかははっきりとは分からなかったが、彼は、この少年が自分とバーテンダーのさきほどの遣り取りを聞いていたような気がした。
「……なんで……」
「え?」
祐介より小さい相手の声は、BGMに紛れて聞き取りにくかった。彼は席を一つ移動して、相手に近づいた。
すると、
「なんで探してんの?」
二人の間にはまだスツール一つ分の距離があったが、相手の少年は幾分祐介の方に体を傾けるようにして言った。
見た目の印象よりは少し低めの、ハスキーな声音。
それでも十分“少年”じみていたが……。
「それは……」
「知ってるけど。フジサワワタル」
「!」
言葉を失った祐介を、少年は面白そうに、そして探るように見返した。
「探してんじゃねーの?」
「ああ」
「なんで?」
「………」
「誰だかわかんねーヒトに、教えらんないっしょ」
「………」
言葉遣いはともかく、言っていることは理に適っている。
とはいえ、祐介にとってそれは一言で説明できるようなものでも、誰彼問わず話せるような内容でもなかった。
「───怪しい人間じゃない」
「そうだろうけどね……」
誰でもそう言うだろう、とばかりに少年は苦笑した。
その様子は相手を小馬鹿にしているようにも見えなくはない。
しかし祐介は、それよりも相手の大人びた雰囲気に内心驚いていた。
もしかしたら案外十代───“少年”ではないのかもしれない。
その割に彼はやはり子どもっぽい、どこかシリアスになりきれない陽気さも───あるいは軽薄さも───身に纏っていた。
“若い”ことには違いないのだろう、と祐介は結論づけた。
「まーコワイヒトやケーサツには見えないけど……」
警察───。祐介はふっと、その言葉を悪い意味で連想した。
「……森田あやの兄だと言えばわかる」
「モリタアヤ……?」
「そういえば藤択航には通じるはずだ」
「つまりオレには……人にはあんま言いたくない理由で探してんの」
少年はどこか揶揄うような表情を作った。
顔立ちの派手さはともかく、それ以外はどう見ても普通の少年のようなのに、こういった店で、余裕ありげにカウンターに肘を付いているところは堂に入っている。
「個人的な用なんだ」
「ふうん?」
相手は面白そうに祐介を眺めた。
思いがけず───すぐに見つかった『手がかり』を、彼は息を潜めて見守った。
少年の小さな顔を縁取る癖の強い黒髪は、後ろはさっぱりと短いが、前は少し長めで、整った顔立ちをより華やかに演出している。
外見にはそれなりに気を遣っている今時の若者のようだ。
だが不思議なことに、整った容姿や人懐っこい態度を、明るいが乾いた光を浮かべる大きな目が裏切っている。
───もっともそのアンバランスさも彼の魅力のひとつなのかもしれないが……。
祐介は遅ればせながら、自分が無意識のうちに相手を観察している間に───相手もまた、自分をつくづくと眺めていることに気がついた。
「……きみ、いくつ?」
彼は目の前の少年と『藤沢航』の接点を探るためにそんな台詞を口にした。
すると、
「お兄さんは?」
すかさず返された。
「オレより年上だよねぇ……」
「当たり前だろ」
「いや、オレ結構年食ってるよ。大学生だもん」
「………」
「いくつに見えた?」
「高校生くらいかと……」
慣れているのだろう、相手はニヤリと笑った。
その時点で遅れて祐介は、この店には未成年はいられないことを思い出した。
───そんなことさえ失念していたのだ。
自分では平静だと思っていたが、やはり気がつかないうちにこの店の異様な雰囲気に飲まれていたのだろう。
「オレの年、知りたい?」
高校生ではなく大学生なら……世の中を舐めた態度に出る、その最たる年代なのかもしれない。
「ああ───」
頼む、と言いかけると、
「あんたがここで、オレとキスしたらね」
と語尾を奪うように言葉が重ねられた。
「!?」
絶句した祐介がまじまじと相手を見返すと、少年───いや青年は、ニヤニヤと楽しそうに質の悪い笑みを浮かべながら、席をひとつ詰めたので、彼らはさらに間近で顔を突き合わせることになった。
「───」
黒い瞳、二重のくっきりとした大きな目は、すぐ近くて見るとまるで吸い込まれそうに迫力がある。
頬もつやつやと真珠色に輝いていた。
それが若さというものなのか……。───夜中まで遊んでいても何の影響も受けないらしい。
「……そこまでつき合う気があんなら教えてやるよ」
「───」
囁きは直接、祐介の耳に注ぎ込まれた。
その言葉は、彼がここでは招かざる客であることをはっきりと告げていて───なおかつ、そのことの代償をきっちりと払うよう迫っているかのようでもあった。
「……冗談……」
「いやぁ? 冗談じゃねーけど?」
「………」
祐介は黙ってスツールから降りた。
すっと伸びた鼻梁を見せるその横顔は、正面から相対した時の実直な印象とは裏腹に、どこか人を寄せつけない冷たい雰囲気をたたえている。
だが若者はそれにたじろぐ様子も見せず、
「───あんたがここに来るような人間じゃねーってのは見ただけでわかんだよ。そんなヤツに教えるわきゃねーじゃん」
と二重の意味で容赦のない言葉を投げつけた。
もっとも祐介の方もその程度で傷つくような神経は持ち合わせていない。そのまま黙って踵を返そうとする彼に、若者はなおも言葉を重ねた。
「いーの? オレ以外、藤沢航の居場所、わかんねーと思うけど」
思わせぶりな言葉に、彼はゆっくりと振り向いた。
その内容に引かれてではない。そもそも教える気などない相手の挑発気味の台詞に不審を覚えたのだ。
しかし相手は無意識に険しさを増した祐介の表情などどこ吹く風とばかりに、口調を変えず、瞳の清冽さを裏切る肉感的な唇を動かし、
「どーする?」
とだけ、ただ一言口にした。
「……本当に知ってるのか?」
軽口は許さないきつい口調だった。
「知ってるよ。……そいつも大学生だ」
無駄に言葉を重ねないのが、逆に説得力を感じさせた。
「───」
祐介は、反射的に拒否しかけて、それから自分が切実に『藤沢航』を探していることを思い出した。
彼は無言のまま二人の間のカウンターに手をつくと、スツールに座ったままの相手に合わせて上体を倒した。
あっさりともう片方の手で相手の肩を引き寄せる。
青年は躊躇う素振りも見せずに顎を持ち上げ───…。
…いい度胸だ───…
───スゥーッと周囲が色褪せる。
上下の唇で相手のそれを割る。
舌を侵入させると、柔らかい舌が絡んできた。
その動きには戸惑いも───逆に大胆さもなく、ただ慣れている…、と相手に感じさせただけだった。
熱のない、濃厚なキス。
綺麗に反らされた相手の白い喉がゴクリと鳴るほど、濃密に舌を絡ませ合い、飲み込み合い……。
相手の唇を紅く染めると、彼は顔を離した。
……口づけだけなら男も女もない。
再び周囲は色づき、動き始めた。
BGMは相変わらず強烈なビートを刻んでいる。
だが店中の者が息を飲んで、この、いきなり始まったディープなキスシーンを見守っていたことに───祐介は気づかなかった。
周囲に関心がないというより、一見なんでもないように振る舞っているように見えて、やはり彼も、この尋常ならざる事態に気持ちだけがどこか逃避を図っていたのだろう。
「───藤沢航はどこにいる?」
彼は相手の耳にだけ聞こえるように、低い、滑らかな声で囁いた。
すると相手は無意識にビクリと身を震わせると───それは他人からは、ただ彼が己の腕で自分を抱いたようにしか見えなかったが───素早く、目の前の相手に焦点を合わせた。
「───わかってる」
反射的に口元を手の甲で拭いながら、まるで祐介の性急さを揶揄するように薄く笑みを浮かべると、
「出よ」
と彼は素早くスツールから飛び降りた。
「おい」
若者はチラリとバーテンダーに目をやって、代金はあとで、とでもいうように手を振ると祐介の脇を通り過ぎた。
彼はそれで許されるのかもしれないが、一見客に過ぎず、また二度とこの店を訪れる気もない祐介の方はそうもいかない。ジャケットの内ポケットから薄い財布を取り出すと、慌てて勘定を済ませた。
そうして急いで店を出て行く様子を、その前のキスシーンからかなりの者が注目して見ていたが───当の二人がステージを去ってしまうと、店はまたすぐに元の喧噪に包まれた。
応援ありがとうございます!
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